生ぬるい春宵の底を電車は走って行く。反対行きの電車はいつも混んでいるように見え たが、ベッドタウンとして有名な六つ目の駅を過ぎた辺りから乗客はぐっと少なくなった。 それまで詰めるようにして座っていたのが、もう一シートを二人で占領できるまでになっ ている。 二人で。 ヒル魔は一言も口をきかない。ほとんど乗客の降りきった今、余裕はありすぎるほどに あるが、セナはヒル魔の隣から離れられないでいる。せめてもう少し、人一人分などと贅 沢は言わない、鞄一つ分程度でいいから距離を置いて座りたいが、それもできないでいる。 別にヒル魔が強制しているわけではない。彼を縛っているのは彼自身の言葉だ。 「答えを出せ」 エイプリルフールの夕のように、平板な口調でヒル魔は言った。いや、あの瞬間の続き のように繰り返していた。その声を聞いた瞬間、セナもまたあの瞬間の延長線上に自分が 立っていることを感じた。 両手で襟首を掴まれ、勢いで爪先立ち。 恐れで目を瞑る。まるで獣に噛み付かれるのかと。 しかし牙は隠され。 口づけを、されたのだと理解もできなかった混乱のあの瞬間の、 「出たか? 答え」 再び声が降る。射るような視線と、平生目にするテンションとは掛け離れた声。否が応 もなく全身に緊張が走り、喉は凍りつき、首は項垂れてしまう。 踵がコンクリートを擦る音がした。いや、足音がしなくても分かった。ヒル魔が踵を返 し、自分に背を向けたのだ。 目の前で何かが破裂したような熱さを感じた。 「ヒル魔さん!」 顔を上げ、何かを振り切るように名前を呼ぶ。痛みさえ感じた。 「待ってください!」 「嫌だな。これから帰るんだ」 「じゃあついて行きます!」 その背中に爪を食い込ませるような強さで、セナは先を歩くヒル魔を見つめた。 四十ヤード、四コンマ二秒の脚。逃げなかった。その代わり、ついて行く。 この脚が僕を彼の元へ運ぶ。 ただし、いざ隣へ寄ってみれば情けなくもその脚は震え出してしまった。今にもガクガ クと揺れ出しそうな膝を押さえ、セナは視線を彼とは反対方向に逃がす。窓の外は辛うじ てその輪郭を残しつつ暗い青に染まっていた。全てが濃淡のついた青で彩色されたような 景色のうえに不安気な自分の顔が映っていた。見ればヒル魔の顔も自分とは反対方向を向 いている。 その顔がゆっくりとこちらを向き、ガラス窓のうえで視線が合う。 電車が大きく揺れた。窓のうえの自分たちもぶれ、電車は何度か揺れながら減速してい った。外に光が多くなる。駅が近づく。 プラットホームの向こうは暗いビルの壁面だった。明かりに薄れながらも窓のうえで二 人の視線は絡まったままだ。 車両の端に座っていたポロシャツ姿の男が大事そうに紙袋を抱え、猫背で電車を降りる。 反対側のホームの発車アナウンスが聞こえた。 その時、ヒル魔が笑った。 いつも見る、余裕や自信が暴力的なまでに溢れたあの笑みではなく、決して見たことの ない皮肉な、苦い笑いだった。ホームの明かりに薄れたせいでそう見えたのではない。 「どうする」 ヒル魔は言った。 「架橋を渡った向こうのホームに上り電車が一本、もうすぐ発車する。お前なら間に合う。 …俺は、追いつかないな」 その言葉に、かっと耳が熱くなった。 導火線のスイッチ。いかにも危険を表すような真っ赤なスイッチ。それは半分以上パネ ルに沈み込んでいたが、まだ完全に押されたわけではない。セナを待っている。セナが押 すのを。 遠くで発車の笛が鳴る。脚の震えが止まった。 舌に、点火。 「僕は……!」 空気圧の音も高らかにドアが閉まった。 それから電車は幾駅も走り続けた、先程とは比にならないほどの重苦しい沈黙を乗せて。 点火したばかりの言葉は空気圧の甲高い響きに遮られ、それっきりだ。