石造りの建物が両脇に迫る通りを無心に疾走する。狭い空は暗い青だが、端に紫色の夜 明けの気配が感じられる。早い、と直感する。スピードを緩めず角を曲がり、低い屋根の 家々の一角に飛び込む。 印刷所のインクの匂いがふわりと身体を包み込んだ。勢いよく引き開けた扉の上部で来 訪者を告げるベルが鳴るが、それも印刷機の稼動する轟音にかき消されてしまう。印刷機 の上では裸電球が揺れている。 セナは奥に向かって配達が終わったことを告げた。すると印刷機を縫って苦労症が板に ついてしまった石丸の顔が覗いた。彼は壁の時計を見上げ、次第に笑みを満面に広げなが らセナと時計を見比べた。 「ええ、二十五分…と三十一秒。やったぞ、また記録更新だ!」 石丸が手を差し出す。セナも手を伸ばし、いい音を立てて二人はタッチをする。 「もう走り出しの重さが気にならないんです。それどころか段々脚が軽くなるんだ」 「そりゃそうさ一軒ずつ、新聞は軽くなるんだから」 石丸は笑いながら手で額の汗を拭う。インクが額に一条の黒い線を引く。セナは笑いな がら、自分の汗を拭ったタオルを石丸に手渡して額を指差した。石丸も苦笑しながら額を 拭い、セナにコーヒーを勧めた。テーブルの上ではカップが、印刷機の振動に揺れながら、 湯気をたてセナを待っていた。 季節は秋に入り、風は早くも冷気を含んでいた。特定居住区には次から次へと新しい人 間が詰め込まれ、日に日に狭くなる中、黒髪の人々は自分たちを隔てるための壁を作らさ れた。腕章をつけた人間は歩道を歩くことさえ禁止され、壁の外ではアイシールド21の 負かしたチームが決勝の場で対戦相手に惨敗を期し、新聞で散々に叩かれていた。 チームが解散し、職を失ったセナはチームで世話になっていた石丸の小さな印刷所で働 いている。新聞、雑誌、いつでも、何でも、どこでも配達する。朝は毎日、まだ夜の内に 壁の入り口に着くトラックから何百部という新聞を受け取って、この印刷所に届ける。そ こから各家庭への配達が始まる。 誰の賞賛もない。新聞の届くのが一分早いからといって誰も誉めてはくれない。ただ毎 朝のタイムを石丸が計ってくれる程度だ。しかしセナは何も苦痛ではなかった。走ること でこの未来が光りある方へ打開できるような気がして、それを頼りに走り続けている。 分かるよ、と石丸は言う。チームに入る前は短距離走選手だった。 「走ることそのものが希望を生むような気がした。走ることが好きでたまらなかった」 今は父の代わりに弟達を育てるためこの印刷所を動かし続けている。石丸の父はあの準 決勝の日、勝利の笛を聞く前に息を引き取った。 「あれはあれで幸せだったんだろうな。こんな目に遭わずにすんで…。でも、俺達が勝っ たことはせめて知って、逝ってほしかったよ」 石丸の家はたまたま最初から居住区内に建っていた。ゆえに印刷所も畳まずにすんだの だが、それでも注文は激減していた。頼まれたものは何でも印刷する。時に過激な政治文 を頼まれるが、弟数人の食い扶持のためならば、仕事があるだけでもありがたい。 セナも最近は走り回るだけではすまない。刷ったものを街路で売ることもしていた。が、 今、読み物などほとんど売れない。通りに人が溢れているのは、建物内にもいる場所がな いからなのだ。 また、皆が求めているのは食料だった。紙に刷られたものは、金以外腹を膨らせる足し にはならない。 「人が山羊だったらなあ」 最近の石丸の口癖だった。 セナも使い道のない紙の束に囲まれ、薄いコーヒーをすすりながら同じ事を思う。今だ け山羊になりたい。