自分が目覚めたという自覚さえなかった。 「ヒル魔?」 赤い発光ダイオードが灯っている。ヒル魔は上半身をベッドから滑り落とした格好のま ま、視線を泳がせた。受話器を当てていない耳に微かに通りの物音。クーラーを弱くかけ た部屋はカーテンも閉じて薄暗い。しかし確かに午後のこの部屋だ。セナの気配もない。 耳には呼び出し音一回で反射的に手に取った受話器。 今回ばかりは無視すべきだった。そもそも自分が眠っていると思しき時間に栗田や雪光 が電話をしてくることなどあり得ないのだから。 口を開く。寝起きだが、大丈夫だ、喉は掠れていない。 「…誰が口割った?」 「栗田」 「あの糞デブ」 「最初、マネージャーの子に連絡を取ったんだけど、この番号、教えてないんだね」 「黙れ。詮索するな。失せろ、ジャリプロ」 「待って!」 耳から離そうとした受話器から、桜庭の慌てた声が飛び出た。 「聞こえる? 切ってないよな? ヒル魔?」 「うるせえな」 ヒル魔は受話器を肩に挟むと、本体を持ち上げベッドの上に胡座をかいた。足で布団を 隅に押しのける。動き出すと急に体温が上がった。横目に壁の隅を見る。発光ダイオード は赤い光を点滅させている。 相手が桜庭だとは最初の声を聞いて分かっていた。それが些か意外だったとしてもだ。 ヒル魔は舌打ちをした。その間も桜庭はひっきりなしに喋っている。 「ああ、よかった。いや、これでも苦労したからさ、この番号突き止めるの。そしたらお 前はお前でこんなだもんな、まいるよ」 「こっちゃあ無駄話してる暇はねえんだ。さっさと用件言え」 「進とこの街に来てる」 ヒル魔はちょっと口を噤んだ。 「…驚いた?」 「死ね」 「乱暴だな。でも、本当に来てるんだよ。進と来たっていうより、進が、来たんだ。俺は 付き添い。あいつ飛行機乗れないから」 そこで桜庭の声が途絶えた。回線のせいではない。桜庭は少し沈黙していた。静謐が受 話器を越して届いた。おそらく一番高いあのビルに、三ツ星ホテルの部屋にいるのだろう。 喧騒を足元に、天に向かって伸びるビルからはこの部屋のあるごみごみとした街並みが一 望できているはずだ。 「…驚いたな」 漸く桜庭は言った。 「まさか本当にこんな所にいるとは思わなかったんだ」 「テメエで突き止めたんだろうが」 「そうだけど……、信じられないよ」 ヒル魔は相手に聞こえるように鼻で笑った。 「忠告してやる。二度は言わねえ。さっさと帰りやがれ」 「ああ…俺は正直帰りたいけどさ…」 ふとヒル魔は気配を察した。その不穏さは電話線を伝って桜庭にも伝染した。ヒル魔が 受話器を叩きつける直前、桜庭が早口で叫ぶ声が届いた。 「ホテルのレストランで八時に、進が待っ……!」 赤い光がすうっと消える。 ヒル魔は顔を顰め、電話をベッドから蹴り落とした。糞な一日が始まりそうだ。 腕時計を見る。九時を回っていた。ヒル魔は何度目かにホテルを見上げた。ここまで気 乗りのしない場所に自ら赴くのは実に、これまでの生き様に反している。 彼は忌々しげに靴音を鳴らした。 ロビーに足を踏み入れた瞬間、立ち上がった人影があった。この街には不釣合いで、こ のホテルのロビーには丁度いい小奇麗な格好、甘いマスク。表情は少し固いが、同時に安 堵もしている。どんな人間だろうが見知らぬ土地で見知った人間を見たので気が抜けたの だろう。自覚はあるのかないのか、微笑んでいる。 「ここまで来てアイドルスマイルか。ジャリプロ」 「……え?」 桜庭は一瞬ぽかんとし、それからギョッとして思わず後ろに退いた。ヒル魔が英語で喋 ったせいだ。それを無視してエレヴェーターに向かうと、後ろから桜庭が追ってきた。 「ヒル魔だよな?」 ヒル魔は無視を続ける。エレヴェーターのボタンは桜庭が押した。上階のレストランは 照明が抑えられ、着飾った人々が酒を嗜む場に姿を変えている。 「こっち」 桜庭が先に立ち、奥の個室の前で立ち止まった。ヒル魔は桜庭を見た。桜庭はヒル魔と 目を合わせると、溜め息をついて天井に視線を逸らした。 扉を開き、中に入った。 進は目の前にいた。窓を背に、こちらを向いている。テーブルの上には料理が繰り広げ られていたが、どれにも手はつけられていない。進の目は、険しい。 ヒル魔は黙って目の前の席に腰を下ろし、箸を取って勝手に料理を取った。どれも冷め ていた。 「その……」 進らしからぬ言い淀む口調にも、ヒル魔は顔を上げなかった。 が、息を吸う音。 「元気なのか!」 その言葉は沈黙を真っ二つに割るかのように部屋に響いた。 無音の中に残響が響く。 ヒル魔は箸を持ち上げたまま固まっていたが、ケタケタと笑い出した。 「何が可笑しい。俺はお前達の身を案じて言っているんだ」 「おーおー、そうかい」 「重要なことだ。三食きちんと食べているのか。この街は衛生状態も治安も悪いのだろう。 お前達は健康に暮らしているのか。アイシールドは…小早川は達者なのか」 「達者なあ。達者だろうよ。朝から街中走り回る程度にはな」 「学校は」 「行けるか」 「生活は」 「このとおり生きてる」 「生活費はどうしている。家はきちんとしているのか。桜庭が言うには連絡もすぐに取れ なかったというではないか。何故、お前達だけこの街にいるのだ」 ようやく進の問いが終わったところでヒル魔は口の中の食べ物を冷めた茶で飲み下した。 「あいつの安全は保障してやる」 「しかしあの才能をどうするつもりだ。こんな街で、あの脚が、才能が、埋もれて…」 我が事のように声を震わせる進を、ヒル魔は冷めた目で見遣った。見返す進の目が、少 し疲労の色を湛えている。それ程までにアイシールドに執着しているのか。 ヒル魔は食事を再開した。目覚めてから何も口に入れていなかった。 「聞いているのか」 「聞いてるだろ」 「どうするつもりだ」 わざわざ胸の内を明かす義理もない。ヒル魔は黙って肉を食む。 「どうするつもりなんだ」 犬歯を用いて肉を骨から引き剥がす。 「ヒル魔!」 肉を銜えたまま、声を荒げた進を見る。進は立ち上がってこちらを見ている。 「お前は、帰ってこないつもりか」 お前は、と呼びかける声が掠れていた。感情が高ぶりすぎて、上擦っている。 ヒル魔は何も聞かなかったかのような顔で、口許の肉を指で押し込む。 ぐい、と襟首を掴まれた。進の顔が鼻の先に迫る。ヒル魔は無表情なまま口の中のもの を咀嚼した。脂のついた指先を舐める。 「お前は…!」 襟首を掴む手を振り払う。強い力が要った。ヒル魔は踵を返した。もう進を振り返らな かった。 「ヒル魔!」 声が追ったが、振り返らなかった。 扉の外では桜庭が手持ち無沙汰な風を装って壁にもたれかかっている。ヒル魔は黙って その前を通り過ぎる。 「忠告どおり、帰るよ」 桜庭はヒル魔の顔を見ず、言った。 「帰って、日本で待ってる」 ヒル魔の後姿は、エレヴェーターのドアの向こうに消えた。 |