足音を、聞いている。
 土と汚水の上を無理やりコンクリートで塗り固めて、それで崩れ出した泥が顔を出し、
その上に更に無理して家を建てたりビルを建てたり、無理と誤魔化しずくしで軋む街の上
を軽やかに蹴りつけてどこまでも走ってゆく足音。細い脚の叩き出す40ヤード4コンマ
2秒の足音だ。
 匂いをかぐように足音を聞く。知覚の一つ一つに擦り付ける。音と、リズムが肌を震わ
せ、血流に馴染むように。細胞の一つ一つにその振動を染み込ませるように。
 きっと最後まで、この音を聞けるものだと信じる。
 ヒル魔はベッドの上で薄目を開け、天井を見上げた。否、天井を突き抜け、排ガスの層
を突き抜け、更に上を糞なほど清々しく広がっているだろう青空を見て、唇を歪め、笑っ
た。
 目が醒めた。
 弾みをつけて起き上がる。気分は悪くない。ベッドの隅にはセナが寝間着代わりに着て
いるヒル魔のシャツが丁寧に畳まれている。素肌の上にそれを羽織り、片手で雑にボタン
を留めながら靴を引っ掛ける。
 ドアノブに手をかける前に、もう一度耳をすました。もう足音は聞こえない。
 後ろ足にドアを閉め、部屋を出た。暗い階段の壁のあちこちに落書きがある。暗がりの
中に性と死が犇めいている。ヒル魔はその一角に目を留めた。壁の上部を走る配線の一本
を掴み、引き千切る。これにはもう用がない。
 ぼんやり明るいのは一階の口だった。しかしヒル魔はそれに背を向け、一階の廊下の奥
へ足を運んだ。最奥の細長い扉を合鍵を使って開ける。
 油の匂いが鼻をついた。換気扇でも追い払いきれなかった油と料理の匂いが四方から滲
み湧く。一歩踏み出すと少し濡れたタイルが硬い音をたてる。ヒル魔はドアを振り返らな
いまま鍵をかけ直し、細長い部屋の中へ進む。
 窓もない暗闇。しかし徐々にその姿が露になる。鈍く光るステンレスの台。その上で凝
ったような気配を発している大きな鍋、鍋、鍋。研がれ、壁にかけられた包丁。
 午前五時五十二分、ヨンの韓国料理店の厨房は穴の奥で眠る動物のように黒く静まり返
っていた。
 ヒル魔はごついコンロや包丁の整列の間を抜け、一番奥の壁に寄りかかった。そこには
電話が備え付けられていた。
 彼は受話器を取り、迷わぬ指でダイヤルを回す。
 呼び出し音は随分ヒル魔を待たせたが、彼は眉一つ動かさなかった。
 やがて低く篭もった声が受話器から漏れた。それはこの町の言葉でぶつぶつと何か呟い
ていたが、「目ェ覚ませ、糞コック」の一言で日本語に切り替わった。
『ヒル魔か』
「解りきってることを聞くな。車を貸せ」
『…急だな、朝っぱらから。まさか今夜、発つのか』
「黙れ」
『解るぞ。解ってる。しっかしかなり良からぬことを企んでる声してんぜ』
 完全に覚醒した声を耳に、ヒル魔は顔を顰めた。
 ヨンはその気配を察したのか、解った、今のは無しだと執り成してから言った。
『ちびちゃんを花火に連れて行くんだろ。じゃあ、今日は出前を頼まないでおくか』
「テメーは普通にしてりゃいい」
「普通、な」
 暗闇に切れ目を入れたかのように、突然光が差した。ヒル魔が侵入したのとは違う、も
う一方の扉が開き、ヨンの地黒の顔が朝日の逆光に塗りつぶされて笑っていた。
「じゃあ糞コックは店を開けるとするかい」
 ヨンは携帯電話を切り、頭を引っ込めた。勢いでドアがパタパタと往復し差し込む光は
明滅を繰り返した。表からは勢いよくシャッターを上げる音が響いた。
 ヒル魔は受話器を元に戻し、壁から離れた。まだ小さく往復しているドアを足で蹴り遣
り、ホールに出る。また油の匂いが鼻を掠めた。ホールの床はベタついている。もう染み
ついて取れないのだろう。
 ヒル魔は椅子を一脚、テーブルから下ろして自分の腰を据えた。
 シートを貼った窓を越して朝日が白々と無人のホールを照らし出す。一際暗い窓の向こ
うには例の老夫婦が屋台を出しているのだと解った。
 その側を小さな影が横切った。
「ありがとうございました」
 この街の言葉だが子供じみたイントネーションで響く。
「おはよう、ヨンさん」
 ヒル魔はテーブルに肘をつき、目を覆う。おはようチビ、と、少し伸びました、という
少し強気の応酬があり、足音が天上へ駆け上がってゆく。
「チビも毎朝元気えーなあ」
 ヨンが姿を現す。随分色落ちした綿パンツの上で、浅黒い肌に様々な傷が白く浮かび上
がっている。
「目脂ついてるって笑われた」
 言いながらヒル魔の脇を通り過ぎ、厨房に入った。水音が乱暴に響く。
 出てきたヨンは首からかけたタオルで短く刈った頭まで拭いながら、ありゃいい子だ、
と呟いた。
「こんな街で人の目脂笑えるんだ。客だって気づかねーぞ。おめーも気づいてなかったろ」
「わざわざ言ってやることか」
「な、これが普通よ」
 ヨンはおかしそうに笑う。
「チビはいい子だ。素直で、気持ちがいい。ただ、あいつも鏡は見てねーな」
 何だ、と目で問うと、ヨンは自分の首筋を指して見せた。
「お盛んなこって」
 ヒル魔が黙って立ち上がった後ろで、ヨンはおどけて、ココもココもと顎の下や鎖骨を
指差した。彼はニヤニヤ笑っていたが、ヒル魔が戸口に手をかけると不意に手首を撓らせ
右手を振った。
 小さく風を切る音。
 ヒル魔は耳の横で右手を裏返した。車のキーが小さな音をたててそこに収まった。
「…これでおさらばか」
「さあな」
 ヒル魔はポケットから取り出した黒い手帳を振って見せ、扉の向こうに消えた。
 背後ではヨンの弾けるような笑い声がいつまでも響いていた。







 next  index