腹が減っていた。 セナの父は早々に会社を解雇されていた。デスクワークがその半生を占めてきた彼は、 今懸命に職を求めているが、この塀の中で机に座るだけですむ仕事を新たに求めるのは難 しい。時々、慣れない日雇い仕事が手に入った。自分達と同じ民族の人間を詰め込むため の建物作りだった。元々地味な顔立ちが、最近ぐっと老けこんだ。 以前も、決して裕福という環境ではなかったが、それでも三食を欠くことなく、寝台の 中で寒さに震えることもなかった。 石丸も頬がこけていた。セナの父が自分の分を我慢してセナに余分にパンを渡すのと同 じことを、石丸は弟達にしているに違いなかった。 唸るような音を立てて印刷機が止まった。今朝の新聞に挟み込む広告文書が刷り上った のだ。二人は残りの新聞に、新たに刷り上ったちらしを挟み込んだ。 そこここで朝の気配が立ち昇り始めた。人の声、パンの匂い、生きたものの動く気配。 空の暗い青はいつの間にか爽やかな朝の青に色を変えている。 二人は新聞を等分すると扉を開けて玄関先に立った。石丸がドアの汚れた嵌め込みガラ スを振り返り、中の時計を確かめる。 「じゃあ今朝は五時二十一分出発だ。…五秒前」 セナは脇の新聞をしっかりと抱え込み、構える。 パン、と手を叩く音が鳴り響いた。二人は同時に反対方向へ駆け出した。 通りには朝日が射していた。眩しい金の光を目指し、セナは加速する。 ある夕、家に帰ったセナを待っていたのは、頬を腫らして苦笑する母親だった。不器用 で、料理も得意ではなくて、顔立ちもごくごく平凡な母だが、このような姿を見るのは初 めてだった。セナは絶句した。 「今朝、転んだのよ。ほら、あの人ごみだったから。コルセットをつけたのも久しぶりで、 苦しかったし…」 母が言葉を連ねる傍らで、父は何も言わず俯いていた。 今朝も、父が自分の分のスープをセナに分けようとするのを断って、セナは家を出た。 すると母が後をついて出てきた。給仕の仕事に就けるかもしれない、と彼女は言った。 その横顔は珍しく化粧をしていた。 「セナ」 行く当てのない人々の溢れる通りを歩きながら、母は真っ直ぐ前を見詰めたままセナを 呼んだ。 「あたしは父さんと結婚してよかったと思ってるの」 見合い結婚で冴えない男と結婚した彼女は、その男から贈られた、一つだけ持っている 錆びかけたコルセットで腰をきつく締めている。見上げた顔は化粧で固められていたが、 その目尻がふと垂れた。 「だから、頑張らなくちゃ」 母は壁の出口の方へ向かって歩き出した。 「僕も」セナはその背中に向かって声をかける。「僕も頑張るよ」 母の姿はあっという間に人ごみに紛れた。定時にしか開かない門の前には小山のように 人が群れていた。 夕食後、セナは黙って部屋に戻った。ベッド一つ据えるだけで一杯の狭い部屋だった。 壁には壁紙もない。以前住んでいた部屋の壁紙は母が選んだものだった。少し遅れた流行 の壁紙だったが、彼は十余年それに親しんできた。ほんの二、三ヶ月前まで自分がその部 屋を出ることなど考えもしなかったのに。 何故。 何故、突然自分達はこのような目に遭わなければならないのだろう。腕章を着け、歩道 と車道の間の泥水にぬかるんだ道を歩き、住居は狭い壁の内側に押し込められる。父は自 分のスープを我慢し、母は腕章をつけて歩いているだけでどこの誰とも知れない人間から 殴られる。勝利は幻のごとく消え、仲間達の顔ももう見ない。 セナは毛布を被り、声を殺して泣いた。 翌朝は脚が重かった。腫れた頬に似合わない苦笑が、腹の底に一つの重い石を落とした。 