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雨が降っている。ぼくはカーテンを閉めようと窓辺に寄り、通りを見下ろした。通りの 端にはバスが着いたところだった。降車した客の中に、小柄な影がある。セナだと分かっ た。セナは傘を持っていなかった。他にも傘を持たない客がそれぞれビルに向かって走っ ていくのに対し、セナは走ろうとしなかった。ゆっくりと通りを渡り、こちらへ向かって きた。上着が雨水を吸ってみるみる黒く濡れそぼる。それでも動じる様子のない姿。セナ は決して走らない。 ぼくはカーテンを閉めた。それからデスクに腰掛けた。机の上にはファイルが載ってい る。セナのカルテだ。ぼくは彼の話を書き留めた。それは厚いファイルとなって今目の前 にある。しかしこれがどうやってセナを癒すというのだろう。ぼくは引き出しから擦り切 れ汚れた腕章を取り出す。裏返すとそこには赤黒い染みがある。 それを見詰め物思いに耽るうちに、ドアをノックする控え目な音が届いた。ぼくは入室 を促す。濡れた上着を受付に預けたらしいセナが顔をハンカチで拭い、頭を下げる。 「セナくん」 定位置と化した一人掛けのソファに腰を下ろそうとしたセナにぼくは声をかけた。セナ は少し驚いた顔を上げる。ぼくは手の中の腕章をセナに手渡した。セナはデスクの前に佇 んだまま、腕章とぼくを交互に見詰めた。ぼくはセナに腰掛けるよう促した。セナはいつ もの一人掛けのソファに腰掛けたが、はやる気持ちがその視線から溢れていた。 最後に、ぼくの話をしようと思う。 ぼくは仲間と共に貨車に詰められ北端の街に運ばれた。ぼくらの目の前に聳え立ったの は鉱山。それからぼくらの住処はその山になった。ある者はつるはしを担ぎ、ぼくは仲間 数人と共に終日トロッコを押した。 あの場所でのぼくの体験は、ここで詳しく話すことではない。ぼくが教えておきたいの はある男のことだ。一緒にトロッコを押す仲間には一人、随分体つきのいい男がいた。男 は名乗ろうとしなかったけれども、実直な目が皆に信頼されていた。 男は実は、杖を無くしては歩けない身体だった。この山に着くまで彼は足の骨を折られ る暴行を受けていた。骨は何とかくっついたが、しかし冬の寒さが男から指を奪った。足 の指を十本とも。腐れ落ちる指を、彼はどうすることもできなかった。また誰にも助けを 求めなかった。具合の悪そうな顔は滅多に見せず、霞みのように笑っていた。 あの山ではそんな不具を抱えていれば、すぐ処刑対象となる。周囲はせめてもとその事 実を必死に覆い隠した。つるはしを持たせれば、踏ん張ることのできないその足はすぐに 露呈してしまう。しかしトロッコを押す作業ならば、腕が何とかその身体を支えてくれる。 男はそこでの数年を乗り切った。いつも浮かべている笑顔は覇気がなく、影の薄い男と 見張りの兵士にも笑われていた男だが、最後までその足を隠しとおし、終戦のサイレンを 聞くまで生き延びたのだ。 山にはまだ雪が降っていた。ある朝、そこに兵士の姿は一人もいなくなっていた。ぼく らは呆然と外へ出た。男さえスコップを杖代わりに歩いて出てきた。あまりにも静かな朝 だった。 やがて麓の街で鳴り響くサイレンの音がこの山にもこだました。山道を登ってきたのは 拡声器をくくりつけた車数台だった。拡声器は何度も繰り返した。我々は危害を加えない。 皆、出てきなさい。戦争は終わった。戦争は終わった。 戦争は終わった。 ぼくらはその言葉をすぐには信じなかった。信じなかったというより、何を言っている のか理解できなくて、ぽかんとしていた。車から降りてきた兵士達はやはり金の髪をして いたが、腰の銃を抜こうとしなかった。そしてぼくらの目の前を通り過ぎ、昨夜まで見張 りの兵士達が住んでいたはずの官舎の屋根に掲げられた旗を降ろした。何人かが息を呑ん だ。 