柔らかな光が瞼の上からじわじわと身体中に馴染んでゆく。ゆっくりとした目覚めの感 覚に身じろぎするが、全体がどうにもだるくて動けない。それどころかその気だるさが心 地よい。布団にくるまれた肩が柔らかいぬくもりに満たされて、まだまだ細い腕も、裸の 足も、柔かな腹、薄い胸、どれもこれも、どこも、そこも、抜け出したくない暖かさの中 にいる。 寝坊してる……。眠りの底で呟く。光に晒された眠りの、その終りを告げるのが名残惜 しい。眠ってたい……。うっすらと瞼を開き。 息を止めた。 金色の髪。白い、けれど筋肉質な肩。引っかいた痕が赤く残る、白い背中。 セナは慌てて背を向け、思わず手で口を押さえていた。心臓が脈打つ音が聞こえる。喉 元まで出かけた驚きの声を飲み下し、息を整える。布団の中は暖かい。そのことに何故か 胸が締め付けられる。彼は布団を握り締め、子供のように身体を小さく丸め、息を止め、 混乱が過ぎ去るのを待った。 じっとしていればぬくもりが肌に馴染む。身体を包む羽根布団は触りが良く、とても心 地よい。けれども背中からは気配が感じられない。これ程側にいるのに。 溜めていた分深く息を吐き、気持ちを落ち着ける。もう一度目を開く。窓の外の朝日が カーテンのレース越しに差し、部屋を柔かな明るさに満たしている。セナはそろそろとベ ッドの上に起き上がった。 ベッドは思ったより狭かった。自分が布団を引っ張りすぎていたことに気付き、あたふ たしながら、隣に眠る剥き出しの肩に布団をかける。ホッとして、ため息一つ。 改めて周囲を見回しても、昨夜のことを思い出させるものはない。脱ぎ散らかした服も 見当たらない。布団は柔らかく二人を包んで、ベッドも清潔な匂いのするシーツが敷かれ ている。 ――不思議だ。 口には出さず、呟く。 ――服、どこいったんだろ…。 だぶだぶの寝間着の胸を掴む。昨夜、目に焼きついた清潔な白。指先まで隠す程に袖が 余る。小さく鼻を鳴らして匂いをかぐ。彼の匂いがする気がする。また胸の中に熱が宿る。 「………さ…」 名前を呼ぼうとして、声が嗄れていることに気付いた。喉がカラカラだ。 セナは相手の方に向き直り、少し身を屈め、内緒話をするような小声で名を呼んだ。 「ヒル魔さん」 呼んだ後、息を止めて返事を待つ。 静かな空間の外側で、生活音が動き出しているのが聞こえる。車の音。自転車のブレー キ。カラスの鳴き声。それを警戒する犬の声。人の生活する、それら音。 不意に喉の渇きがたまらなくなった。 けれども勝手に台所へ入るのははばかられた。昨夜……。 ――ああ、また昨夜のこと……。 全てが昨夜に端を発するのだ。初めて踏み入れた彼の部屋。清潔なリビング。まるで新 品同様に整理されたバスルームと洗面所。勝手に歩き回るのは、自分の知らない彼の上を 裸足で踏むようで、むしろ恐ろしくさえある。 落ち着かなさと比例して、いよいよ喉が渇いてゆく。 意を決し、掠れる声でそっと呼びかける。 「あの、台所でお水をもらっていいですか…?」 寝息さえ聞こえない。 セナは肩を落とした。 「…って、寝てるのに聞こえるはずないか……」 口の中で呟くように言った言葉だが、セナが一人で居心地の悪い沈黙を作る前にそれは 吹き飛ばされた。 呵呵大笑、とは言うけれども。 火の燃え上がるような勢いで気配が蘇る。耳馴染みのある声が、まるで新鮮な響きを持 って笑っている。セナは一瞬、首をすくめたが、すぐにその笑い声の主に気付いて振り向 いた。さっきまじまじと見つめた肩が震え、髪が笑い声にあわせて揺れている。 セナの顔は一瞬にして赤く染まった。まさか狸寝入りだったなんて、人が悪すぎる。こ の人のことは一年間見てきたつもりだったけど、でも! 「ひっ、ヒル魔さ……っ!」 声は掠れた上に上擦っていた。もう、歯向かうことも出来ない。 「……そんな、笑わなくても……」 セナが俯くと、手がポンと頭の上に乗せられ、長い指が髪を梳いて掻き回した。 顔が上げられない。恥ずかしさとは別に、顔がまた赤くなる。 身体を固くして俯いていると、手が触れたときと同じ軽さで離れた。 「待ってろ」 そのまま彼の気配は離れた。布団を捲る衣擦れの音。フローリングを踏む足音。ドアが 開き、一拍の間を置いて閉まる。 また静かな空間。少しだけ暖かさを残した、ただ静かなだけの。 ふと空気が動いた。セナはベッドから降りた。剥き出しになった膝から下が急に朝の空 気に触れ、びっくりしたのか、少し鳥肌立つ。 彼はたまらないように早足になると、ドアの前に立ち息を整えた。ドアノブをゆっくり 回す。コーヒーの匂いが鼻を擽った。 マグカップの一つに砂糖を入れようとしたところで小さな音がした。振り向くとセナが リビングのドアを開けて顔をのぞかせている。