走った。
 走ることが人生の全てだった。
 ボールをがっちりと抱え込み、エンドゾーンを目指して、走る、走る、走る。
 人も、景色も、歓声も、全て背の後ろに置き去りにして、走った、走った、走った。
 そして見た世界は光に溢れていた。


          *


 走る。
 走ることが生きることそのものだ。
 いつの間にか、走ることから喜びが奪われ、ゴールが奪われ、光が奪われた。
 蹴る地面は剥き出しの土、乾いた道、銃声と断末魔の響く汚れた空の下。
 しかし走り続けなければならない。
 走ることを止めてはならない。
 たとえ喜びも、光も、全て背の後ろに置き去りにしても。
 エンドゾーンも、ゴールも、出口も奪われた暗い世界だろうとも。
 生きることは、走ることそのものだ。


          *


 小さな声でぼくに語った彼の物語は、例年より寒かったあの夏の日に始まる。
 セナはその時、まだ小さな痩せた子供のように見えた。幼く見えるほど若く、幼馴染の
女性に向ける笑顔は頼りなく、その正体を隠して市街の只中に住んでいた。
 正体と言うと大袈裟なようだが、事実、なかなか重大なことだったのだ。彼は弱々しい
子供のようだったけれども、実は何とフットボールの選手だった。本名、年齢、出身地、
全てを非公開にして彼は弱小の、しかしれっきとしたプロチームに所属していた。ぼくは
今でこそその事実を知るけれども、もしその時代に街で彼に出会ってもそうとは信じなか
っただろう。唯一残った家族写真の中でも彼はおどおどと笑っている。
 七月にしては涼しいその日、石畳の道に真夏特有の脳を蕩かすような熱気は見当たらず、
路地をゆく野良犬も涼しい顔をしていた。けれどもフィールドには熱気が渦巻いていた。
それを巻き起こしたのが彼、アイシールド21と呼ばれる選手だった。
 アイシールド21は六十ヤードを独走し、タッチダウンを決め、その年度で記念すべき
勝利を上げていた。彼らのチームは決勝への切符を手に入れたのだ。街中が沸いているか
のような歓声の中、彼はばったりとエンドゾーンに倒れこんだ。そこで力尽きたのだ。仲
間の背に負ぶわれて去る彼に、観客全員が拍手を送った。彼は自分の手にした勝利に、微
かな笑みを浮かべ、気を失った。
 だからその通告を直に聞いたのではないのだそうだ。
「雪さんに分かりますか、この衝撃」
 セナは小さな声で話す。
 薄いカーテンを引いた仄暗い部屋の中で一人がけのソファに深く身を沈め、閉じた瞼を
少しだけ開く。影の中でそれは憂いの色を湛え、ぼくを越したどこか遠くを見ている。一
瞬前まで彼の纏っていた歓声は幻となって部屋の静寂に吸い込まれた。
「たった今手に掴んだと思った光が砂になって崩れ落ちる。欠片さえ掌には残らない。そ
れだけじゃないんです。家族と家をいっぺんに失ったみたいなものだった」
 アイシールド21は決勝のフィールドに立つことが出来なかった。
 喜びの興奮冷め遣らぬ控え室にその知らせは届けられた。スポンサーの企業が政府の命
によって縮小、分散され、チームは解散されたのだ。
 同じ日、彼もそうである僕ら黒髪に黒い瞳の民族は特定の腕章をつけることを義務付け
られ、同時に特定居住区への強制移住が始まった。
 僕は机の上に置かれたあるものを見た。それは長い間、埃や泥水を吸って茶色く汚れ、
擦り切れた腕章だった。セナもこれを見て頷いた。僕は無言で彼を促した。
 セナは目を瞑り深い息をついてゆっくりと沈黙した。長い沈黙の後で、長い夢からよう
やく目覚めたかのように口を開いた。
 冷たく、長い季節の物語を、彼は小さな声で語りだした。






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