ヒル魔がずるずると身体を起こした。と、まだ自分の中に埋まったままのそれが引き抜
かれる痛みに、セナはまどろみから引き戻される。
「ん…ん……」
 ヒル魔が完全に自分の中から退くと、セナは大きな息をついた。何度か瞬き、天井や部
屋の隅を眺め、最後にヒル魔を見る。
 それまで苦しく、痛くてたまらなかったものが、なくなった途端、身体には妙な感覚が
残る。ほっとして気も楽になったのに、不安になるような奇妙な違和感だった。
 ヒル魔の表情も変わっていた。ベッドに入る前の無表情でも、この上で何度もキスをし
た時に見せたセナの胸を切なくさせるような表情でもなく、試合に負けた時でもこんな妙
な顔は見たことがない。静かで、変に落ち着いていて、優しいような、優しさなどないく
らいに冷静なような。
 衣擦れの音がした。ヒル魔がベッドから下りたのだった。セナは黙ってその背中を見送
った。
 ドアが閉まり、廊下に点けられた電気が隙間から淡く漏れる。
 セナは目を閉じた。瞼は、一度下りると、もう二度と開かないような気がした。自分が
丸裸のまま、他人のベッドの上に仰向けに寝転がっていることにも気が回らない。
 ――ヒル魔さん。
 無意識の内に名前が浮かぶ。彼の姿が浮かぶ。彼の声が聞こえ、彼の手を思い出す。
 間近で見た彼の表情。初めてかいだ彼の匂い。清潔なマンションの清潔な部屋、清潔な
ベッドの上が広大なこの世の全てで、その中、彼の存在ばかりを信じて、ひどく長い旅を
終えたような気分だった。
 顔が見たい。また声が聞きたい。不意に泣きそうになった。
「おい」
 ぞんざいに呼ばれる。
 セナは返事をしなかった。黙って目を開けると、横にヒル魔が座っている。金の髪がし
っとりと濡れ、身体から暖かい気配がする。夜気の中にふわりと浮かび上がる湯の匂い。
肌から湯気が上がっているのだ。下に穿いた寝間着の清潔な白が闇の中で目新しい。
「起きれそうか」
 ヒル魔の言ったことを理解しようとしたが、それよりも瞼がうっとりと閉じようとする。
今ヒル魔の言った言葉も、意味不明の木霊となって耳から耳へ抜けていったようだった。
「おい」
 軽く頬を叩かれる。ちょっと驚いて目を開けると、ヒル魔が呆れ気味に溜め息をついた。
「起きられるのか」
「…はい」
 セナは掠れ声で答え、肘に力を入れ身体を起こそうとして腰から下が痛むのを感じた。
思わず出た声と共に顔を顰めると、ヒル魔が腕を差し出す。
「あ、すいません…」
 恐縮しながらその手に掴まろうとすると、腕はセナの手をすり抜け脇の下にもぐりこん
だ。
「わっ」
 もう片腕が膝の下に滑り込み、ヒル魔は軽々とセナの身体を抱え上げた。そのまま、す
たすたと開いたドアの方へ歩く。
「あっ、あの自分で歩き…」
「黙れ」
 短く一蹴される。セナも口を噤んだ。
 廊下の電気は消えていた。だから自分がどのような格好でいるのか、ほとんどセナは見
ることがなかった。
 廊下の反対側に開いた扉がある。抑えたオレンジの淡い光が点いている。バスルームの
ガラス戸をヒル魔が足で開けると、湯気が包むようにセナの顔に触れた。ヒル魔は濡れた
タイルのうえにセナを下ろした。
 湯船から溢れた湯が座り込んだセナの足を濡らした。湯がバスタブを満たすほどの時間、
自分はうつらうつらしていたらしい。
「自分で洗うか?」
 頭上から問い掛けられる。セナが顔を上げると、長い人差し指が指差している。それが
どの箇所を指すのか、セナは何度もヒル魔の顔と指先を見比べた。
「あ…」
 思い至り、強く頷く。ヒル魔は、そうかと頷くでもなくバスルームから出ようとした。
 その時。
「ヒル魔さん」
 ふと名がセナの口をついて出た。
 ヒル魔は立ち止まって、少し振り返る。
「ヒル魔さん…」
「…寝るんじゃねーぞ」
 ゴムパッキンが軋み、ガラス戸が閉まる。蛇口から流れ出で続ける湯の音だけが、狭く
仄明るく暖かい空間に響く。
 セナは手桶に湯を汲むと、頭からそれをかぶった。湯が頭の先から、息を止めるように
顔のうえを流れ落ち、ばしゃばしゃとタイルの上で音をたてる。全身を包む湯の温かさ、
