雪解けの雨が降り出した。セナは頭上に降り注ぐ音をただ聞いていた。
 数日前にベッドに倒れ込んだ身体は、それっきり起き上がることはなかった。協力者が
訪れなくなって二ヶ月が経とうとしている。細々と食いつないできた食料もなくなった。
袋の底に残った小麦粉さえ舐めたのだ。あとは水道から細々と垂らした水を飲んだ。今朝、
シンクに顔を突っ込むようにして水を飲んだとき、歯が一本抜け落ちた。
 歯を右手に握り締め、セナはベッドに横になった。もう座る体力さえ彼にはなかった。
それでも膝の上に乗せた手が、微かに撫でるように痙攣した。
 セナが最後に水を飲んで二日後の夜、まもりが部屋を訪れた。セナが気づくと、枕元で
まもりが涙を流して泣いていた。床の上には食料を一杯に詰めた紙袋が倒れて、オレンジ
や缶詰が転がっていた。
「ねえ…ちゃん……?」
 セナは細い声で呼んだ。夢見心地で、その時、彼にはここが逃亡先のアパートだという
意識もなかったのだそうだ。まもりは喉の奥から細い泣き声を搾り出し、痩せ衰えたセナ
を自分の胸に抱いて、ごめんね、と繰り返した。
 もう一人の協力者はシンパから集めた金を持って逃げたのだそうだ。セナの体調が快復
するのを見計らってまもりは教えてくれた。その協力者の顔も名も、セナはもう思い出せ
ないという。
「思い出してもどうしようもないし」
 深く腰掛けたソファの上で、セナは言う。
「それに、もうこれ以上、知りたくもない」
 まもりは月に二回、きっちりとセナの部屋を訪れた。女一人では危険な仕事だったが、
まもりはセナの前で決して笑みを絶やさなかった。その笑顔は目の前に置かれた食料より
も精彩を放っていた。
 再び春が訪れ、季節は夏に移行する。重い雲の蔓延る夏だった。夜は驚くほど寒かった。
セナは壁の隅に刻んだ傷を見た。今夜もまた、まもりのやってくる夜だ。
 静けさの恐ろしい夜、とセナは表現した。いつもは静かな方が落ち着くのに、その晩ば
かりは逆に静けさが圧迫するように迫ってきた。
 果たして嫌な予感は当たったのだった。足音が聞こえた。まもりがこのアパートを上っ
てくるときは、決して足音など立てはしない。セナはドアに耳をつけ、息をひそめた。
 呼び止める声が聞こえた。セナは鍵穴に耳を当て、もっとよくその声を聞こうとした。
低い声が相手に対し身分を問うていた。
「その袋は何だ」
「買い物から帰ってきただけよ」
「住所は」
「ここに決まってるじゃない。そこの、奥の部屋」
「あそこは空室のはずだと大家から聞いている」
 小さな足音が聞こえた。さっきの重い足音とは違う。まもりが後ずさったのだ。続いて
壁を叩くような音。小さな女の悲鳴。
 もちろんセナはそのままドアに耳をつけていることなどできなかった。
「まもり姉ちゃん!」
 叫び、彼は初めて内側から扉を開けた。軍服の男と大家らしい男の二人が振り返る。そ
の向こうに青ざめた顔のまもりがいた。
 走り出した次の瞬間、膝が違和にうめいた。走ることをやめて久しい脚が、筋肉が拒否
反応を起こす。それでもセナは強く床を蹴った。フィールドでエンドゾーンを目指したよ
うに。感覚がブレながらトップスピードに追いつく。
「セナ!」
 二人の男の間を抜け、まもりの手を引く。紙袋の中身が散乱し、男達の足元にごろごろ
と転がった。「追え!」という言葉の直後に軍服の男の転ぶ姿が見えた。が、それをゆっ
くり見物する間もなく、セナはまもりの手を引いて階段を駆け下りた。
 石畳の上に二人の足音が響いた。続いて重い足音が二人の後を追いかけた。二人の姿は
街灯もまばらな夜の通りを駆け抜けた。
「こっち」
 急にまもりがセナの手を引いた。二人は建物の間の路地を縦横に逃げた。追う足音が惑
い、やがて消える。二人は壁に張り付いて、ゆっくりと歩く足音が完全に去るのを待った。
「ごめんね…」
 闇の中でまもりが囁いた。
「ごめんね、セナ」
「謝らないでよ、まもり姉ちゃん」
「セナ。逃げて。私が表に出て引きつけているうちに」
「え?」
 まもりがセナを振り向いた。
「彼らは諦めていない。きっと応援を呼んで通りの出口で張っているはずよ。このまま行
ったら、二人とも捕まっちゃう」
「で、でも…」
「大丈夫、私は殺されることはないわ。でも、セナ……」
 まもりの声が詰まった。そしてもう一度ごめんねという囁き声が聞こえた。
「まも……」
 不意に肩を掴まれる。ほんの数秒、息が止まった。
 まもりの柔らかな唇が離れ、
「さよなら、セナ」
 駆け出した細い足の足音を、セナは呆然として聞いた。
 次に溢れ出してきたものは涙だった。セナは走り出そうとした。と、急にブレーキでも
かかったかのように脚が動かなくなった。彼は前のめりに転んだ。腕や頬が擦り剥けた。
それでも彼は立ち上がり、再び走り出した。のろのろと、しかししっかりとまもりの足音
を追って。
 やがて路地に明るい光が差し込んだ。軍用ジープのライトだ。それから男達の声。まも
りの声は聞こえない。
 再び路地が暗くなる。ジープが動き出したのだ。
 このままでは、まもりが。
 セナはその時、生まれて初めてと言ってもいいほど、腹の底から声を出した。彼は闇雲
に叫びながら通りへ飛び出た。
 まもりの悲鳴。男達の怒声。ジープが追いかける。セナは走った。逃げろ。逃げろ。逃
げて、まもり姉ちゃん。
「止まれ!」
 と命令する声が響く。セナは振り返った。軍人が四、五人銃を構えて自分を追いかけて
くる。向こうには、ジープの側に、まもりがいる。涙に濡れた顔。くしゃくしゃに歪んだ
顔に、口が大きく開く。
「走って、セナ!」


