清潔な部屋だった。生活臭はなかったが、無人の宅特有の埃っぽさもなかった。準備さ
れたモデルルームに突然放り込まれたような感じだった。
 けれどもヒル魔はここに、住んでいるのだろう。そこから見えるキッチンには調味料の
ビンも、コーヒーメーカーも封を切った豆の袋もある。ヒル魔はリビングにぽつんと置か
れたソファに無造作に上着を脱ぎ捨て、キッチンで水を飲んでいた。口元を手の甲で拭っ
ているらしい後ろ姿を立ったまま眺める。
 コップをシンクに戻したヒル魔が振り向いた。見つめ合ったのは長い時間ではなかった。
ヒル魔はシンクの上から別のコップを取ると、乱暴にペットボトルの中身を注ぎ、ズカズ
カとセナの前にやってきてそれを床の上に置いた。見ればそれはただの水だった。セナは
床のうえに座った。マットレスもクッションもないただ剥き出しのフローリングは今磨き
上げたばかりのように清涼だった。
 肩からバッグを降ろし、手で背後に押しやる。練習の直後で予期せぬ列車旅行、更に散
歩ときては喉が渇いているはずだが、セナはそれに手をつけなかった。
 背後ではヒル魔がソファに腰掛ける乱暴な音がした。ぼすん、と舞い上がった空気が陽
炎のように揺れて再び沈黙に静まった時、セナはようやく声を出した。
「ここ、どこですか?」
 セナの声はカラカラの喉を震わせ、小さく、嗄れていた。
 対してヒル魔はつっけんどんに一言答える。
「ホーンテッドマンション」
 それは確か千葉に所在を置く一大テーマパークのアトラクションの名だったと思うが。
 果たしてジョークのつもりで言っているのか、しかし背後に感じられる気配にそんなも
のは微塵もない。
 セナはコップの水に口をつけた。喉を鳴らし一気に飲み干す。やはり喉が渇いていた。
はあっ、と息をつく。頭が心地よい白さに包まれ、一瞬自分のいる場所を見失った。
 それでも正気に戻ったのは、この居慣れぬ空気のせいだった。窓のカーテンは閉められ
ておらず、普通一日そのような状態で部屋を放置しておけば夕方帰ってきたころには空気
がほこほこと暖まっているはずだが、この部屋はつい最前換気をしたかのように涼しい空
気に満たされている。空気清浄器が働いていると考えずにはおれない涼味だが、この沈黙
の中で聞こえるのは唯一、冷蔵庫の低い唸りだけだった。それ以外の家電製品は全くもっ
て静まり返り、天井の蛍光灯さえ息をひそめているような静けさだ。
「おい」
 その静寂を破るというより、むしろ静寂を際立たせるような声でヒル魔が呼んだ。
「いつまで背中向けてる気だ」
「あ…はい、すみません」
 セナは膝を擦り、向きを変える。ヒル魔がソファの上にふんぞりかえっていた。
「腹減ったか?」
「はい? ええと……分かりません」
「喉は?」
「お水もらいました」
「そりゃ俺の方が知ってる」
 面白くも無さそうな声で返し、ヒル魔はガラステーブルの上に足を乗せる。そこには塵
一つ指紋一つ落ちていない。
「ホーンテッドマンションくんだりついて来て、腹は減ってねえ喉は渇いてねえときたら、
もうすることなんかありゃしねえぞ」
 そこできろりと目が動き、下目遣いにセナの瞳を捕らえた。
「さっきの続きでも聞かせてもらおうか」
 きろりと動いた目が笑っている。
 ぽっと火がつくようにセナの体温が上がった。
「もう誰も邪魔しやしねえ。聞かせてもらおうじゃねえか」
 喉が凍りつく。さっき点火したと思った舌はもう燻りさえせぬほど炭化し、口内を潤す
唾液の代わりにセメントでも流し込んだかのような不快な重さが占めた。セナはうつむく。
髪の毛さえ重く、その間をやけにひやりとする嫌な汗が流れる。さっきまで清涼だと感じ
ていた床が、急に凍土にでも座っているかのように冷えびえしてくるのが分かる。
 惰性でついて来ただけだ。帰れないからついて来ただけだ。僕には術がない。しかしそ
うと口に出して言うことはできない。そんなことを言ったら……。自分が酷い目にあうの
ではない。そんなことを言うことは、相手を酷い目にあわせるということだ。とてつもな
く汚いやり方で。
 沈黙の重さに肩が耐えきれなくなったころ、セナはようやく前髪の間から怖々ヒル魔の
顔をうかがった。
 ヒル魔は見ていた。ただ見て、待っていた。待っているのが分かった。彼は、あの短気
ですぐさま重火器を取り出す彼は、今、丁寧なほど時間をかけて待っていた。
 彼が、待っている。セナは急に泣き出しそうなほど目が熱くなった。自分は成り行きで
ついて来ただけだ。決意も途中で投げ出してしまって、ただ惰性で脚を動かしついて来た
だけだ。なのに彼は待ってくれている。怒りもせず、少なくとも怒りを表には出さず、た
だ黙って。
「すみません」
 セナの口から思わずその一言がこぼれた。
「すみません……」
 そのまま泣き出してしまいそうだった。情けなさに耐えられなかった。
 言えない。大切な一言が言えない。今の僕には言う資格がない。
 かすかに衣擦れの音がした。フローリングを踏む無音に近い足音。
「まあ、なあ」
 天井の明かりを遮り、射す影。気配がぐっと近づく。相手が目の前にしゃがみこんだの
が分かる。
「顔、上げろ」
 その言葉に従う間もなく襟首は両手で掴まれている。それに一拍遅れてセナの顔が上が
った。
「ひでえ顔してやがる」
 そう言ってヒル魔は目を瞑った。顔がそれと分かる速さで近づく。それと認識できるほ
