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夕闇が廃墟の奥から染み出す。いっそ白い煤煙に包まれた空を、男は見上げた。上空に は低く唸る様に風が流れている。しかし地上の空気は淀んでいた。目の前を真っ直ぐと伸 びる大通りは瓦礫の他、影を落とすものは鼠一匹おらず、そう、ここには生き物はおろか 死体さえ存在しないのに空気は酷く淀み沼の底のような重苦しさと静けさに満ちていた。 ガラスのことごとく割れた窓、ぽっかりと口を開けた扉。どれもが不吉だ。背後で部下 の一人が意味もなく銃を揺すった。小さな音だったが、灰色の廃墟にそれはひどく大きく 響いた。 男は背後を一瞥した。頬に十字傷のある若い兵士がすぐに目を逸らし肩をすくめた。 その時遠くで微かに瓦礫の崩れる音が聞こえた。兵隊たちは一斉に振り向いた。夕闇の 中、白い土埃ははっきりと見えた。さっきの若い兵士がすぐさまライフルを構えた。彼の 動作は敏捷だった。土埃が舞った次の瞬間、彼の撃った弾は地面にめり込んでいた。 「人だ」 撃った兵士の隣で寄り目の男が眼鏡の奥の小さな目を更に細め、言った。確かに土煙に 向こう、駆け去る脚が覗き、建物の間の路地に消えた。傷の兵士が素早くジープを降りた。 「よせ」 男はジープから降り、腰の拳銃に手をかけた。先にジープを降りた兵士が睨むが無視す る。 「本隊に伝令。ここは制圧した。重てぇケツ上げてさっさと来やがれ」 男は装填された弾を確認し歩きだした。背後では無線連絡の雑音が聞こえた。 土埃の消えた路地に向かいながら、男は一瞬見えた脚が余りに細かったことを思った。 目が物憂げにそばまる。墓穴に半分埋まったままの人間達を無造作に撃ち殺すのと、路地 裏で食い物もなく痩せこけ逃げるのにも疲れはてた子供一人殺すのに何の心の変化が必要 だろうか。 路地の脇は周囲に比べ比較的崩壊の少ないビルだった。三階建て、屋根も落ちていない。 そして路地の側に目立たぬ木戸がある。僅かな隙間が男の目の前でゆっくりと閉まった。 男は路地に入り、しばらく路地の奥を眺めていたがだしぬけに木戸を開けた。 闇が急に濃くなった。整然と並ぶ窓がぼんやりと光っている。広い部屋だった。隅にた くさんの椅子と卓が乱雑に寄せてある。埃の積んだ床の上には転々と足跡がついている。 男は顔を上げた。 細い脚。男は目を見張った。古い靴は底が抜けかけている。その上から襤褸を巻いた脚 は座りこんではいなかった。踵を浮かせ、その体勢は今にも走りだそうとしている。 そして目が。髪の色と同じ一対の黒い目が、こちらを見ていた。 小柄な少年だった。学生、いやまだ若いだろうか。痩けた頬に髭はまだない。整えられ ずしてもう長い髪がてんで好き勝手に跳ねている。腕も脚も痩せ衰え普通ならばそこに余 力などない。 しかし少年はその脚のばねを十分に溜め、こちらを見ていた。地を駆ける獣が今にも走 りだそうとするかのように、男に隙さえあれば次の瞬間走りだすように見えた。 男は少年の目をじっと見つめた。そして目を細めた。真っ直ぐ見つめ返す視線に男の記 憶は揺さぶられていた。手が不思議と腰の銃に伸びようとしなかった。男は戸口に佇み、 静かな声で問った。 「まだ走るつもりか」 言葉をかけられるとは思わなかったか、少年の目が一瞬惑い、それからゆっくり頷いた。 「逃げきれると思ってんのか」 少年は黙って男を見返した。言葉にしなかったが、少年の目はもう惑ってはいなかった。 男はゆっくりと一歩一歩少年に近づいた。男が上から見下してもなお、少年は男から目 を離さなかった。 「…誰だ」 男が初めて言葉に沈黙を挟んだ。さっきからこの黒い目に頭の隅を揺さぶられてたまら ない。 少年は言葉を選びながらゆっくりと返した。 「選手……フットボールの……」 フットボール。官舎に設置されたテレビ。放送された対外試合の模様。皆が思わず歓声 をあげた。男も目を上げ、見た。一人の小柄な選手が敵のどんな手も振り解き、フィール ドの端から端まで駆け抜けたのを。白黒の画面に色付きのアイシールドは選手の顔を隠し た。しかし男には見えたのだ。アイシールドの奥、強い意志の光を宿した瞳が。 あの瞳は黒だったのか。 男は言った。 「アイシールド21だな」 少年の表情が変わった。懐かしい名に出会った、また忌まわしい名に出会った、そんな 感情を綯い交ぜにした顔だった。その名は彼の栄光も、また偽ることのできない彼の素性 も物語っていた。