揺らめく煙は嫌 に焦げついた匂いで沈殿する。それは駅に着くたび開閉するドアからの換気では解消され ず、呼吸さえ困難になる。セナはもう顔も上げなかった。向かいの窓に映るのは悄然とし た黒髪と、ヤマアラシのように相手を寄せ付けないツンツン尖った金髪、冷たく撥ね付け るような白い横顔。 アナウンスされる駅名は次第にセナの記憶の範囲をこえていった。窓の外は暗い。光は 唐突に現れ、ネオンが掠めたかと思うとまた沼の底を走るような輪郭さえない闇の中を走 った。 いつまで乗っているのだろう、とは思わなかった。既に思考回路は全ての問題の解決を 放棄していた。またスローダウンした電車がホームに入る。ドアが開いた途端ヒル魔が立 ち上がったので、自分もまた鞄を抱えて後を追った。知らない駅、知らない町だった。た だ、終点とはアナウンスしていない。 改札口は簡素で、二人が目の前にやってきてようやく窓を開け駅員が顔を出した。髪は 白くないが皺の多い顔だ。改札には彼一人しかいなかった。ヒル魔が定期を見せ、肘でセ ナを小突いた。セナは反対行きの電車に乗ったことをしどろもどろに話し、言われたよう に料金を払った。そして小さな駅舎を、ヒル魔の後について出た。 駅舎の外は暗かった。客待ちのタクシーが一台止まっているが、中の運転手は居眠りを している。運転帽を顔に載せているから、ついうっかりということではないのだろう。辺 りは静かで、少し早い虫の音さえそれを咎めなかった。 街灯が点々と続く。明かりは少なく、さっきコンビニを通り過ぎたきり煌々と電気をつ けた建物には出会わない。街灯の光の下に入るとローファーが鈍く光り、夜に踏み入れれ ば闇に溶けるように消える。セナは無言のまま、二つの踵だけを追って足を進めた。いく つ角を曲がったかも、どれほど歩いたかも分からない。世界が全て彼の踵のうえに収束し てしまったかのようだった。 唐突に踵は止まった。セナも相手の背中にぶつかる寸前で止まった。 暗闇の中に突如出現した真っ白な口。清潔というより、人気のなさによって強調される 白のエントランス。ヒル魔が立ち止まったのは自動ドアの開くのにかかった数秒だけだっ た。彼はポケットに手を突っ込み、キーホルダーの一つもついていない裸のままの鍵を取 り出し、エントランスのパネルに差し込んだ。さっきの自動ドアとは違い、こちらの自動 ドアはガチャンと大仰な音を立てて開いた。 踏み込んだマンションには、妙に人気がなかった。通路の天井から照らす蛍光灯の光が コンクリートのうえに落ちて白々しい。確かにそこを照らしているのに、まるでその使命 を放棄したように見える。そのうえを響かぬ足音を立てて踵が進む。 エレヴェーターを使って何階まで上ったのかは知らない。セナはパネルを見ようともし なかった。ヒル魔が壁にもたれかかって踵が見えなくなったので、今度は自分の爪先を見 つめた。 再び踵について歩き、一つのドアが開かれ、敷居を跨いだ背後でドアが重々しく閉じた 瞬間、ふと隔絶されたのだと思った。それまで知らぬ間に自分を包んでいた春の気配、近 所の草木の匂い、夕方の残した温度、全てが消えた。そして今はただひんやりとした微か に肌寒い空気。 それは他人の家に踏み込んだ瞬間必ず匂う他人の生活の匂いが、全くしなかった。 ヒル魔は乱暴に靴を脱ぎ、暗い廊下をずんずんと奥へ進む。セナは目が利かなかった。 その時、奥のリビングらしき所に明かりが着いた。セナは転がった靴の踵をしばらく呆然 とした様子で眺めていたが、罵倒するような声で呼ばれ、我に返った。そのように呼ばれ るのがまるで何年かぶりの出来事のような気がした。セナは靴を脱ぎ隅の方に揃えて置く と「おじゃまします」と到底リビングには響かぬ声で言った。 もちろん、返事はなかった。 |