どの速度で。目の前の顔の焦点がぼけ、相手の鼻息がかすかに頬をくすぐり、唇に触れる、
その一番最初の皮膚の感触さえ一つ一つ認識できる速度で、彼はキスをした。
 キス。想像していたようなものでも、ヒットチャートを席巻するまだ二十にもならない
女の子が歌う歌にでてくるようなものでもなく。毎週読むマンガの中に登場するようなも
のでも、先日クリアしたゲームの中で緻密な3D映像が交わしたようなものでもなかった。
 叩きつけるように、それはただひたすら現実でしかなかった。
 そしてセナは四日前のキスがあまりにも荒々しいものであったことを知った。今の方が
重なっていた時間は短い。けれどもその数秒がどれだけ長かったか。そしてその感触が身
体中に痺れを起こし、満たすようなものを与えたことに、セナは心の奥底、カーテンの閉
じられた奥の奥底から地鳴りのするように震えるのを感じた。
「また目ぇ開けてやがったな」
 ヒル魔が指の節でセナの額を叩く。そして至極当然の展開のように言った。
「するか?」
「……え?」
 ほうけたセナの顔の前で、ヒル魔は自分の下唇を指先で叩く。
「したくねえのかよ」
 急にすべての感覚が生々しく活動を始める。濡れた唇。痺れる皮膚。誘いの言葉を聞き
取った耳がパニックをそのまま言語中枢に伝染させる。
「え、し、し、したい…なんて…そんな……」
「思ったことねえのか?」
「ええ!……なに……なに言っ…」
「しろよ。特別だ。目ぇ瞑っといてやらあ」
 そう言って目を瞑ってしまった。
 と言われてもセナは声も出せず、どうすることもできず、ヒル魔の顔を見上げた。座っ
ている分、立っている時程の身長差は感じないが、それでも相手の顔は頭ひとつ分上にあ
る。進とはまた違った鋭角な印象。つり目の瞳も、ツンとした鼻も、尖った犬歯も、一般
的ではない耳も、一年見慣れてきたものであるにも関わらず、全てが初めて見せる表情を
していた。
 閉じた瞼。罵言も吐かず、いつもの笑いも見せない閉じた口元。鼻からは息を感じさせ
ない。止めている訳ではないが、ひどく静かだ。そう、気配がない。この人が黙り込むと
怖かった。初めのころ抱いた印象を思い出す。そうだ、僕はこの人が怖かった。この人が
口を閉じて黙り込むと、尚のこと不安になった。
 閉じた口は何も言わず、閉じた目は何も指示しない。
 彼はまた、待っている。
 恐る恐る肩に手を置く。その瞬間、目が開いて笑われるのではないかという不安が掠め、
パッと手を離す。しかしヒル魔の表情は動かなかった。もう一度手を置く。眉一つ動かな
い。もう片方の肩にも手を置く。
 セナは息をついた。これだけでも緊張が高まる。
 身を乗り出し、初めて間近で見るこの人の顔。キスなんて想像がつかなかった。この人
がキスをするかなんて想像だにしたことはなかったし、まさか自分に触れるなどとは夢に
も思わなかった。
 しかし、今、身体を満たすこの気持ちは。
 息を殺し、顔を徐々に近づける。どうすればいいんだろう。ちゃんと、どうすれば。
 鼻の奥でキリキリと熱が引き絞られてゆく。目がうまく見えない。耳鳴りがする。
 息が苦しい。
 次の瞬間、セナは弾かれるようにヒル魔から身を離しうつむくと、はあはあと肩で息を
ついた。
「……おい」
 やがてヒル魔の声がした。
 ふと何かに気が付いたように一拍の沈黙が挟まれ、乱暴に頭を撫でられた。
「泣くなよ」
 気づけば、熱いと思っていた目の奥からはとめどなく涙があふれ、ぽたぽたと床に染み
を作っていた。喉が引きつり、嗚咽が漏れる。止まらない。
 頭を撫でる手が止まって、静かに尋ねられる。
「…嫌だったか?」
 その声は余りに静かだった。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を長い針で刺されたような
痛みが襲った。
「あっ…あのちがっ……違いっ…ますっ……」
 ようやく言葉にできたのはたったのこれだけ。言わなければならない。何もかも。嫌で
はないことももちろん、大切なことを。しかし喉は嗚咽で塞がれて、もう一言も発するこ
とが出来ない。握り締めた拳の上にいくつもの涙が落ちる。
 もう一度名を呼ぼうとするが、うまくいかない。
 頭に触れていた手が、ゆっくりと後頭部に移動した。耳の後ろ、うなじを包み込むよう
に触れる。
「セナ」
 一瞬、しゃっくりが止まった。頭がクリアになって、その一言だけが木霊する。
 セナ。
 セナ、と。
「訊く。最後だ。帰るか?」
 帰る。このまま。何もなかったかのように帰る。家に、帰る。何も言わず。大切なこと、
言うべきこと、何も告白せず。何もなかったかのような顔で。あなたを置いて。あなたか
ら離れて。帰るのか。
 セナは息を整えた。そしてゆっくりと首を横に振った。
「本当に?」
 うなずく。
「このままここにいることが、どういうことか解ってるか?」
 どういうこと、か?
「もう俺はコーヒーでもてなしもしねえし、宅配ピザも取らねえ。それでも…」
 顔を上げる。目が合う。彼はじっと自分の目を見ている。見つめ続けている。自分が顔
を伏せている時からそうだったのだ。彼は待っていた。
「それでも、ここにいるか?」
 セナはうなずいた。
 決意するように、しっかりと一度、首を縦に振った。





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