空気が震える。セナの足は急く。急いで、急いであの背中に追いつかなくては。 誰かの足に絡まる。転びかけ、数歩、踏みとどまり顔を上げる。 また、空気が震えた。鼻の先に、微かに火薬の匂いがした。 セナがこの街に来て感じた夜といえば憂鬱といかがわしさと、陰鬱と、とろけ流れ出す ようないやらしさばかりだったが、海岸の長い堤防へ続く道に溢れ出した人、人、人の波 は意外なほど単純な活気と熱に溢れていて、セナが思い出したのは王城対西部戦見学に向 かった時のような高揚だった。 両脇に狭しと立ち並ぶ屋台と露店からは安い油の揚げ物の匂いだ、甘味の強そうな菓子 の匂いだ。焼かれる魚の匂いも肉の匂いも、アルコールの匂いも、火の匂いも、両脇から 抱え上げるようにセナを高揚させた。単純すぎるほどのお祭り気分だ。足が浮き立つ。 ヒル魔の背中はセナの一歩先を行く。彼は、 「はぐれたくねえんだったら、さっさとついて来い」 と言ったきり振り向きもしない。だからセナは必死で人ごみを掻き分け、ヒル魔の黒い 背中を追いかける。 と、人の流れが一瞬止まる。 ドン、と震える空気。津波のように広がる歓声。道を埋め尽くす人波、全開になった窓 から見を乗り出す人々、屋根の上の見物人。皆、声を上げ、狭い空を見上げる。 花火が散る。 赤い火の花びらがゆっくりと落ちる頃、それはため息に変わって、再び動き出した人波 はいよいよ勢いよく流れ始める。皆が花火の打ち上げられる海岸を目指す。セナも押され、 つま先を引っ掛けながら慌てて歩き出す。ヒル魔の背はもう数歩先を行っていた。 セナはちょっと焦りながら駆け足になってその背中を追いかける。ふと不安になった。 いつも自己中心的に自分を振り回すのはヒル魔の常であるけれども、今日は特にビルを出 てから一度もセナを振り返らない。 いや、日本にいたときはこれが当たり前だったのだ。この街に来てからのヒル魔が優し 過ぎるくらいなのはセナも感じていたところだった。ただそれは余りに気持ちよすぎて、 口にも出さず黙って甘えてしまったのだけれども。 変わらなきゃ。変わりたい。一緒に生きると言ったのは自分なのだ。あれは宣誓だ。セ ナの決意だ。そのために。 視界が開ける。建物が切れて海岸脇の四車線道路に出る。この町で一番広い道路だ。そ こに人は溢れ出し、そこここで食い物、飲み物を手に空を見上げている。 ドン。パチパチと火花。 花火が。空を震わせ。ドン。黄色い花が開く。海に落ちる。 ようやくヒル魔が立ち止まる。 振り向いた顔は意地悪そうに笑っている。 「よくついて来たな」 「…これくらい、ついて来れますよ。僕だってこの街にもう…」 突然、ヒル魔の手がセナの頭に乗せられ乱暴に撫でた。セナは言葉が続けられなくなる。 「その調子だ」 ヒル魔は再び歩き出した。真っ直ぐな後姿はずんずんと拓けた道路を歩いていく。皆、 そうだが車道も歩道もお構い無しだ。別に車両の通行止め規制はされていないらしいが、 車が人々の勢いに気おされている。 ヒル魔は屋台で何かを頼んでいる。肉を焼いたやつだ。新聞紙で丸く包まれ手渡される。 セナが追いつくと、ヒル魔は何も言わずそれをセナに手渡した。 しばらく油気の少ない肉を齧りながら、二人並んで、黙って空を見上げた。 ドン。規模は大きくないが、それでも観客からは大歓声が上がる。落ちる金色の火花が 海に映る。 屋台の明かりに照らされたヒル魔の骨ばった手が新聞紙をくしゃくしゃと丸め、道路に 捨てた。ごみなど溢れかえった街だ。捨てられたそれも気に留める程のものではなかった が、セナは少し良心が咎めて自分の手の中の新聞紙を畳む。手のひらに油がつく。この街 にいるとハンカチなどを持ち歩く習慣などなくなってしまう。 セナは振り返ってごみを捨てられそうな場所を探した。その時だった。 音が通りを切り裂いた。ドン。花火の音。違う。切り裂く、悲鳴のような音だ。 声が上がる。歓声。と怒号が。 慌てふためく喚き声が。 セナが振り向き、見たのは、強烈な光。と、白い車体。 がこちらに向かってくる。 ボンネットが露店を掠め、人々が逃げ惑う。 悲鳴はタイヤの上げる音だ。 急に角度を変えた車は尻を大きく振って屋台を壊し。 セナは思わず手の中の新聞紙を握り締め、腕で顔を覆う。 迫る車体が。 セナ! その声にはっとした。 自分の名を呼んだその声は、ヒル魔の声ではない。 