          *


「100ヤード、寄せ付けやしなかった。フィールドの端から端まで」
「逃げ切ったのかい?」
「エンドゾーンを越えたあたりで、急に脚が動かなくなった。もう、それ以上一歩だって
動かなくなったんだ」


          *


 奇跡ばかりは続かなかった。セナは四人の兵隊に取り押さえられ、再び壁の向こうへ逆
戻り。今度こそ、収容所の住人となったのだった。
 日に二度与えられる水のようなスープと黴の生えた固いパン。重たい雲からは土砂降り
の雨が夏いっぱい降り続いた。その雨の下をセナ達は建材や煉瓦を運んだ。時折、高い作
業場を割り当てられた者が足を滑らせ転落死する事故が起きたが、初めはそれさえ何とも
思わなかった。セナの精神は磨り減って、感じることを忘れていた。無感情なまま、命令
どおりに動き、不味い食事をすすり、時間の流れさえいつしか忘れかけた。
 ある日、自分と同じくらいの年の少年に殴られた。食事中、突然のことで、セナは雨に
濡れた床の上に転がったままぼんやりと自分を殴った相手を見た。
「おいおいおいおい!ここまで無視するこたねえだろ!」
 太い眉の下の大きな目が怒りで血走っている。鼻の穴が大きく膨らみ、赤毛混じりの黒
髪が逆立つ。
「やめないか」
 低い声が割って入り、太い腕がセナを抱えた。
「大丈夫か?」
 それがモン太という愛称の、戦時中のセナの唯一の友人と、ムサシと呼ばれる男との出
会いだった。
 モン太はセナより先にこの収容所に入っていた。セナがここへ運ばれてきた日から、何
度となく話し掛けていたらしいが、セナは全く気づいていなかった。あの日も、隣に座り
何度も呼びかけていたが、セナが視線さえ動かさないのにとうとう堪忍袋の緒を切ったの
だった。
「お前のことが気になってたのさ」
 と、ムサシは言った。
「心配してたんだろ。な?」
 モン太を振り向くと、彼はまだ怒った様子で
「知らねえ!」
 とそっぽを向いた。
「…悪気はない。殴っといて悪気がないはねえだろうが、しかし、これで目が覚めただろ?」
「……あ…」
 その時、ようやくセナの目は周囲を映し始めた。心配そうに見下ろす顔や、怒りながら
ちらちらとこちらを気にする顔や、自分を抱える男のごつごつとした無精髭の面に浮かべ
た静かな笑顔だ。
「…あの……」
「ムサシだ」
 男が手を差し出す。セナは細い手でそれを緩く掴んだ。
「セナ…です」
 ムサシの厚い手がセナの手を強く握った。
 精神を取り戻して見た周囲の世界は今まで以上に過酷で、温かかった。心を殺していた
ときは感じなかった苦痛、空腹、そして恐怖。収容者達は時々、無作為に番号を呼ばれ、
表に立たされると銃で撃ち殺された。軍人達の気紛れにセナらの命は握られていたのだ。
 ムサシは収容者の間の指導者だった。彼は、一週間に一度壁の外へ出る買い出しに目を
つけた。ジャガイモや麦の袋に紛れて行われたのは武器の密輸だった。小銃、実弾、手榴
弾、ありとあらゆるものが密かに壁の中に持ち込まれた。ムサシはそれを管理し、割り振
りながら、蜂起の計画を進めた。計画は全て口頭で伝え、証拠を残してはならない。少し
でも嗅ぎつけられれば、全員に死が待っている。
 緊迫感を孕んだまま、季節は秋から冬へ移行し始めた。収容者には一枚ずつ薄い毛布が
与えられたが、倉庫に簡易ベッドを押し込んだだけの彼らの寝床は隙間風が入り込み、非
常に寒かった。
 セナは三段ベッドの一番下で丸くなっていた。何度も毛布を巻きなおすが、じっとりの
湿気を帯びた毛布はなかなか身体を暖めてくれなかった。
 不意にベッドの鉄骨が軋んだ。
「セナ」
 小さな声で呼ばれる。目を開けると、モン太が毛布を脇に抱えて枕元に立っていた。
「…どうしたの?」
「入れてくれよ」
 モン太は脇の毛布をちょっと上げてみせた。
「二枚なら少しはあったかいぜ」
 小柄な身体が幸いしてか、狭いベッドだがなんとか転げ落ちずに二人もぐり込むことが
できた。額をつき合わせて横になり、モン太がしみじみとセナの顔を見る。
「…いつか、殴って悪かったな」
「あ…、いいよ、あれは僕も悪かったんだし」
「いいや、これはケジメだ」
「そんなケジメとか…」
「ムサシ先輩から伝言が二つある」
 モン太の声は強張っていた。セナも思わず身体を固くした。モン太はいよいよ声をひそ
め、セナに囁いた。
「数日中に、実行する」
 ケジメ。今まで何度も寒い夜はあったけれども、改めてモン太がこのベッドにもぐりこ
んだ意味。
「そうか…」
 セナは頷いた。自分に割り当てられた小銃の在り処を思い出す。この硬い枕の中だ。
「いよいよだね」
「それともう一つな」
 モン太はそこで言い淀み、何故か顔を赤くした。
「…まもりさんのことだ」
 セナは驚きの声を飲み込んで、小声で急き込んだ。
「まもり姉ちゃんの?」
「まもりさんは生きてる。無事だ。壁の向こうで安全に暮らしてる」
「ムサシさんが…調べてくれたの?」
 モン太は再び黙り込んだ。今度は長いこと沈黙していたが、やがて口を開き、「悪い」
と言った。
「俺、まもりさんが無事なこと、知ってたんだ」
「え?」
「俺、買い出しに外に出るだろ」
 セナはまじまじとモン太の顔を見た。耳まで赤くなっている。
「…そっか」
 セナは微笑した。
「安心した」
「セナ…」
「まもり姉ちゃん、美人でしょ?」
 モン太の顔はいよいよ赤くなる。
 それからしばらく眠らず小声で話をした。壁も砲撃も突然の処刑もない世界の友人同士
のように、遅くまで語り合い、少しだけ暖まった窮屈なベッドに眠った。


