暗い廊下にたたずんでいると、どこからともなくささやかな音が聞こえてくるのに気付
く。さわさわと葉の表を叩くような、それはかすかな雨音だった。突き当たった玄関のド
アの向こう、この建物の壁、周囲のひっそり静まりかえった民家の屋根を雨が叩いている。
まるで外したイヤホンから漏れ聞こえるノイズに似ていた。隔たれた世界の外側から聞こ
えてくる音だ。
 そしてまた玄関とは反対方向のリビングからノイズの中のラジオ放送のように声が漏れ
聞こえる。セナは俯き加減にちらりとそちらを見る。ドアに嵌まったすりガラスを越して
光はぼんやりと形なく拡散する。明かりがついているのは依然、リビングだけだ。ヒル魔
の電話の相手が誰だかは知らない。聞こえてくるのも「ああ」とか「だから」という文脈
を捉えがたい断片ばかりで、言葉はその続きを聞く前に、波のように打ち寄せる静寂に柔
らかく包みこまれる。
 暗がりの中でセナはその声に耳を澄ます。遠く遥かの無線を拾うように。耳を澄ます。
周波数を合わせる。彼の声だけに。
 ふと視界の端で闇が完成した。リビングの明かりが消えて、いや実際にはごく抑えられ
た光のダウンライトだけを残して、明かりが消えていた。思わず肩が強張る。ドアが開く。
表情は暗くてよく分からないが、相手は一歩踏み出した格好で少しだけ動きを止めた。
「…待ってたのか」
 うなずいたのが見えたようだった。近づいてきて、頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「……あの、さっきの」
「心配すんな」
 この人に心配するなと言われたら、本当に何も心配しなくてもいいのだろう。彼の言う
ことに嘘はない。彼は虚言を弄したりはしない。ただ、素直に行動するだけで。
 髪の上に乗っていた重みがしりぞいた。
 と思ったら軽く、軽くではあるけれども頭を叩かれた。
「え? え? え?」
 慌てて顔を上げると、ヒル魔が何とも複雑に不機嫌そうな表情を浮かべている。
「部屋に入ってろっつったろうが」
「あっすいません、でも電話気になって…、それに何か、緊張、して……」
 しゃーねーな、と噛み殺すように小さく呟き、ヒル魔は乱暴にドアを開けた。
「締め出されたくなかったら早く入れ」
 言い捨ててズカズカと部屋に入り込む。
 セナはまた一瞬びっくりして硬直したが、すぐに後を追った。背後で音もなくドアが戻
り、小さな金の音をたてて完全に閉じた。
 部屋は真っ暗闇だった。目が暗順応もしないほどに暗かった。それが突然の物音によっ
て破られる。セナの身体が防御のための反射のように勝手に一歩後じさり、背中がドアに
ぶつかった。
 開いたカーテンの脇にヒル魔が立っていた。右手には引き千切れそうなほど乱暴に引っ
張ったカーテンが握られている。窓の外は、夜。しかし眼下には雨にけぶる民家の明かり。
道中あんなに暗いと思っていた住宅街。しかし見ればたくさんの庭木に包まれて、確かに
生活の明かりが灯っているのだった。
 心地よい雨音がセナを包む。窓ガラスは既に雨で波打つように濡れていた。それほどの
降りではないと思っていたのに。
 さわさわと耳の周りを覆っていた雨音のノイズが、すっ、としりぞく。ヒル魔が見てい
る。窓からのかすかな光に横顔が露になる。口を結んだ笑いもしない無表情に、じっと見
られている。
「服」
 平板な声が問いかける。
「自分で脱ぐか?」
 脱ぐというやけに生々しい単語に、セナは動悸を速める。
 服を脱いで、それから? 今、ヒル魔は悪戯に言葉を弄びはしない。それから、は素直
に自分のしたいことをするだろう。それにうなずいたのがセナだった。
 セナはうなずいた。ドアにもたれかかったまま、上着のボタンに手をかけた。だが、ま
るで冬のかじかんだ指のように、それはうまく動かない。足元からぞわぞわと鳥肌が立っ
て、自分の指が、自分が震えていることを知った。唾を飲み込み、ゆっくりと呼吸し、ゆ