彼はその脚で何度となく男の国のチームをやぶったのだ。 男は少年の目の前にしゃがみこんだ。少年は一歩後ずさった。背に壁が当たった。 男が手を伸ばすと目を瞑った。男は目を瞑った少年の細い脚に触れた。靴から覗いてい るのは靴下も履いていない素足の、掌で包み込めそうな程細い足首だった。男は踝から靴 の上をそっと指でなぞった。少年が一瞬震え、目を開いた。 「まだ、走れるのか」 男は今一度問うた。 少年は首をゆっくりと縦に振った。 「そうか」 男は立ち上がった。背後で少年が身じろいだ。 「待ってろ」 男は言い捨てて裏木戸から外へ出た。 廃墟は夜の闇に沈んでいた。遠くに部下達の焚く火が見えた。おそらく肉とパンを焼く はずだ。男は振り返らず、真っ直ぐとそこへ向かった。背後を心配する必要はなかった。 あの少年は必ず待つだろうと、そう思った。 * セナは埃を被った床に手を滑らせ、そっと横になった。耳を冷たい床に押し当て階下の 喧噪を聞く。無線連絡の喚き、床を高らかと踏み鳴らす軍靴の音。あの中に昨晩の将校の 靴音もまじっているのかと思うと心からけして拭い去ることのできない恐怖が水底の泥を かき回すように湧いてくるのを感じた。 目が合ったあの瞬間感じた恐怖。あの鋭く冷たい双眸に。 セナは細く息を吐きながら目を瞑った。わやわやと屋根裏の床を震わす声たち。昨日ま ではそれが聞こえることさえ恐ろしくてたまらなかった、人間の声。それがこんなにたく さん、当たり前のように鼓膜を震わせている。 床に直に押しつけた耳は凍えるようだった。セナは僅かに頬を浮かせ、すっかり痩せこ けた自分の掌を滑らせその下に敷いた。 「可愛らしい寝姿だな、おい」 囁き声が耳元を掠めた瞬間、セナは全身を硬直させ目を見開いた。 あの目と出会った。 冷たい青い目が、自分を見つめ、皮肉めいた笑みを浮かべている。 セナはゆっくり一息を吐き出すと、腕を枕に、ゆっくり一度瞬いた。 男が運んできたのは食料だった。焼き上げられたパン、炙った肉、アルコール。 昨晩、セナは恐怖と戦いながらも、埃にまみれたホールで待っていた。果たして、男は やってきた。そして屋根裏に潜むように言った。 「明日の朝、早くに下に兵隊どもがやってくる。が、まあビビるな。敵の懐の中ほど安全 な場所もねえからな」 それから食料を持ってくることを約束した。 セナはそれを本気にした訳ではなかった。しかし男は約束を守り、今目の前に立ってい る。 「…喰わねえのか」 「食べて…いいんですか?」 何のための食い物だ、と男は呆れたように言った。 男は夜になると食料を持って屋根裏に顔を出した。それから毛布を一枚くれた。乾いた、 暖かい毛布だ。男はいつも数分しか屋根裏にいなかったが、その短い間に言いたいことを ぶっきらぼうに言い捨てていった。主に腹は足りているかとか、またアルコールで悪酔い してないかとかいうことだった。最初の日、パンを喉に詰まらせアルコールを一気飲みし たセナは、酔っ払って今にも外へ走り出そうとし、その後すぐに昏倒したが男は随分ヒヤ ヒヤしたらしい。 「酒癖悪ィな」 と男は面白そうに笑った。 * 激しい銃撃戦が続いていた。もう何日も建物に人間はいなかった。外へ出て銃を片手に 戦っているか、それとも死んだかだ。 男は銃弾に深く抉られたヘルメットを脱ぎ、幽霊のように気配を消して建物の中に滑り 込んだ。部下も半分は鉛弾の餌食になった。川の向こうには北の兵隊がぎらついた目で自 分達を狙っている。明日にはこの町に旗が立てられ、彼らの戦果となるだろう。何も殉死 することはない。消えるなら今夜がチャンスだ。 しかし男はこの建物にやってきた。 屋根裏は耳が痛くなるほどの静けさだった。そしてひどく寒かった。小さな窓から微か に光が落ちていた。その下に少年の身体は横たわっていた。 もどかしげに手袋の指を噛み、脱ぎ捨てる。人形のように首が折れるのを男は支えなく てはならなかった。のけ反った喉は蝋のように白く冷たく、浮き出た骨に触れるのを躊躇 われる程細かった。衰弱は目に余るものだった。自分がここにいなかった数日間。三日前 から降り止まない雪。薄く開いた眼は死人を連想させたが、しかしそれでもまだ生きてい る。荒れた唇の端に乾いた微かな息が通っている。 「聞こえるか」 男は声を押し殺し囁く。 「口を開け。…聞こえるか」 新聞でくるんだ包みに指を突っ込む。ジャムのベトつく冷たさをすくいとる。少年の口 元を注視する。動く気配はない。男は唇を割ってジャムにまみれた指をねじこんだ。 