セナは彼に起こったことを素直に口にした。ぼくの診療室の、暗い応接間で、彼の選ん
だ一人がけのソファに深く身を沈め、静かにすくい出した過去を言葉に紡いだ。そうして
語られるセナの物語は、同時に戦争の物語だった。幾つもの国を巻き込み、数で現せない
ほどの血を流した戦争の物語だ。
 ぼくの戦争の記憶というものは、セナが壁の中で印刷屋の手伝いを始める前から既に始
まっている。セナが首都郊外の空き地で数日後に迫った準決勝に備え仲間達と汗を流して
いた頃、ぼくは北西の国境近い都市に住んでいて、仕事場で最初の爆撃を受けた。向かい
のビルに大穴が空き、ぼく自身も吹き飛んだ窓ガラスの破片で怪我をした。それがぼくら
の国の最初に受けた攻撃だった。
 爆撃音は次第に激しく、国中どこでも頻繁に聞けるようになった。セナの父が不定期に
も土木の仕事を得ることができたのは、被害の修繕が必要だったからであり、ぼくら人種
はその辛い仕事にうってつけの安い労働力だった。
 雪の降る間、セナも何度か爆撃の現場に居合わせた。そうでなくても雲に不吉な影を落
としながら行く戦闘機の腹の底を震わせるような音や、地鳴りを思わせる爆音はしょっち
ゅう聞こえてきた。
 壁が作られ、ぼくら民族がその中に閉じ込められたのはセナの住む首都が最初だった。
それはこの国の完全な攻略以前に行われた、過ぎる横暴だった。
 侵略侵攻の記事を、セナと石丸はいち早く見ることができた。金髪碧眼の民族はこの国
を完全な統治下に置くと、その総大将たる人物の演説を大きな顔写真入りで新聞の一面に
載せた。それを配達せねばならなかったその日から、二人はタイムを計ることをやめた。
 石丸の口も、工場にあって動かない印刷機のように重いものとなった。弟を養うだけの
食糧が得られないのだ。弟達はこっそり出て行っているつもりだったが、石丸は幼い彼ら
が道端に立って物乞いの真似をしているのを知っていたし、セナも通りで彼らを目にした。
別に彼らだけが特別だったわけではない。一切れのパンでも、野菜でも、という子供達の
声は通りに溢れていた。皆がそうせざるを得なかった。セナは敢えてそれを耳から追い出
した。
 やがて雪が止み、雲が失せ、青空がのぞくようになると通りは泥濘だらけになった。ど
こも舗装などされていないからだ。春はやって来たが、人々の頬に赤みは差さない。日に
日に気温は高くなるものの、人の心は凍ったままだった。
 そして夏を前にした、あのうららかな日。何も祝うものなどないのに皮肉なほど空が青
く澄んだあの日、ぼくらは国を支配する軍の下した一つの命令に従った。壁の内に住む者、
皆が荷造りをさせられた。それも最小限のものだけ。いや、それさえ最後には没収されて
しまうのだ。ぼくらは着の身着のまま、身一つになって広場に押し込められた。
 ぼくらに命じられたのは新たな場所への移動だった。それは列車に乗った、遠い、遠い
国への旅立ちだった。


          *


 道に、人が犇めいていた。荷車いっぱいに家財を積んで、両手に着替えと少ない財産を
詰め込んだ鞄を持って、彼らは歩いていた。セナ達家族は両手の鞄とトランクにできるだ
けのものを詰めた。親子三人、荷車など必要ないだろうと門番犬(彼らは黒髪黒眼の民族
だったが、同じ民族の者に不穏分子はないか監察するよう雇われた少数の人間だった。彼
らが入り口の扉も管理していたので、軽蔑をこめて門番犬と呼ばれていた)に言われた。
母は祖母の形見の鏡台を手放したくなかったが、男が銃をちらつかせて脅したので、結局
それを建物の下まで下ろしたところで置き去りにするしかなかった。
 すぐ横を石丸兄弟が歩いていた。石丸は弟達の手を引き、背中には一番下の弟をおぶっ
ていた。石丸の背の上で幼い彼は何度も咳をしていた。降り注ぐ日は、ピクニックにでも
でかけられるような陽気だったが、それでも時折寒そうに震えていた。
「新しいところについたら…」
 セナの母が控えめに、夫に向かって尋ねた。
「女にも職はもらえるかしら。畑仕事でも、何でもいいんだけど」
「…もらえるんじゃないか」
 父もまた控えめに答えた。
「今度行くは田舎の広い土地らしいし、これからは施設で集団生活するらしいからな」
「農園があるのかしら。それともこれから作るのかしら…」