          *


「じゃあ、あの蜂起は……」
 セナは応えなかった。
 とある収容所で起きた大規模な蜂起はぼくも知っている。いや、知らないものなどいな
い。あの時代、ぼくら一般市民が見せた唯一の抵抗だった。当時は情報規制がされていた
が、それでもぼくらを勇気づけるニュースとしてこっそり広がっていった。
 あの蜂起は、ちょっとした戦争ほどの規模があった。収容者、軍人、そして民間人まで
被害が出た。手榴弾、火炎瓶、そして軍側が持ち出した大砲。壁は砕かれ、ビルは崩れ、
壁の内側はほぼ壊滅。周囲も飛び火した火事が焼いて、人の住める状態ではなくなった。
 収容者は捕まった者は全員処刑、そうでなくてもその多くが戦闘の中で死亡したはずだ
った。確か首謀者も戦闘中に命を落としたと聞いた。ぼくが知るのは噂ばかりだが。
「走れ」
 セナが呟いた。カーテンを閉めた暗い部屋の中で俯いた、その表情はうかがえない。し
かし身体の奥から湧き上がった息のような深い呟きだった。
 僕は再びセナが口を開くのを待った。
「皆が、走れって叫んだ」
 手が膝を擦る。
「父さん。十文字。まもり姉ちゃん。ムサシさんも、モン太も叫んだ。最後まで。走れ。
走れって。僕は……」
 顔がゆっくりと上がる。急にぼくの目が悪くなったかと思うほど、その顔は影に黒く塗
りつぶされている。
「僕は走った。走って……いつの間にか、誰も見えないところにいた」
 膝を擦っていた手が強く膝頭を掴む。
「走れって叫んだ、誰も、いない……」


 それは例えではなかった。セナが彷徨ったのは蜂起後の荒廃した無人の街だった。抜け
落ちた天井、黒く焼けた窓、ぽっかりと口を開けた玄関。
 そして生き物の気配を完全に失った、死の口のような灰色の通り。
 重たく垂れた灰色の雲から小さな白いものが舞い始めた。
 本格的な冬がやってきた。







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