タイムもがくんと落ちた。石丸は何も訊かず、いつものようにコーヒーでセナを労った。 コーヒーを飲み終えるとセナは早々にバスケットに本を詰めて、通りへ売りに出た。石 丸の父が生前、売れない小説家から買い取った娯楽小説を纏めて刷った雑誌だった。 通り過ぎる壁は皆、冷たい石の壁か安いレンガだ。街を彩り、歩く人々を映すショーウ ィンドーは壁の中にはない。跳ねる髪を帽子で押さえつけ、くすんだ色のズボンと上着に、 靴だけしっかり履いたセナの姿も、暗い、埃に汚れた窓にぼんやり映るだけだった。 セナはいつもの場所にバスケットを置き、開いた蓋に値段を書いた張り紙を貼った。壁 には汚れた上着に身を包んだ老人が寄りかかっている。毎日そこにいるが、微動だにしな い。浮浪者は一定の間隔を置いてそこここに蹲っている。今朝は他にも街灯脇に座り込ん だ痩せた男が増えていた。しかし、やがて人が増え、それら姿も見えなくなった。 セナはぼんやりと街路に佇む。自分と同じ腕章をつけた人間達が、大きな通りを途切れ ることなく流れてゆく。しかし行く顔のどれにも覇気はない。大きな流れであるのに、見 ていると酷い閉塞感を感じた。 石畳の寒さが脚に這い上がってきた。爪先が痺れ出す。セナは俯いた。バスケットの後 ろに凍り付いてしまったかのような脚が揃って立っている。セナは足踏みをしようとした。 しかし脚は動かなかった。 憂鬱がセナの中から寒さを伴ってせり上がってきた。セナは唇を噛み、一層俯いた。 そこへ、ふと、周囲の空気が変わった。人の流れに変化が生じた。セナもそれに気づい た。冷気を体現したかのような気配が近づいてきていた。 「セナ」 気配はセナの前で立ち止まり、その名を呼んだ。が、セナは項垂れていた。もう一度呼 ばれて、首がようやく動く。卑屈な視線が下から声の主を見上げた。 背は、別に飛びぬけて高いわけではない。だが、その存在は壁の中にあって異質だった。 帽子を目深に被っていたが、短く切った金髪が後ろからのぞいていた。厳しく引き締めら れた口元。頬には十字の傷がある。 「どっか行ってよ。本、売ってるんだ…」 セナは虫の羽音よりも小さな声で言った。男はぬっと手を伸ばし、セナの腕を掴んで無 言のまま引きずっていこうとした。 「ま、待って…」 通りをゆく人は皆、知らぬ振りをしている。セナは慌ててバスケットを引っ張った。乾 いた音をたてて、蓋を繋ぐ蝶番が壊れた。 「あっ…」 セナは男の腕を振り解くと、バスケットを抱え込んだ。しかし尚も男の手は伸びてセナ の襟首を捕まえた。 いくら抵抗したところで男の力は強かった。セナは狭い路地に押し込められた。バスケ ットを抱えた手が路地の壁に擦れて、指の付け根の尖った所から血が滲んだ。 男は路地を塞ぐように両手を壁についてセナを見下ろした。 「じゅう……」 セナの声は名前を最後まで呼ぶ前に途切れた。煙草の匂いがしたからだ。 初めて会ったときのように、十文字からする煙草の匂いはセナを萎縮させた。チームに 所属していたときの十文字は煙草を吸わなかった。以前はその癖があったらしいが、チー ムにとけ込む内に煙草はきっぱり止めたはずだった。 セナはバスケットを抱えこんで、俯いた。 十文字は慣れた手つきで懐から煙草を取り出し、火を点けた。彼はマッチを足元に放る と、踵で踏み潰した。暫く溜めるような間があって、ふうっと煙が吹きつけられた。セナ は咳き込んだ。 十文字は手を伸ばすと、バスケットの中の雑誌を一部取り上げた。 「本、か?」唇の端を歪める。「あいつだろ。