代わりに掲げられた旗を見て、ぼくらはようやく沸きあがってくるものを感じた。苦痛 と空腹と虐待の支配からの解放をその旗は宣言していた。 ぼくらは順次トラックで下山した。数年ぶりの下山だ。 麓の町はがらんとした様相だった。それまで活発に機械音を発していた工場、もくもく と煙を吐き出していた煙突、毎日何百人と言う囚人を運んできた列車が全て動きを止め、 化石のように黙り込んでいた。 ぼくらは貨車によって運ばれた線路を逆に辿り、歩き出した。全ての機能が停止したこ の国で動くのはぼくらの足だけだった。行列はゆっくりと進んだ。あの男も歩いていた。 杖をつき、列の後方をゆっくりとついてきた。 何日も歩き続け、首都に近い郊外都市に辿りついたとき、ぼくらは見た。 所々に雪の残るそこは芝に埋め尽くされたフィールドだった。観客席は取り壊され、露 わになった地面には有刺鉄線が壁を張り、フィールドの中で項垂れ座り込んでいる男達を 取り囲んでいる。金髪碧眼の男達、数年に渡りぼくらを虐げ続けてきた人間達が、まるで 尾を掴まれた犬のように項垂れているのだ。 皆、その異様さに息を呑んだ。男達は明らかな囚人だった。鉄条網の周りには銃を持っ た兵士達が、中の男達を見張っている。正義はこちら側にあり、彼らは罪人だ。既に立場 は逆転したのだ。 しかし、つい昨日までぼくらを痛めつけていた人間に変わりない。どこか、胸の底から 湧き上がる恐怖にぼくらの身体は縛られていた。 その時だ、列の後方で酷い音がした。何かが鉄条網を殴る音。 「お前らのせいで!」 杖が再び鉄条網を殴る。兵士が慌てて飛んできて止めようとするが、その勢いは押さえ ることができない。ぼくは走った。 逆上しているのは、あの男だった。 「俺達は奪われたんだ。家族も、家も、俺の足も!このフィールドも!ここはお前らのい ていい場所じゃない!今すぐに出て行け、ここから!」 杖が手から離れた。男の身体はよろめき、すぐに見張りの兵士に支えられた。男の目に は涙が滲んでいた。一体、何の憤激が温厚な彼をここまで至らしめたのか、ぼくは鉄条網 の下に落ちた杖を拾い、兵士に支えられて歩く男の後ろ姿を見送った。 「あの男は」 低い声が耳元でした。有刺鉄線越しに腕が掴まれている。腕章の上を細い、しかししっ かりとした指が掴んでいる。ぼくは凍りついた。ゆっくり首を巡らそうとしたが、「振り 向くな」という一言にそれも阻まれた。 「あの男は、このフィールドを奪われたと言ったな」 「…ええ」 「お前はあの男を知っているのか」 「少し」 「奴はアメフト選手か?」 「分かりません」 「お前はアイシールド21を知っているか?」 ぼくは首を横に振った。 「ならいい。行け」 腕が放される。ぼくは立ち上がり数歩駆けて、後ろを振り向いた。今の声の主を確かめ ようとしたのだ。しかし皆一様に項垂れる中に、その正体を確かめることはできなかった。 血文字に気づいたのは、ぼくも皆と同様、その腕章を捨てようとしたときだ。首都の廃 墟の真ん中で火を焚いていた。その中に投げ込もうとして、気づいた。 ぼくはすぐにあの足の指を失った男を捜し、話をした。男は首都に留まろうとしなかっ た。弟達を捜して国中を歩くつもりだと言った。ぼくは腕章の裏側を見せた。何かこの名 前を知らないかと訊いた。彼は心当たりはないと首を振った。次にアイシールド21につ いて尋ねた。 男は長く沈黙した。ちょうど君がこの部屋で過去について語るときするように、懐かし むような、悲しみの目で見るような、そんな沈黙の後で、ある名前を教えてくれた。それ が君の名前だ。それを頼りに、ぼくは君を捜した。この腕章を届けるために。 「これは」 セナの声が震えていた。 「あの人の名前なんですか…?」 腕章を握り締める手も震えている。腕章の裏の赤黒い染みは血だ。血文字なのだ。 ぼくは声に出さず深く息を吐いた。 