舌の体温さえ奪われていた。男はジャムを舌の上になすりつけた。そのままじっと唾液 が湧き出すのを待つ。 乾いた息が指の背を微かに撫でる。焦れた男は指を引き抜いた。今度は量を見て二本の 指にジャムをすくい取る。それを口の中に突っ込み耳元に囁いた。 「舐めろ」 指で舌を押す。ジャムをなする。すると指の腹に微かな筋肉の収縮が感じられた。 唇が動く。舌が指に押し付けられる。うっすらと開きっぱなしだった瞼が閉じる。開い た口の隙間からはっきりと溜め息が漏れた。 唇が閉じ、がさがさの皮膚が男の指を挟む。それが少しずつ濡れ始めた。 舌がぎこちなく動き出した。指の腹を舐め、側面を舐め、爪を舐め、舐め尽くすとその 少し骨ばった指に吸い付いた。その時初めて湿った音がこの屋根裏にも響いた。 男が指を抜こうとすると、少年はそれを力の入らぬ歯で噛んで引き止めようとした。 「やめろ」 少年の目が開いた。 男はゆっくりと指を引き抜くと、唾液に濡れた指で剥き出しのパンを掴み少年の口元へ 運んだ。次の瞬間、少年は目の色を変えて堅いパンにかじりつこうとした。 「待て…」 男は首を支える腕に力を込め、今にも飛びかからんばかりの少年を制した。 牛乳の壜がある。指先で器用に蓋を外し一口飲ませる。 その時、少年が手を動かした。一口飲んだ牛乳の壜を自分の手で掴むと、彼は震えなが らそれを自分の口元に運んだ。男はそっと手を添わせた。 加減がうまくいかず牛乳は一筋、口の端から線を引いて溢れた。男は指先でそれを下か ら拭い、少年の唇になすりつけた。 少年が男を見上げた。そして唇を開き、その指を挟んだ。温かな湿った息が感じられる。 少年は舌先で男の指をゆっくりと舐めた。初めはなぞるように。やがてそれを根元までく わえこみ切なげな息を漏らした。 「食うなよ?」 男は微苦笑を漏らす。それが初めて男の緊迫しきった声にも感情を刷いた。 男は指先を折り曲げ、舌の形をなぞった。唾液にたっぷり濡れた舌と栄養不足でぐらつ き始めた歯。痩せた歯茎をそっと撫で、なだめるように指を退かせる。そのかわり口づけ た。乾いた唇を自分の舌で湿し、柔らかく噛んで、もう一度ゆっくりと唇を合わせた。少 年は両手で牛乳の壜を握り締めたまま、懸命に首を起こし、自分から少しでも相手に触れ ようとした。 少年はすぐに息切れを起こした。男はまた手を添えて牛乳を一口飲ませると、今度こそ 少年の手にパンを握らせた。少年はしばらくぼうっとしていたが、やがてその黒い目が焦 点を結び始めた。少年はゆっくりとパンにかじりつき、一口分のそれを咀嚼してまた牛乳 を飲んだ。男がジャムの包みをやると、黙ってそれを口に入れた。また溜め息が鼻を通っ て漏れた。生きた人間の溜め息だった。 男は抱いた体をひび割れた壁にもたせかけ、立ち上がった。少年がパンから目を離し、 男を見上げた。 「ここの本部は解散された。俺も行く」 そして深い緑のコートを脱ぎ、少年を包むように肩にかけた。呆然と見返す少年に床の 上の新聞包みを押し付ける。 「これが最後だ」 踵を返す。何歩と進まぬ内に背後で牛乳壜の倒れる音がした。首だけ振り向くと、コー トから抜け出した細い体が立ち上がろうとしていた。こぼれた牛乳の上で、古い底の抜け た靴の上からぼろを巻き付けた足を踏ん張り、少年は後を追おうとして前のめりに倒れた。 「…馬鹿め」 男はわざと振り返らなかった。屈んで、床の上に落ちた手袋を拾いあげ、手を通しなが ら言った。 「走れ」 少年が自分の背中を見ているのが分かった。 「お前が走れば、どこにいようが見つけてやる」 男は振り向きたくて仕方ない欲に駆られていた。 テレビの中、アイシールドに隠れた目を見つけだした時と同じ胸の高鳴る予感がした。 少年の目を見てみたかった。 「…きっと…」 しゃがれた声が男の背を掻いた。 男はとうとう振り返った。黒い瞳。伸び放題の黒い髪の隙間からあの黒い目が覗いてい る。それは男の目を捕えた途端、しっかりとその視線を縛りつけた。 少年はかれた声で、しかししっかりと尋ねた。 「きっとですね」 男は唇の端を吊り上げて笑った。 「きっとだ」 踵を返す。もう振り返る必要はなかった。男は跳ね上げ戸の下に体を滑り込ませ、後は その軍靴の音のみを残し少年の前から去った。 少年は深緑のコートにくるまり溜め息をついた。もう誰が見る訳でもないのに小さく小 さくその体を丸め、その中で隠すように溜め息をついた。降る雪が男の余韻の上に降り積 もり、屋根裏は再び暗闇と静謐と寒さの中に沈んでいった。 |