元陸上部」 「石丸さん……」 「売れねえぞ」 唇の端は機嫌の悪そうに歪められ、帽子の影からのぞく両眼は冷たく動かない。十文字 はつまらなそうにページを捲り、捨てるような手つきでバスケットに放った。 「いっそ身売りでもしたらどうだ」 「なっ、何ふざけてっ!」 「こっちに来い」 十文字は煙草を口から離すと、言った。セナは一瞬言葉を失い、初めて正面から十文字 を見た。十文字は溜め息と一緒に煙を吐き出した。安い匂いの紫煙の向こうから真剣な目 が見詰めている。 「軍に、入れ」 セナは瞠目した。十文字は淡々と続けた。 「志願兵はお前ら人種でも待遇が少しはマシだ。一人なら俺の力で入り込める。いざとな ったら、……俺の親父がいる。その髪の色もどうにか都合つける」 十文字は言葉を切り、しばらくその目を見返していたが、ふと目を逸らし、来いよ、と 繰り返し呟て忙しげに煙草をくわえた。セナはバスケットを抱き締め、俯いた。答える声 はなかった。 「……おい」 十文字が苛立たしげに促すと、セナは俯いたまま首を横に振った。 今度は十文字が目を丸くする番だった。 「馬鹿じゃねえのか。食料もある。寝床もある。その糞ったれな腕章も付けなくていい。 何より…ここから出られんだぞ」 セナは頑なに首を振った。 途端に十文字の目が鋭く尖った。彼はセナの細い襟首をぐいと掴み上げた。 「分かんねえのか。助けてやるって言ってんだよ」 「嫌だ」 「来い」 「嫌だ!」 叫び、セナは退いた。バスケットが湿った路地に落ちた。雑誌が音をたてて泥の上に広 がった。 十文字は手を伸ばす。 「聞き分けのねえ奴だな」 「僕は、行かない」 セナはしっかりと言った。腹の底に転がった石が震えている。自ずと震えそうになる自 分の声を抑えながら、セナは言った。 「僕、一人助かっても意味ないんだ! 父さんや石丸さんみたいに自分が我慢してお腹空 かせてる人を置き去りにして、自分だけお腹一杯食べたり、ただ道を歩いてるだけの、母 さんみたいな女の人を意味もなく殴ったり、それ見て知らない振りしたり、そんなことし たくない! それくらいなら……」 助からなくてもいい、という言葉は湧き出した涙に遮られた。 セナは突然、十文字に殴りかかった。高揚した感情の行き場に迷いながら、拳を振り回 した。しかし十文字は片手で簡単にセナの腕を掴むと、利き手とは逆の拳でセナを殴った。 それでもセナの身体は後ろに飛ばされた。泥水がズボンに染みた。尻の下が冷たくなる。 汚れた手で殴られた頬を押さえ、セナは顔を上げた。踵を返した十文字の後ろ姿が逆光 に黒く見えた。十文字は壁を強く蹴りつけると、後ろ手に煙草を捨てた。怒気を滲ませた 後ろ姿は通りの人込みに消えていった。 セナは尻餅をついたまま長く息を吐き出した。息は震えていた。セナは拳で涙を拭った。 足が転がったバスケットを蹴った。散らばった本はもう売り物にならないだろう。セナは ゆるゆると手を伸ばし、泥水の滴る雑誌を拾い集めた。 その上に今年最初の雪が降り出していた。 それからセナは雪の降り続く壁の中を毎日走り続けた。売れない本を前に毎日通りに立 ち続けた。時々、壁の向こうから投げ入れられる密輸品を拾う仕事もした。しかしそのど れも腹を満たしてはくれなかった。相変わらず人々は空腹を抱え、父は慣れない建材を運 ぶ、母は給仕に雇われては馘になり、石丸の印刷機は次第に稼働の回数を減し沈黙するこ とが多くなった。 寒さと空腹と走るばかりの毎日が過ぎ、セナは十文字とのことを忘れていった。その彼 と再び出会うのは翌年の春を過ぎ、暑くなり始めた日のことだ。 |