風のないもったりとした陽気が身体を包み込む。電車は久しぶりに暖房を切って運転さ れていたが、それでも上着を脱ぐ人間がいるほどだった。太陽が消える間際の最後のとろ 火で街を焼き尽くし、とろとろと煮込んだ良い匂いの空気の底を電車は走る。 運転席の横の窓が開いていて、車内になだらかな空気の流れがあった。ふと、流れはそ れと分かる風となり、吊り革に掴まる女性のセミロングがふわりと揺れた。露になった白 い耳にはイヤホンがつっこまれていて、そこからはかなりの音量で「ジン、ジン、ジン」 と音が漏れている。 曲が変わったのか、一際ベース音が高くなる。隣の吊り革を掴んでいた制服姿の高校生 が、生真面目な造りの顔を深いそうに歪め、ぷいと離れた場所へ移動した。するとぽっか り開いた隙間に、小柄な影が現れた。両脇はそれほど混んでいる訳でもないのに、身体を 縮めるように座っている。 セナはため息を漏らした。 俯いた上に口元を覆う手で、一見ため息をついたようには見えないし、ついたという自 覚もない。そう、ため息ではないのかもしれない。それはか細い吐息。虫の息、だ。 この、もう二、三度気温が上がればすぐにでも汗ばむだろう陽気を詰めた電車の中で、 片手は口を覆い、もう片手は護るように肩を抱いている。わざわざ密着させて汗をかき易 くするような姿勢は、勿論、好きでしているわけではなかった。そうでもしなければはち きれそうなのだ。 今、セナの頭の中は混乱していた。のみならず、セナの身体に詰まっている全てのもの、 脳みそも、臓腑も、魂も。混乱したまま、放置されていた。彼にはなす術がなかったのだ。 初めから。 それはきっと一年前から。 そして今日も。 両手で襟首を掴まれた。あの細い指。いささか骨ばった、しかし丈夫な、長いあの指が 自分の襟首をぐい、と掴み。ジン、と耳の奥が鳴る。怯え、目を瞑る。映像はそこでスト ップモーションをかけられ、あまりに長い一時停止に再生装置は悲鳴を上げている。しか しここで一時停止ボタンから手を離せば、次の瞬間には再生装置もろともダイナマイトの ごとく木っ端みじんになるはずだ。 そしてまた虫の息。 今日がエイプリルフールだということは知っている。現に朝っぱらからモン太に今日の 練習は休みだと見え透いた嘘をつかれた。笑っていなし、二人で学校に向かい、なのに何 故帰りは一緒でないのだろう。モン太の姿は消え、まもり姉ちゃんも先に帰った。そして? エイプリルフールの話は知っている。四月バカの有効期限は正午までだ。午後はまた健 全な小市民の生活の復帰。嘘をついてはいけません。閻魔様に舌を抜かれますよ。だから モン太は帰った。二人で帰ろうとした矢先、罵言のごとくセナが呼び止められ、その時彼 は「待ってようか?」と言ったのだ。今朝、見え透いた嘘をついた口が、何げない口調で 惜しみない友情を提供した。 だから、知っている。夕刻はもう四月バカの通用する時間ではない。 あの時セナは、いいよ、と手を振った。駅までには追いつくよ。 そして振り返り、 「何ですか、ヒ───」 セナの肩がかすかに震える。顔を覗き込めば、目元が赤くなっているのが分かるはずだ。 それどころか、目の前で今週のヒットチャートに聞き惚れているこの女性さえ注意を払え ば、首まで真っ赤になっていることに気づいてもいいのだった。 確かに強く掴まれた、しかしもう皺も消えた制服の襟元をセナは神経質に直す。歯の奥 を食いしばって。目の縁は赤く。そしてまた隠す口元。ため息。この一連の動作を繰り返 す。 あまりの執心に駅を乗り過ごしそうになったが、間一髪駆け足で駆け降りた。目の前の 女にぶつかり、弾みに片耳のイヤホンの取れた女が悲鳴を上げたが、振り返らなかった。 そのまま改札を通り抜け、セナは、すっかり火の消えてぬるくなった春宵の下をひたすら、 その四十ヤード、四コンマ二秒の足で走り抜ける。 「答えを出せ」 起きている間中、この言葉が頭のどこかで響いている。