「…ぼくに断定はできないけれど」 じりり、と音がした。木の床を靴底が擦る音だ。 ぼくはセナを見る。膝がうずうずと震えている。 試合前、彼の膝はやはりこのように震えたのだろうか。石丸の小さな印刷所を出るとき にも? 父の最期の叫び声を背に駆け出すときも? 姉崎という女性を助け出すために走 り出すときも? あの金髪の将校と初めてまみえ、逃げ出そうとしたときも? そしてその将校の最後の後ろ姿を追いかけようとしたときも? セナ、君はその膝を震 わせたのだろうか。そして今のその震えは。 「セナくん」 セナの顔が上がった。彼は待っている。ハットの掛け声を待っている。 それを見て心臓が震えるような気がした。ぼくは静かに一言、尋ねた。 「走れますか?」 雨が降っている。ぼくはカーテンを開けようと窓辺に寄った。ビルには階段を駆け下り る靴音が響く。叩きつけるように玄関扉を開く音。ぼくは通りを見下ろした。小柄な影が 通りを、郊外を目指して走ってゆく。上着も羽織らず、ひたすらに走ってゆく。ぼくにそ の表情は見えない。しかし想像することはできる。 ひたと前を見据えた目。噛み締めた奥歯。紅潮する頬。雨が何の障害になるだろう。脚 が滑り、転び、それが何の痛みだろう。彼は痛みを受けとめてきた。彼は強い。彼は走り 続けてきたのだ。今までも、誰もいない街も、闇の中も、孤独の中も。 今更、あの脚を止めるものなどありはしない。そう、もうぼくの言葉も追いつくことは できない。ぼくの語る彼の物語はこれで終わりだ。 * あのフィールドは決勝の地のはずだった。彼らはそこで夏の勝利を得るはずだった。あ の場所に辿り着きたかった。 セナは走る。芝生が水を跳ねる。フィールドの真ん中にセナは立つ。今も観客席は設営 されず、全く手付かずのまま放っておかれたフィールドは芝が伸び放題で滑りやすかった。 ここを取り囲んでいたと言う鉄条網も、もうない。 息を切らせたセナはゆっくりとフィールドの周囲を歩き出した。雨が背中を打つ。冷た くも痛くもなかった。 終戦直後、彼はこの場所にいたのか。捕虜となった兵隊がどのような扱いを受けるのか、 風聞は嫌でも耳に入ってくる。セナも知らない訳ではない。その多くが北接する国の捕虜 収容所で無残な死を遂げている。 あの人が。 あの人の自信に溢れた目を覚えている。それは自分の地位や立場に関係なく、戦況に関 係なく、己の行動に自信を持った目だ。その人が項垂れて、北方に連行されたと言うのだ ろうか。 終戦の数日前になっても彼は屋根裏を訪れた。死の際で眠っていたセナに精気を吹き込 み、最後の食料と、彼のコートを置いて。その彼が何故殺されなければならない。いや、 そのせいで殺されるのか。あのとき、自分に構ってもたもたしていたから、彼は逃げるこ とができなかったのか。 セナは胸の上で腕章を握り締めた。雨に濡れても血文字は尚もはっきりとその形を浮か び上がらせる。 まさか、たった数日の中の、ほんの短い間会っただけだけれども、分かる。彼が、逃げ ようとしたはずがない。かと言って、項垂れて捕虜収容所に送られたはずもない。彼はき っとどこかに生きている。この血文字だって消えていない。あの人が死んだはずがない。 それに何よりあの人は約束をした。 走れ。走れば、どこにいようが見つけてやる。 きっとだ。 走り続けている限り、きっと彼が見つけ出してくれる。 ざあっと雨音が走り去る。雨脚が弱まり、雲から光が覗いた。しっとりと濡れた芝生は その光を受けて光り輝いた。 セナは腕で何度も目の上を拭った。また走らなければならないから。そのためにしっか りと前を見詰めなければならないから。セナは涙を拭って、大きく息を吐いた。 「走れ」 声が聞こえる。 セナは真っ直ぐ前を見据える。脚の震えが止まる。 雲が切れ、太陽が姿を現した。 彼は地を蹴った。 end |