ヒル魔は銃を見つめる。オートマティックのそれを見つめ、路地の向こうを眺める。深 夜のスラムは静まり返り、野良犬さえ眠っていた。もう何日も雨など降っていないのに、 ここは湿った空気と饐えた匂いが篭っていた。ヒル魔はベルトの間にぞんざいに銃を押し 込むと、ゆっくりと歩き出した。 知らず手がポケットに突っ込まれる。手首はまだ痛む。誰かに痛みを与えられたのは久 しぶりだった。 頭上は屋根だか空だか判然としない暗闇に塗りつぶされ、闇の濃さに人の方向感覚は狂 わされる寸法だが、ヒル魔のゆっくりとした歩みは確かにスラムの出口へ向かっていた。 進は外へ出たろうか。おそらく出ただろう。もう足音が響かない。 何してる、と尋ねると、進は真顔で 「お前を捜していたんだ」 と応えた。 「桜庭は」 「帰国した」 「お前、一人で飛行機乗れんのか」 「そんなものはどうとでもなる」 息が上がっている。顔が赤い。どれだけ走り回ったのだろう。この街は狭く見えて込み 入っている。初めて訪れた者が一人の人間を捜そうとて無理な話だが、進はやってのけた らしい。たいした執着だ。 既に日は落ちていた。スラムには真夜中とまごうほどの闇が下りている。 「そんななりでうろついてたら、襲われても文句言えねえぞ」 「それがどれ程の恐怖か」 進の視線はしっかりとヒル魔の目を捉えている。 「帰って来い、ヒル魔」 この一途過ぎる言葉は、視線は、思いは何だろうか。ヒル魔は肩にぶらさがるような疲 労感を感じた。呆れついでの笑いさえ湧いた。進の目は一途過ぎて埒があかない。ヒル魔 は踵を返した。 次の瞬間、強い力が手首を掴んで引きとめた。一瞬、痛みに顔を顰めながら科白を捨て 吐く。 「日本には一人で帰るんだな。俺にはやることがある」 「人を殺すことか」 侮れない。ヒル魔は口を噤んだ。黙って見返すと進が言葉を継いだ。 「株で大儲けすることか。それともこの街で小早川と腐るまで怠惰な生活を送ることか」 「答える義理はねえな」 しかしその手は振りほどけなかった。逆に引き寄せられる。 「何故だ」 もどかしげに声が歪む。進は尚も強く手首を掴んだ。指先は段々痺れてゆく。しかしヒ ル魔はもう表情を変えなかった。闇はいよいよ濃くなったが、それでも進の表情は分かっ た。沈痛なほど、暗く、おそらく彼なりの悲しみに満ちていた。 それ以上、進は何もできなかった。 ヒル魔は痛む手首をポケットに押し込み、歩く。明かりが一つ二つと周囲に増えてゆく。 車が走る。人とすれ違う。饐えた匂いが食べ物と酒と煙の匂いにとって変わる。 ネオンを眺めるヒル魔は、無意識の内に舌打ちをしていた。 潮時ならとっくに訪れていた。部屋を襲われた時点で。そもそもこの街に二人で降り立 ったこと自体、間違っていたと言える。端から姉崎の案を飲めばよかっただけの話だ。そ うすればこの街に来ての何もかも、起こりはしなかった。進がこの街を訪れてヒル魔を不 快にすることさえなかったかもしれない。 セナ。 進の執心など比べ物にならない。 一台の公衆電話の前で、ヒル魔は立ち止まった。コインを投入し、躊躇わずボタンを押 す。そして珍しく溜め息をついた。 「ヒル魔さん、海水の匂い…」 ヒル魔は応えず、ズカズカと狭い廊下をセナを押し退けシャワー室に自分の体を放り込 んだ。億劫な腕を伸ばしカランを回すと、生温い水がぼたぼたと勢いなく流れ落ちる。シ ャワーはタイルの上でびたびたと気に入らない音を立てながら弾け、足を濡らす。 夜明けの薄明りが換気扇の向こうに見える。彼は物憂そうにそれを睨んだ。 廊下が高く軋んだ。足音を潜めようとすればするほど、この古い部屋はそれを裏切る。 しかしヒル魔はもう何も言わなかった。顔を上げさえしなかった。 「喉、渇いてませんか?」 囁くようなセナの小声がドアの陰から聞こえた。空耳かと思ったが、じっと答えを待つ 気配がする。 「水」 短く吐いた。 「お腹は…」 「いらねえ」 廊下の軋みがシンクに向かう。そしてまた不器用に軋ませながら足音は戻ってきた。 「…来い」 戸口で躊躇っているので、命令調に呼ぶ。 白い裸足が湿ったタイルの上を踏む。それが跪きそっと差し出されたプラスチックのコ ップの中身を一気にあおった。それは半分溢れ、冷たい感触が胸の内と外を伝う。唇に氷 が触れた。 軽い音が跳ねる。氷はタイルの上を滑り排水口に落ちる。コップは残響を残しながら転 がった。 ヒル魔は口に残った冷水を、小さな唇を割り無理矢理流し込んだ。 後ろ髪を乱暴に掴まれたセナは小さくうめきながら、しかし両手でヒル魔にしがみつい ていた。喉が鳴り、飲み下す音が聞こえた。 はっ…、とあえぐ息。ヒル魔は鼻から深い溜め息をつく。 薄く明け始めた闇に目が慣れて、セナの表情がぼんやりと見える。目を伏せ、噛まれた 唇に指を当て息をついている。 「血の…匂いじゃない…?」 突然の呟きに、ヒル魔は一瞬息を止めた。 ヒル魔が造りの悪いゲストハウスで海水のシャワーを浴びるのは、その身が血を浴びた 時だった。塩辛い水でまぎらわせ、全ては仕事先での不運を装い、この部屋に戻る。 そう、あれもただの不運だ。 セナの手が、伸びた。 カランを無理に回す。それでも水は相変わらず生温く、勢いがなく、カランはしまいに 空回りを始めたが、突然スコールのような大水が二人を襲った。 水音が二人の耳を塞ぐ。 ヒル魔は水滴に邪魔をされながら目を開いた。 セナの唇が動く。まるで無声映画のようだ。 ヒル魔さんは僕に、何も知るなって言いましたよね。 顔が上がる。黒い目が見つめている。 僕、覚悟は決めましたから。 「…何だと」 「覚悟を決めました。僕はヒル魔さんと生きるんです」 黒い瞳は強く心臓を掴むかのように彼を見つめた。それは先に彼の手首を捕まえたあの 男よりも強く、銃口よりも容赦がない。 水音が二人を包んだ。換気扇のゆるゆる回る向こうで、夜が明けていた。 |