夏日に白く光るタワーが、ぐらり、と揺れる。 否、空が。 青い空が流れる。海から吹く暑い風が白雲をぐいぐいと街の方へ押し流し、街の上の雲 はさらにぐんぐんと山を越してゆく。 十文字一輝は上を見上げ過ぎて痛くなった首を俯け、小さく振った。首の後ろを手で摩 りながら、もう片手でポケットの携帯電話を握り締める。お上りさんじみた自分の仕草に むしゃくしゃしたのだった。彼は白い綺麗に掃除された階段に腰を下ろした。指が煙草を 探していた。勿論、あるはずもない。だから一つだけため息をついた。背後には釜山タワ ーが、灯台のようにすっくと青空へ向かって伸びている。 今、日本から一番近い韓国南東端の街に十文字はただ一人暮らしている。 暮らしている、という言い方には違和感がある。先日電話をかけてきた姉崎の「そっち の生活には慣れた?」という言葉も同様だ。暮らし。生活。違う。十文字は一つの指示に 馬鹿なほど忠実に従っているだけだった。それは彼の人生にそぐわない程の忠実さで。 連絡があるまでこの釜山にいること。 細い指が自分を指し、一言、言った。悪魔的な唇の歪み具合が笑っていた。 十文字は返事も、肯首さえしなかったが、今こうしてこの街に滞在している。それは決 して根を張ろうとか、ここで生きようということではなかった。呼ばれるまで、この街に いる。待機、と言えばいいだろか。 最初一、二週間、彼は宿から出なかった。いつ電話が鳴るかと気が気ではなかった。 あの細い脚や、細い腕を思い出すのだ。折れそうな首を思い出すのだ。脅え、震えてい た肩を思い出すのだ。 戸叶や黒木の元へ行かず、この街に留まり続けているのは決してヒル魔への恐怖からで はない。 これ以上、宿に留まり続けるのはうんざりだと言うと携帯電話が送られてきた。しかし いざ手に入れたそれを見ても、十文字は宿を引き払う気も、またどこかへ出掛ける気もし なかった。一日中、言葉の分からないテレビを眺め、読めない雑誌を繰り返し捲り、気怠 い足取りで辛みの強い食事を取りに出た。 初めて外へ出た日、矢鱈活気に溢れたスピードで車が往来を行く、その方向が日本と逆 のことに戸惑ったことを覚えている。今はもう随分慣れた。時折バスも利用する。貨幣の 違いはギャップが大きすぎて、未だに計算をやり直すことが多い。 その日、竜頭山公園に着いたのは正午を回る少し前だった。バスから降りた途端、晴れ すぎた空の青さに目が眩んだ。パンフレットを尻のポケットに突っ込んでぶらぶら歩き、 港を見下ろす。最大の貿易港の名に違わぬスケールを眺め、船の数を数え、それでもちっ とも気分の高揚しない彼は今、こうやって釜山タワーを背に座り込んでいる。かつて日本 でコンビニの前に何時間も座り続けたように。 いつからかここに来つけるようになったのは、タワーから日本が見えるからだった。展 望室から見えるのは対馬だ。寂しさも女々しさも、決して認めたくないが、それでも何度 か足を運んで、その島影を眺めた。今日はよく晴れている。タワーに上ればおそらくその 青い海の端に見ることができるだろう。 しかし、もう帰れもしない。 そして今なら、帰れと言われても帰る気がしなかった。 強い日差しが額や剥き出しの腕を焼いた。 離れたあちこちから妙な視線が注がれていた。日本人が厭われる存在でもあるというこ とは初日の食堂で経験済みだ。十文字は歴史的な経緯をほとんど知らない。しかし肌が何 となくその過去の暗さを感じ取っていた。日本を出て学んだのは謙虚さと己の存在の小さ さ。 利き手がポケットの中の携帯電話を握り締める。彼は公園の景色も、眼下の街も視界か ら追い出し空を見上げた。 