っくりとボタンをボタン穴にくぐらせる。一つ。二つ。
 脱いだ上着をどうすることもできず手にかけ、残った片手でネクタイと格闘していると、
不意にその手が引かれた。
「遅え」
 掠れた声が、言う。
 次の瞬間、コインランドリーの大きなドラムの中に放り込まれた気分はかくやと言うほ
どの感覚の混乱に見舞われた。五感全てが突然混乱した。乱れた指令系統が認識したわず
かながらもマシな情報によると、おそらく手は引かれただけではなく抱き寄せられ、足が
床を踏んだ記憶がないと言い、視界が回転し、聴覚が嵐にも似た音を聞いて、それから五
感諸共やられたという、全てを総合するとどうやら抱きかかえられて移動させられたらし
いが、尻の下でスプリングが跳ねても、しばらくセナは自分がベッドの上にいることに気
付かなかった。それは何も五感が全ての原因ではない。
 セナはヒル魔のシャツの胸を握り締める。喉の奥が唸るような声を上げる。あまりに長
い口付けに息が続かなくて苦しいのだ。自分の鼻息ばかりやたらと大音量で聞こえるよう
で恥ずかしかった。聞かれたくない。そう思って息を整えようとすればするほど苦しかっ
たし、鼻息は不規則に乱れた。
「ま、待っ……」
 待っての一言さえ満足に言わせてはもらえない。もう待ちはしないということだろう。
味わう、理解させるといった間さえ与えず、口付けはセナを追い詰める。
 獲物を引き裂いた猛獣が首をもたげるような仕草で、ヒル魔はセナの上からしりぞいた。
息も絶え絶えにベッドに横たわるセナの隣に、ゆっくりと腰掛ける。
 セナの耳がほぼその聴力をなくして神経系の高音と耳の側を流れる血液の激流を聞いて
いたとき、その向こうでかすかに舌打ちする音が聞こえた。
 舌打ち。セナは首を巡らせ、いつの間にか涙のにじんだ視界にヒル魔の姿を捉えた。今
の自分が無意識にだろうと舌打ちできるはずがない。ならば彼しかいないのだ。何か、駄
目なことしたかな…、とぼんやり思う。僕のせいかな…。
 そんなセナの視線に気付いてか、ヒル魔がこちらを向く。心持ち肩が落ちているようだ
が、まさか、彼に限って。
 そんな疑問が目に表れたのだろうか。ヒル魔の手が伸びて頭を撫でる。まるでヒル魔で
はない他人の手のように優しい。髪を梳く。今、一気に発汗して、髪の毛の中は温かい。
 ヒル魔の上体が傾ぐ。額に小さく口づけられた。それから髪の生え際。こめかみ。キス
を与えて、それから目を合わせた。
「目ぇ瞑ってろ」
 とろんとした瞼は素直に言うことをきいた。
 聞き慣れた衣擦れの音。ネクタイが外される。人に外されたのはこれが初めてだ。それ
から。瞼の裏に白い指が浮かぶ。ヒル魔さんの指…、と感覚を後追いするように瞼の裏の
映像は続いてゆく。人差し指が慣れた手付きでネクタイを外す。それから襟に触れて…。
シャツのボタン。ああ、僕、みっともない。自分で脱ぐって、一応、うなずきはしたけれ
ど…。
 指がシャツの上から身体の真ん中をなぞる。喉仏を軽く押して、そのまま下へ、胸の真
ん中、お腹の中心、そのすぐ下は。
 今までの脱力感からして、こんなに余力があるとは思わなかった。セナは飛び起き、ヒ
ル魔の腕を押さえた。危うくベルトにかかった手を押さえるのに成功はしたが、同時に自
分の頭を相手の顎にぶつけてしまった。この場合、相手の方が痛かろう。
「ご……」
 声が出ない。
「ごめんなさ……でも…そこ……」
「…けっこー余裕あんじゃねえか…」
 低い、声。
 無性に恐怖感が煽られて再び謝ろうとしたら、頭が下がる前に人差し指が額を弾いてい
た。
「あちっ」
 ばつ悪く視線を上げると、また弾かれた。
「いちっ」
 額を押さえながら顔を上げると、ヒル魔の表情がぼんやりと見えた。目が闇に随分慣れ
てきていた。彼は怒ってはいなかった。少し、笑っていた。





 next  index