彼の姿を探す。彼は。 ヒル魔は驚きもせず、目の前に立っている。その表情は。 「ヒル魔さん!」 叫び、思わず伸ばしたその手は。 空を掻いた。 ヒル魔の細い手に届く、ほんの少し前で。 空を掻いた。 腰を力強い腕が抱え、ぐいと後ろに引きずられる。藻掻いたが、その腕も強く捻り上げ られ、もう一度名を叫んだ時、セナは車内に押し込められていた。 「ヒル魔さん!」 ぐん、と重力がかかりシートに頭をぶつける。また切り裂くようなタイヤの音。凄まじ い音が耳を暴力的に荒らす。セナは舌を噛んだ。痺れ。血の味。 それでも窓に張りつき。 「ヒル魔さ…」 「黙れ!」 セナはその時初めて運転席の男を見た。左ハンドルの重たい車を両手両足を総動員させ て御しようと苦心する男。染めた短い髪に、鋭い目。頬の傷。唇に煙草。 「………じゅ」 十文字だ。出国前に学校の校長室で顔をあわせたきり、その姿を見ることのなかったチ ームメイトだ。 「な、何が? 何で…?」 「……」 十文字は答えない。セナは窓の外を見た。慌てて車を避ける人々。左手に海岸。四車線 の道路。この道は通ったことがある。 「どこ…、どこにつれてくの…」 「……」 この街に来て初めて通った、空港へと伸びる道だ。 「……どこにつれて行くんだよ!」 セナはハンドルを握るその手に掴みかかった。 「馬鹿、危ねえっ」 十文字は右腕でセナをシートに押し付けると、蛇行しかけた車を左腕一本でなんとか立 て直した。 「な、何のつもりで、こんな、こんなことっ」 腕を払いながら言うが、十文字はこちらを見向きもしない。ようやく自由になった右手 で固くハンドルを握り、音がするような険しさで前を見つめている。煙草の灰が落ちる。 それはフィルターが平らになるほど噛み締められていた。 「ねえ!」 「ごちゃごちゃうっせえよ!」 叫ぶと同時に煙草が落ちた。それは十文字の太腿の上を少し焦がし、下に落ちた。 が、彼は構わない。 その目は強く強く前だけを見つめ、十文字は叫ぶ。 「お前はこの街になんか住めねえんだよ! マネージャーやら他の野郎どもが平和に暮ら してるハワイに行くんだよ! 解ってるだろうが!」 「違う! 僕はヒル魔さんと…」 「殺されそうになってまでここにいるってのか」 十文字の低い声がセナの腹の底を撫でた。 「金で雇われたヤク中に銃突きつけられて、死ぬ目に遭って、お前に何ができんだよ。死 にてえのか」 ふと感情が高まったように、十文字はクラクションに拳を叩きつけた。ホーンが海岸に 木霊し、先の方で慌てた人間が脇へ避けた。 確かに、動けなかった。あの時。自分は死を待つしかなかった。 だが。 人通りが少なくなり始めた。遠くに空港の建物が常夜灯に照らされ、見えた。 セナは膝頭を握り締めた。それは震えている。震えているが。 自分はこの足で立った。 この脚で走った。 生きるために。この街で生きるために。自分で生きるために。 ヒル魔と生きるために。 この鼻でヒル魔に纏わりつく血の匂いを嗅いで、この目でヒル魔の目を真っ向から見つ めて、自分は決めた。誓ったのだ。 「車を止めろ」 低い声が口をついた。十文字は聞こえなかったかのように、走り続ける。 「止めろって言ってるんだ!」 セナの細い腕は十文字に止められる前にサイドブレーキを掴んでいた。 思い切り、引く。 途端に音が耳をつんざいで、セナは目を瞑った。 十文字の悲鳴と、タイヤの悲鳴。 その短い時間の強烈な横揺れのような激しい重力。 ぐらりと揺れた視界の中で無理やり目を見開き、セナはドアを開けた。開けた途端に身 体は物のように車内から転がり出た。 「…セナ!」 十文字が叫んでいる。 セナは身体を起こし走り出そうとする。 しかしすぐに力強い腕が掴む。腕を。腰を。掴んで、離そうとしない。 「馬鹿かよ。お前…こんな街で暮らしてけるわけねえだろうが!」 セナは抗うが、彼は無理矢理十文字の方を向かされた。 怒気が痛いほど伝わってきた。ヒリヒリと肌を焼くようだった。一学期の最初、あの夕 暮れの歩道橋で出くわした時の比ではない。目が。目の奥から十文字はセナを見つめ、目 の奥から怒っている。 「何でなんだよ。どうしてこんな所にいたいんだよ。そんなにアイツがいいのかよ」 「邪魔するな…」 セナは身を捩る。そして唾棄する勢いで十文字を見つめ、言った。 「僕が決めたんだ!」 