優しさ。額と首筋に張り付いた髪の毛の感触。セナは大きく息を吸い、長く吐いた。
 ――ヒル魔さん…。
 下半身に手を伸ばす。自然と目が閉じる。
 それまで圧倒的質量に支配されていたそこはじんじんと疼くような痛みと共に、あの奇
妙な感覚を引きずっていた。躊躇いながら指を当て入り口を探る。緊張しているのが自分
でも分かった。セナは深呼吸を繰り返した。
 耐えるように噛み殺した声が浴室に響く。指に絡みつく濡れるそれに、セナは喉の奥か
ら切なげな声を漏らす。
 何度となく湯をかぶり、シャワーで洗った後、セナはようやくバスタブに手をかけた。
 蛇口を捻って湯を止める。浴室は急に静かになった。
 たっぷりと湯を湛えた浴槽に身体を浸し、何考えるともなく湯気に霞む天井を眺める。
このまま時間はどれだけでも経ってしまいそうだった。上がらなければという気さえ起こ
さず、心地よい湯の中ゆらゆらと身体を沈めてていると、ふと湯気や疲れの幕を揺らして
微かに耳を打つ音がある。
 ――優しい音がする。
 のけぞる首が痛くなる。浴槽の縁にもたれかかると、湯が溢れ出し波音のように、流れ
る間耳を塞ぐ。それを聞きながら身体はまた言うことをきかず勝手に脱力する。そのまま
湯船の中、海月のように溶けるのではないかと思った。
 ――僕の身体じゃ、ないみたいだ…。
 とろとろと、まどろみかける。このまま眠ってしまいたい。
 寝るんじゃねーぞ。彼が上がりぎわ残した言葉に、ようやく身体を持ち上げ湯船から出
た。海月のように浴槽にもたれ、俯いていると耳元でシャバシャバと波音が響いた。湯当
たり寸前だった。
 波音がやんだ。静けさの中で、常に絶え間なく脈打つ心臓の音が聞こえる。自分の内部
に動くものの音が聞こえる。
 しかしその音は、外からそっとセナの鼓膜を叩いた。
 ――あ。
「…雨……」
 掠れた声が漏れる。
 雨音だった。
 聞くうちに少し頭がはっきりしだした。セナは相変わらずノロノロとした動きだったが、
何とか立ち上がりバスルームを出た。
 洗面台の前に立つ。手が思わず胸を隠したのは赤い痕が目についたからだ。そのものが
恥ずかしいと言うより、今夜それを教えられたばかりで、押し返そうとする手を優しく取
られ、見ている前でそれを付けられたことがセナの頬を赤らめさせた。
 脱衣所には柔らかなバスタオルと封をきっていない新品の下着、白い寝間着の上が用意
されていた。セナはバスタオルを手にとって顔を押し当てた。その中で息を吐くと、日向
で干されたものの優しい匂いがする。少しホッとした。
 身体はあちこち痛むものの、立っていられない程ではない。セナはゆっくりと髪を乾か
し、身体を拭いた。下着を身に着けて寝間着を羽織った時、頭の先から湯気と一緒に不安
が抜けた気がした。
 鏡に自分の顔が映っている。細めた目でこちらを見ている。セナは手を伸ばし、電気の
スイッチを切った。
 壁にもたれて廊下に出ると、暗くぼんやりした視界の中、寝室の入り口に佇む影が見え
る。ヒル魔が待っていた。セナは片手で壁にもたれたままゆっくりと歩き、ヒル魔の前で
立ち止まった。
 ――ヒル魔さん。
 また心が名前を呼ぶ。
「セナ」
 名前を呼ばれた。手が、肩を引き寄せた。
 背後で扉が閉まった。
 セナはベッドに腰掛けた。糊のきいた新品のシーツがかかっている。さっきまでぐしゃ
ぐしゃに乱れていたのに、魔法のようだ。セナはシーツのうえに手を滑らせた。涼しく、
気持ちがいい。清潔なもののよい匂い。部屋の空気も澄んでいた。最初にマンションのこ
の部屋に入った時のような、人工的なくらい清浄な空気だ。
 いや。
 ――雨の匂い。
 さわさわという音が蘇る。窓が開いているのかと顔を上げようとしたが、うまくいかな
い。さわさわという雨の音のような、電話向こうの雑音のような、遠いラジオの周波数の
ような、優しくセナを包み込む音に乗せて、彼の声が聞こえた。
「セナ」
 と、名前を呼んで、その先は急速に落下するセナの意識と一緒に眠りの果てに失われた。





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