何もしない。何もできない。 どこへも行かない。どこへも行けない。 ただ、電話を待つばかりが今の存在の全てだ。 十文字は目を瞑る。頭蓋の上で皮膚がじりじりと焼かれる音がする。熱風がシャツや短 い髪をなぶる。瞼の裏で青ばかりが流れてゆく。 帰りのバスを乗り違えた十文字は市街を彷徨った後、日も暮れてから宿に戻った。腹も 空いていたが、それ以上に足が疲れ、肩が凝っていた。自分が思いの外緊張していたのだ と知った。彼は真っすぐ部屋に戻り、ベッドの上に身体を投げ出した。 無意識の内に右手が携帯電話を掴んでいる。彼はその腕をゆっくりと持ち上げた。 今の自分はこれ一本に縛られている。しかしこれがなければきっと彷徨うこともできず 墜落してしまう。 こんなに小さい、機械の塊、一個。 初めて聞くその音は現実も非現実も打ち破るように響いた。 十文字は目を開き慌てふためいた。手はずっと携帯電話を握り締めているのに、彼は暫 くどうすればいいか本気で焦り、もう少しで携帯電話を放り出すところだった。 ようやく通話ボタンを押したとき、心臓が試合直後のように脈打っていた。 『やっと出やがったな』 聞き違えようのない声。そしてこの番号を知る唯一の人間の声だ。 『おとなしくしてるみたいじゃねえか』 十文字は声が出なかった。心臓は相変わらず早鐘のように叩き続けている。 『おい、どうした、聞こえてんのか長男』 「だ…っれが長男だ」 『ふん。日本出たくらいで萎縮してんじゃねえぞ』 かっと頭に血が上る。頭の血管を悪魔的な笑い声が逆撫でした。 「さっさと用件言え!」 ヒル魔は更にケケケ、と短く笑ったが、次の瞬間十文字は電波の彼方から指を指されて いるようなギクリとした心持ちになった。身体が無意識的に身構える。 ぞっとするような低い声が這う。 『今すぐ発て。この街に来い』 受話器を叩きつける音が響いたのが最後だった。通話時間は十秒に満たなかった。 十文字は手の中の携帯電話を凝視し奥歯を噛み締めた。 ベッドからゆっくりと立ち上がる。身体中が軋む。彼は一歩、二歩と歩いた。 重力が、重く、ずんとのしかかる。彼は更に歩いた。 取るものなど何もない。 顔を上げる。首を伸ばす。壁を突き破るように頭が重力に押し付けられる。 三歩、四歩、五歩の足取りが次第に重量を増して響き始める。 重力を踏みつけ、蹴りつけ、脚がドアを破り、カウンターに叩きつけた金が宙に舞う頃、 十文字は完全に走りだしていた。 夜明けの空港で見上げた空は薄い紫に染まっていた。空港の歪んだ建物を抜け、表の道 路に出たとき太陽は完全にその姿を現し、斜めから十文字を焼いた。彼は目を細め、手庇 を作り辺りを眺めた。紫を取り去ったような青い空はしかし考えられる以上に狭く、この ような街中に空港があることに驚く。建物も人も車も、視界の中に何もかもが押し入り犇 めいているようだった。雑然とした匂いが身体を包みこむ。汗みどろの自分の体臭さえ霞 むような気がした。 道の向こうに、太陽を背にするように立つ一つの影があった。不吉な程、黒い影だ。 「来たな」 と、悪魔は言った。 十文字は急に暴力の欲を感じた。今すぐあの黒い影を殴りつけたかった。 勢いで走りだした彼に悪魔はあるものを投げ寄越した。朝日にきらりと光ったそれを、 蹌踉めきながら受け止める。握り締めた右手に硬く尖った感触が刺さる。十文字はゆっく りと拳を開いた。 車の鍵だった。 「お前に攫えるか?」 一言残して、悪魔は背を向けた。 十文字はそこに立ち尽くした。疲労が朝日に焼かれて消えてゆく。彼はもう一度、鍵を 強く握り締めた。 |