 希望的なことを語るが、その口は重く疲れている。
「何でもいいですよ」
 横から石丸が小声で挟んだ。
「仕事があるなら、なんだって」
 やがて行進が滞り始めた。少し先では金髪碧眼の兵士と門番犬が人々から荷物を没収し
ていた。鞄や家財道具の山が行列を越して、石丸の目に映った。セナは人波に埋もれてし
まって、それが見えない。セナは石丸の強張った表情を見上げた。
「…石丸さん?」
 石丸は突然、行列に逆行し始めた。一番下の弟を負ぶい、また次の弟の手を取って。し
かしそれは叶わなかった。後ろから前に詰め寄せる質量が圧倒的に多かった。また一人の
兵士が石丸の様子に気づいて笛を吹いた。
「列に戻れ! 列に戻れ!」
 兵士の声が響き、空に向かって銃が一発発砲された。
 石丸に向かって兵士の手が伸びた。セナは咄嗟に石丸の上着を掴んだが、更に強い力が
石丸の腕を引っ張った。兵士が二、三人集まって石丸を行列から引きずり出した。石丸に
手を繋がれていた上の弟が呆然と連れ去られる兄の姿を見送る。目が真ん丸に見開かれ、
口が半開きのまま閉じなかった。
 行列は容赦なく後ろから押し寄せた。騒ぎはすぐに収まった。
 セナは残された石丸の弟二人の手を取った。
「…行こう」
 セナの口から出た言葉はそれだけだった。
 広場では人が地区ごとに整理され、グループで固まって地面に腰掛けていた。皆、一様
に不安そうな、また諦観を越した呆けた顔をしていた。セナ達もその一団に振り分けられ、
指示があるまで待つように言われた。
 セナの父は門番犬が去った後も暫くぼんやりと佇んでいた。母が先に腰を下ろした。そ
して、いつまでもきょろきょろと心許なさ気に視線を彷徨わせる年下の方の弟をセナの手
から取り、自分の膝の上に乗せて頭を撫でた。もう一人の弟はセナの手を離そうとしなか
った。口がいつの間にか閉じられ、奥歯を噛み締めているのが分かった。セナは少年を促
して地面に座り、母とその少年を挟むように座った。父はセナの隣に腰掛けた。
 誰も彼もが無言だった。遠くでは上等の上着を着た家族がサンドイッチを食べる様子が
見えた。しかし彼らも鞄はもう持っていない。
 小さな音がした。セナの腹の鳴る音だった。セナはそれがこの場ではそれがひどく不謹
慎なように感じ、恥ずかしくなって俯いた。するとセナの腕に小さな頭が押し付けられた。
上の弟がセナの手を両手で握り締め、額を押し付けている。
「兄ちゃんと同じだ」
 少年は一言だけ呟いた。
 父が腕を伸ばし、セナの肩を抱いた。広場の壁に近い場所に座っていたグループから整
列させられ、歩かされるのが見えた。しかし一日では終わらなかった。日が暮れても、広
場には半分以上の人間が残っていた。やがて見張りらしい兵士がうろつくばかりで、広場
に動きはなくなった。彼らは青天井の下、毛布もなく肩を寄せ合って一夜を明かした。
 翌朝、再び昨日と同じことが行われた。昼前にはセナ達の番になった。横三列の行進を
組み、歩き出す。壁の一角が崩され、更に大きな広場ができていた。否、それは広場では
ない。そこにあったのは停車場だった。幾本もの線路が並び、あちこちに貨車が止まって
いる。兵隊が壁を作ってできた道の先に、貨車の一つの扉が開いていた、先頭の人間がそ
れに乗るよう言われ、戸惑っていた。
 ほんの一瞬、隊列が止まった。セナがその一瞬泳がせた視線の先に、彼はいた。壁を作
って無表情に前方を見つめている横顔。ヘルメットに隠れた短い金の髪。厳しい眼光に、
不機嫌そうに引き結んだ口元。頬に十字の傷。
 十文字の顔がこちらを向くまでの数秒、それはひどく長く感じられた。振り向いた目が
瞠目し、奥歯が噛み締められ、口元が歪み。
 腕が伸びた。
 襟首を掴まれ、列から引き出されて兵隊達の背後に転げるまで一秒とかからなかった。
周囲の兵隊達はそ知らぬ顔で前を見詰めている。
「なっ…」
「行け!」
 セナが声を発するのを許さず、十文字が顔だけ振り向き低く言った。
「家族が…」
「行け!」
 その時、高い叫び声が停車場に響いた。セナは立ち上がって兵隊達の肩越しに伸び上が
った。セナの母が、石丸の幼い弟を抱いている。それを兵士が引き離そうとしていた。
「何するの、この子達は私の子供なのよ!」
「子供は別の列車だ。大丈夫だ、向こうで合流する!」