また自信なさげな愛想笑いが浮かんでいる のを見て、放っておいたらどうなるのかと黙っていたら、昨夜のようにリビングの床にじ かに腰を下ろした。 広い大きな窓から射す朝日を浴びてセナがまたうとうとと目を瞑る。ヒル魔はシュガー ポットを眺めたが、やがて角砂糖を二つマグの一つに放り込んだ。 セナの前に砂糖入りのコーヒーを置くと、うとうとしていた目がぱちりと開いた。あり がとうございます、と掠れた声が言う。ヒル魔も窓の側に腰を下ろし、コーヒーに口をつ けた。隣で一口飲んだセナが口の中で、甘い、と呟いた。 奇妙な沈黙がリビングを占める。それは口に出すべき言葉をセナが迷って作り出した沈 黙と言った方が正しかった。ヒル魔は別に沈黙も構わない。居心地悪そうにしているのは セナの方なのだ。 セナはマグの中のコーヒーを見詰めていたが、その唇が小さく動いた。 「あの…ヒル魔さん」 「何だ」 「あの……」 顔を上げたセナは眉をひそめ、小さく、すみません、と謝った。 「背中、痛かったでしょう…?」 小さな声が続ける。何か一生懸命になっちゃって、知らないうちに…。その、さっき、 背中に血がついてたから。爪で凄く、引っ掻いて、でも、ヒル魔さんが黙っててくれてる から…。 しどろもどろになりながらセナは言う。 「僕ばっかり、こんなに優しくしてもらって、こんな…気持ち良くて……何か凄く悪い事 してるみたいでっ」 言いながらセナは段々ヒル魔の顔から目を逸らし、 「その…ごめんなさい」 言葉を詰まらせ、手の中のマグカップをギュッと握り締めてうつむいた。 不覚とも思うのだが、ヒル魔はその時とっさに言葉を返すことが出来なかった。という よりも、人より精度のいい尖ったこの耳を疑った。まさか。 まさかセナがそういう風に感じているとは思わなかったのだ。それは全てにおいてだっ た。昨夜のどうしても目を覆ってしまう仕草や、キスにさえ見せた弱々しい抵抗。昨日、 春の少し早い日暮れから始まった慣れる筈もないあの出来事について、この性格だからモ ラルに苦しめられる事こそあれ。今朝の沈黙も居心地悪そうなそぶりも、そういうことだ と理解していたのに。 ──気持ち良くて、だと? 真っ黒なコーヒーを味わいもせずに飲み干す。目眩がしそうだ。 「おい」 「はっ、はい!」 「言ったぞ。俺がいいってんだから、いんだよ」 「は……はい」 「ちょっと目ぇ瞑ってみろ」 「え、ええ…!?」 途端に普段の警戒心が蘇ったのか、マグカップを盾に身を引く。 「何ビビッてやがる」 「だ、だってヒル魔さん……」 「じゃあ目は開けとけ」 そう言われると、また困った顔をする。 「ほら顔上げろ。目ぇ瞑れ。俺の言うこときけ」一瞬、計算も忘れ名を呼んだ。「セナ」 呼ばれた名前に真剣な気配を感じて、恐れはあったが素直に目を瞑り上を向く。 きっとキスをされるのだろうと思った。 だからその気配が自分の喉の下を降りて胸に触れた時は、身がすくんだ。余りすぎて大 きく開いた襟ぐりの、一番上のボタンに触れる感覚。長い指が両手で丁寧にボタンを外す。 そのことが分かって思わず下を向こうとすると、 「目ぇ瞑ってろ」 と小さく叱咤された。慌てて目を瞑りなおし、顎を上げる。 それでもボタンが次々に外される感触に、否応なしに身体が強張る。不安感に声が喉を 競り上がる。 緊張がピークに達したとき、ボタンを外す手が止まった。 何を、されるのだろう。 ぐい、と身体が引き寄せられ、膝立ちになる。足元ではマグカップが小さく震える音。 思わず息さえ止まる。 が、恐れにわななく心が、ふと静まった。 顎の下にくすぐったい髪の毛の感触。裸の胸に触れたそれは、自分の体温が高いのだと 知らしめる冷たい肌。固い額の。そして、小さく吐かれた息の微かに湿った感触と、意外 なほどの熱さと。 背中に回された腕が抱きしめる。息が詰まったのは苦しいからではない。 名前を呼ぶことも出来ない。硬直しまっすぐに下ろした自分の手をどうすればいいのか 分からない。声を出しても壊れそうな、今の、今。 セナは心の中で繰り返す。 この手。僕の手はあなたのように強くもなく、大きくも、美しくもないけれど。ヒル魔 さん。怒らないでいてくれますか? その時、胸に息が触れた。 「…いいぞ」 注意してようやく聞き取れる程の小さな声だった。けれどもセナには耳元で囁かれるよ うにはっきりと聞こえたのだった。 セナはそっと、空気を揺らすことさえ恐れるようにそっと手を伸ばした。 手のひら一杯で触れた肩は思ったとおり、少しひんやりとしている。 瞼の裏が白く光る。柔らかい朝日の匂い。鼻の奥に残るコーヒーの匂い。そして。 「あの、学校は…」 「休め」 リビングの床は暖かく背中に触れる。 朝日はいつまでも優しく、穏やかな春の暁の中、セナは柔らかく瞼を閉じた。 End |