眠っている間だって、覚えてい ないだけで本当はうなされているのかもしれなかった。実際、先の四夜のうち三夜は汗び っしょりになって目を覚ました。単にここ数日夜の気温も上がったせいかもしれないが。 「セナ、起きなさい。セーナー。今日から練習始まるんでしょ? 起こせって言ったのセ ナよ、起きて」 母の声が階下から聞こえる。おそらく自分が起きていることは知っているのだろう。こ の一年でセナの生活はみちがえて規則正しくなってしまったのだから。 「変わったわ」 父に向かい嬉しそうな囁き声で母が言ったのを、こっそり耳にしたことがある。母はセ ナのいないところで父と噛み締めるように嬉しさを分かち合っていた。 一年。激動の年。兎烏怱々の日々の中で起きる大きな変化。地を踏むこの脚から湧き上 がってくる力。初めて得た仲間、友と呼べる人。そして数日前には新年度が始まり、まる で最後の一撃を叩き込むように起きたもう一つの変化。 もう一つの変化? いやそれは一年をかけてゆっくりと知らぬ間に成長し、起きた変化 だった。だからあれは。衝撃。事件。大事件だ。レントゲン写真を提示された瞬間に露呈 する衝撃の事実。実はあなたの身体はこれ程までに蝕まれていたのです! 前代未聞の大 事件。警視庁二十四時もロズウェル事件も目じゃない、セナにとっては。 スイッチが押された瞬間、カーテンが取り払われ、今まで見ないふりをしていた事実が 明らかになる。そうカーテンがかかっていたのは「彼」にではなく、自分自身に。アメフ ト、熱意、学校、まもり姉ちゃん、親友、仲間、進、それら存在のプールをかき分け、四 月の夕暮れのようにもったりとした熱の底へ潜ってたどり着いた底にかけられていたカー テン。スイッチが押された瞬間に取り払われ消し飛んだ。そして見たのは。 変わったよ、お母さん。言われたとおり、確かに僕は変わった。けど僕が変化すること に善し悪しがあるなんて今の今まで考えたことがなかった。そりゃ一年を振り返れば、知 ってる、九割九分九厘僕にとっても素晴らしい変化だったことくらい。しかしそれも数日 前までの話。 ちゃぶ台を囲んで家族三人そろっての朝食をとり、そしてこの後は部活に行く。日常と いうものはまるでパラパラマンガを何度も捲るように同じように繰り返される。高校生の ありがちな日常。学校行って、部活行って。パラパラと、同じように。 同じように? 本当に? 「答えを出せ」 突然挿入された非日常の瞬間。 セナは飯を喉に詰め込み、むせた。 テレビゲームは得意だ。と言ってもゲーマーと称するほどではない。独り部屋で時間を 潰す程度の、だ。もしこれを得意だと胸張って言えたなら、この一年以前に自分をパシリ に使わない友達を作れていたはずである。ならば「できる」と言おう。 テレビゲームはできる。大きく深呼吸。初めて新機種の目玉ゲームを目の前にしたとき のように。コントローラーを巧みに操り、僕は日常の中に。これはバランスが難しい。右 にも左にも不用意に傾いてはいけない。 「─────」 聞こえてくる声に惑わされてはいけない。集中力が一番です。 吹く風が冷たく、また強くなってきた。空一面に低い雲が蔓延り、上空から染められる ように景色が灰色になってゆく。時計は見えないが、いつも練習している勘でおおよその 時間は見当がつく。十八時前後。 今まで保ってきた。もう夕方だ。雲の向こうではもうすぐ日が暮れる。あと一歩。解散 になれば、あとは四コンマ二秒の脚が僕を連れて逃げてくれる。僕の脚が僕をつれて逃げ る。地獄の番犬だって追いつけやしない。 セナは気を抜いてなんかいなかった。逃げ切るその瞬間まで彼の集中力は途切れること はなかったはずだし、零コンマ九秒は大した差だ、逃げ切れただろう。 ただそれも走りだせばという前提の元で成り立っていたのであって。 「糞チビ」 スイッチ一つでセナはまたプールの底へ突き落とされた。 |