 兵士は乱暴に母の腕から幼児を無理矢理取り上げると、セナの手から離れてしまった年
上の弟の手も引いた。
「さあ、こっちだ」
 その時、初めて幼い弟が声を上げた。張り裂けるような泣き声だった。兵士の腕の中で、
堰を切ったかのように両目から涙が溢れ出していた。
 年上の弟が顔を上げた。その目は必死に誰かを探していた。
「兄ちゃん!」
 叫びが高く、のっぺりした青空にこだました。
「走れ!」
 十文字が振り返り、再び言った。
「行け! 走れ!」
「でも…」
 セナは顔を突き出し、家族の姿を探した。行列の先、涙を流す母の肩を抱いた父が、今
しも貨車の暗い口に飲み込まれようとしていた。その顔が振り返る。
 一年間、いや、その半生丸ごと顔に貼り付いたかのような疲れた表情。倦み、くたびれ
きった表情。それがみるみる変わり、その両眼はしっかりとセナを捉え、口が大きく開い
た。
「走れ!」
 父の叫ぶ声が響いた。
「走れ!」
 十文字が必死の形相で叱責した。襟首を掴んで後ろに引きし、銃尻で背中を突く。再び
セナの身体は転び、兵隊の壁の影に隠れる。
「走れぇ!」
 再び声が響いた。
 停車場の尖った石の上で、膝が擦り剥けていた。しかしセナは立ち上がった。そしても
う振り向かなかった。声だけが背中を押した。初めて聞いた父の叫び声だけが背中を押し
た。
 列車の陰に隠れて進むと、貨車の石炭を積みに猫車を往復させる門番犬の列に出くわし
た。セナはその中に紛れて猫車を運び、石炭置き場からでそれを捨て、建物の影に隠れる。
暗い、狭い路地だ。しかし、街へ繋がっている。確かに先へと伸びている。
 セナは再び走り出した。家を目指した。家族三人震えながら三つの季節を耐えた、あの
家を目指した。暗い路地を縦横に走り、セナはそこで自分の足音を聞いた。
 走る自分の足音を聞いた。
 それ以外は何も聞こえなかった。建物の中からも、外からも。路地にも、通りにも。物
乞いの声も、職を求める声も、物を売る声も、何も聞こえなかった。
 溜め息さえ、聞こえなかった。セナは暗い路地から、通りへ出た。
 脚が自然と止まった。
 建物の外に打ち捨てられた家財道具。置き去りにされた荷車。開けっ放しの扉。ぽっか
りと暗いガラス窓。
 無人の通り。
 無人の街。
「あ…あ…あ……」
 喉をついて出た声に驚きさえしなかった。両目からは既に涙が溢れ出していた。嗚咽は
今にも口をついて、号泣へと変わろうとしていた。セナはそれを唇を噛んで耐えた。両頬
の筋肉が唇のわななきを抑えようと引き攣る。唇はひどく歪み、そこから噛み殺した嗚咽
が涙と一緒に足音だけを残す乾いた土の道路に落ちた。鼻水がこぼれて唇を濡らした。し
かしセナはそれを拭う術を知らなかった。
 脚が地面に打ち付けられた杭のように、動かない。
 走れ!
 空に声が響いた。父の叫び声だ。最初で最後の叫び声だ。
 セナはゆっくり右足を踏み出した。続いて左足。よろめきながらも両足は動く。彼はゆ
っくりと歩いた。涙と鼻水と嗚咽を白い無人の道に落としながら、青空から降る声に背を
押され、ただ歩いた。


 脚がそこへ向かったのは、習慣によったのだろうか。気がつくとセナは壁の内に作られ
た唯一の小さな教会の前に立っていた。
 セナはよくこの教会へ足を運んだ。そこは新聞配達の折、一番初めに脚を運ぶ場所であ
り、彼の友人の住居だった。
 神父の息子が、セナのチームメイトだった。人一倍大きな身体をした、またデブという
言葉をも愛称として甘受していた彼、栗田は、セナをフットボールに誘った最初の人であ
り、セナが最も親しみ信頼を持った相手でもあった。
 神父と栗田の父子は教会で、壁の内にあって孤児になった子供を引き取っていた。彼ら
はそもそも裕福ではあったが、なにより外部とのパイプがあった。
 今のセナに、そのパイプを利用してどうにか逃げようなどというような考えはなかった。
ただ脚の赴くまま訪れただけだ。しかし結果的にはそれが彼の命を永らえさせた。
 セナはやはり廃屋のようになってしまった教会の中へ足を踏み入れた。教会と言えば天
井が高く、清浄な空気に、長机や椅子が生前と並んでいるものだったが、そこは天井も低
く、埃っぽくて、そのくせ随分閑散としていた。机も椅子も、暖を取るための薪にしてし
まったのだ。セナはまっすぐ祭壇に向かって歩いた。汚れたステンドグラスからくすんだ