次の瞬間、脳が揺れた。十文字の拳は突き上げるようにセナの頬を殴っていた。口の中 が熱くなった。おそらく切れた。道路に倒れた時、じわじわと血の味が染みてきた。 力ずくでも連れて行ってやる。頭上で十文字が叫んでいた。 セナは目を開く。真っ直ぐに伸びる道が見える。 ぐい、と脚に力を入れる。腕で身体を支え。大丈夫だ、立ち上がれる。 指が固いアスファルトから離れた瞬間、身体はふわりと浮かんだ。羽が生えたように、 その身体は軽軽しく走り出せた。今までにないほどの走り出しだった。 背後から伸びくる気配が、背に触れる、間際で空を掻く。 「セナ!」 十文字が名前を呼ぶ。自分の名前を呼んでいる。だが。 「……!」 次の瞬間にはそれも聞こえない。 セナは走っている。走っている。ただ無心に、走っている。 路肩に腰を下ろし、ヒル魔は物憂げに携帯電話から漏れる女の声に耳を傾けた。 「じゃあ、やっと返してくれるのね」 姉崎はまだ信じられないかのような、少し固い声で言った。 「返すんじゃねえ。俺がテメーらに貸すんだ」 「馬鹿なこと言わないで。セナがそんな目に遭うのは……もう沢山よ」 声が涙ぐんでいる。どっと疲労感が増した。 花火が上がり、周囲からは歓声が上がる。ヒル魔は人差し指で反対側の耳に栓をし、何 とか喋る。 「とにかくセナは暫く貸すだけだ。怠けさせんな。甘やかすんじゃねーぞ。次はもう決ま ってんだ」 が、返事がない。しゃくりあげる声もしない。電波の調子が悪いのかと思うと、次の瞬 間一番聞きなれた声がのんびり「もしもし、ヒル魔?」ときた。過保護な幼馴染は泣き崩 れたらしい。ヒル魔は舌打ちをした。 「いいか糞デブ、テメーも解ってんだろうな」 「解ってるよ」 「さくっと世界奪るぞ」 「ワールドカップかあ…、無茶言うなあ…」 「ぐだぐだ言うな。サボらせんじゃねえぞ」 「…ヒル魔。ヒル魔も落ち着いたら、こっちに来るんだよね?」 栗田はしんみりと言った。そんなものは性に合わなかったが、ヒル魔はつられるように 沈黙した。 足元には黒いタイヤの跡。 ヒル魔はその先に視線を遣る。 その目が、釘付けになった。 「…糞デブ」 「何?」 そして彼は、珍しく大声で笑った。腹の底から笑いは湧き出してきた。止まらなかった。 携帯電話からは急なことに驚いた栗田の声が響いている。 もう関係ない。何もかも知るものか。 が、まあ仕方ない。彼は陽気だった。瞬間沸騰のように気分が高揚していた。仕方ない から教えてやるか。だからありえないほどの寛容さで、彼は一言だけ教えた。 「しばらくは、行かねえ」 俺も。セナも。 電源を切る。そして投げ捨てる。 地面に落ちて、割れたそれを踵で踏みつけ、ヒル魔は呼んだ。 「セナ!」 その時、海岸道路の向こうから人の間をぬい、よろよろと走ってきた小柄な人影はよう やく顔を上げた。 目が光を取り戻す。日が差したかのように顔が晴れる。その頬は殴られて、唇の端には 血が滲んでいたというのに。 セナは泣きそうな顔で、笑った。 ヒル魔はすっと右手を差し伸べた。セナも手を伸ばした。さっきは空を掻いた手を、伸 ばし、指先が、懸命に伸びて、ヒル魔の手のひらの上、ぐんと伸びて、しっかりとその手 を掴んだ。 「よくやった」 そして手を引き、走り出した。 セナのペースは落ちていた。きっと40ヤード5コンマ1もあるまい。だからゆっくり と走った。人波をぬい、屋台を過ぎ、花火にも目もくれずに。 ヒル魔は誰かの頭から帽子を取り上げ、セナに被せた。取られた人間は、そんなことに 気づきもしない。花火を見上げ、口をぽかんと開けている。セナは広いつばを引っ張り、 涙でぐしゃぐしゃに歪んだ顔や腫れた頬を隠した。 ドン。空気が震える。歓声。空から降る光。 「セナ、どこに行きたい」 路上の車に鍵などかかっていない。二人が乗り込み、走り去ったところで、花火に見と れる人々は誰一人として気づかない。 どこへ行きたい。 北へ、南へ。東へ、西へ。海の見える街。山の向こう。大都会に田舎の田圃道。人のい ない土地だって、どこへでも行こう。 ガソリンは満タン、他には何もない。ヘッドライトが闇を切り裂き、テールライトが背 後に遠ざかる街を赤く染める。 まずはこの夜を走り去ろう。朝日の見える土地まで、この車を走らせよう。 朝日を見て、それから眠ろうとヒル魔は思った。 End |