光が落ちていた。その光の下で、セナは足を止めた。
「…セナくん」
 栗田の声が聞こえてきた気がした。この地区の人間は、昨日のうちに貨車に乗って運ば
れたはずだ。
「セナくん!」
 小さな叫び声は在りし日のように耳を叩く。セナは顔を上げた。すると、光を越した祭
壇の向こうの暗い壁にぼんやり顔が浮かんでいる。
「セナくん、こっち」
 あの丸い顔が浮かんでいる。大きな丸い頬。小さく円らな黒い目。そして大きな口がみ
るみる三日月のような曲線を描いて笑った。
 セナは自分の目にしたものが信じられなかった。
「栗田さ……!」
「しいっ!」
 栗田が口元に人差し指を立てる。
「早く、こっちに」
 セナはステンドグラスの光の下から抜け出すと、祭壇の裏に駆け寄った。壁板が一枚外
れて、そこから栗田が顔を出している。栗田に誘われるままにそこへ半身をいれると、小
部屋のような小さな空洞ができていた。
「よく来たね。怪我はない?」
 栗田が壁板を嵌め込むのを待って、セナは尋ねようとした。しかし何から口にすればい
いのか分からない。
「大丈夫、安心していいよ」
 板の隙間から差し込む細い光に照らされて、栗田の顔が見えた。安堵したような顔に、
少し笑みを浮かべていた。
「もう少しじっとしてなきゃいけないけど、大丈夫、逃げられるから」
 大丈夫、と言いながら栗田はセナの肩に手を置いた。セナはその狭い空間の中に腰を下
ろした。下ろした、というより抜けたのだろう。それからセナは糸の切れたかのように眠
った。


          *


 教会には数日潜んでいたという。栗田の父がどうなったのか、孤児達はどこへいったの
か、栗田は言わなかったし、セナも尋ねなかったのだそうだ。
 それから壁の外の協力者の手で無人の街を抜け出し逃亡する詳しい経緯を、セナは語ろ
うとしない。ただ一人の協力者の名だけは明かしてくれた。
 姉崎まもり。
 セナの幼馴染みで、セナ達一家が壁の中へ強制移住させられたとき、それを救おうとし
てできなかった女性だった。まもりはセナの姿を見つけると、ぎゅっとその胸に抱きしめ
た。そして普段ならその心配性から色々と口に出すところを、何も言わず、ただ黙って抱
きしめていた。
 セナは協力者の家で数ヶ月ぶりの温かくまともな食事にありつき、更に警戒のため何度
か場所を移動させられた後(この時点で栗田とは別れてしまったらしい)、隠れ家として
あるアパートの一室に連れて行かれた。
 そこは協力者の持ち部屋で、本来無人宅ということになっているため、潜んでいる間は
一切の物音をたててはならなかった。カーテンも開けてはならないし、もちろん外出もで
きない。火を焚くにも注意が必要だった。
 食糧はまもりともう一人の協力者が交代で月に二度訪れることになっていた。
 当面の食糧を置いて、まもり達は去っていった。最後にまもりはもう一度、セナを抱き
しめた。泣いていたと思う、とセナは語った。
 そしてセナは、何とその部屋で一年以上を過ごしたのだった。物音も立てず、語り合う
相手もなく、ただ、ただ、生き延びる日々。
「実は、何度も、カーテンの隙間から外の様子を眺めたんです」
 薄暗がりの中で、セナの手は無意識のうちに膝をさすっている。
「爆音が近くで響いたときとか、サイレンが聞こえたときとか。でも、特別なことがなく
ても、何度も。すぐ前の建物は軍病院だったんですよ。敵の懐のすぐ目の前に一年以上住
んでたなんて…」
 ぼくは思わず目を逸らした。セナの表情が余りにも虚ろだったからだ。
 セナの目が過去を追う。ぼくにも当時の彼の姿が見えた。ベッドの上で、壁にもたれ、
カーテンの隙間から外をのぞく。手が始終脚をさすっている。もう何ヶ月も走っていない
脚だ。そして首の上にはその虚ろな顔を載せていた。空の頭には絶えずあの声がこだまし
ていた。
 走れ、と。
 セナの魂はその声に背を押され、いつまでも走り続けていた。顔が虚ろだったのも当然
である。アパートの部屋に残っていたのは抜け殻だけだったのだ。
 ぼくは視線を再び彼に戻した。セナは一人がけのソファに深く身を沈め、目を瞑ってい
た。瞼を閉じたその表情は、死のように静かだった。






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