居眠りするセナの肩が濡れている。洗い髪を乾かさないままテーブルについたのだ。脇 に置かれた辞書やビラの束を見ればやりたかったことは分かるが、睡魔には勝てなかった らしい。余程、疲れたのか。 ヒル魔はテーブルの上に腰掛ける。床がみしりと軋む。彼は右手にタバスコを弄んだ。 二度、三度放り投げ、手の中に収める。セナは罪のない寝顔を晒し、すやすやと安眠して いる。彼は寝顔とタバスコを見比べた。赤い液体は相当の辛さを予想させ、細身のビンの 中をとろとろ揺れている。 結局、タバスコのビンは流しの上に返された。ガラスの曲面に小さく、ヒル魔のつまら なそうな顔が映った。顔を逸らし、彼はセナの肩を揺すった。 目を覚ましたセナは、おかえりなさい、と小声で言い、暗くなり始めた窓の外と床の上 に置かれた買い物袋を見る。 「僕が」 短く言って、立ち上がった。 ヒル魔はテーブルから下り、奥の部屋のソファにごろりと横になる。 まるでそれが当たり前の日常のようにセナの料理する音が聞こえた。ヒル魔は全然眠く などなかったが、それでもソファに身体の沈み込む感じや柔かに漂う匂いに少しまどろみ ながら夕食を待つ。こういう穏やかな日々がもうしばらく続いていた。 何も変化がなかったのかと言えば変化はあった。朝から街中駆け回るセナは午後にも再 び走るようになった。ヨンの差し金である。走ることがセナのリハビリに一役買っている ことに気づいたヨンは遠方の届け物や出前を毎日一件、セナに届けさせた。そういった何 とも言えない心遣いはヒル魔にも知れていたが、それでもヨンは一応表向きに、自分の店 で昼食を奢る代わりだとヒル魔に言った。 今日もまた遠くへ言ったのだろう。辞書は「無い」の項が開かれていた。人の無い。建 物の無い。水の無い。草木の無い。何も無い。 ヒル魔は郊外の様子を思い出した。突然、国を間違えたかのような荒野。長く伸びる道 と、電線の切れた電柱。そこで何人か死ぬのを見た。 右手を伸ばす。銃を握っている。リボルバー。手前の部屋の明かりに薄く照らされる黒 金。壁にぽっかり開いたドアの穴。聞こえるのは何かを炒める音だけ。鼻唄さえ、ない。 無い。 夕食の席でも会話は少ない。セナも最初はおどおどしていたが、段々その沈黙は馴染む ものになっていった。時折、目が合う。 「…どうですか?」 「七十五点」 炒めた肉が固くなっている。 しかしセナは気の抜けたように笑った。 毎夕黙って食事の用意をし、食卓の沈黙に馴染み。毎日がどれほど変化しようと、この 夜に帰結する。気づけば二人はいつも夜の中にいる。電気を消して、暗い天井を見つめて。 今夜も食事が終われば、また、夜に帰ってしまうのだ。 洗い物をするセナの背後でヒル魔は電気を消した。息を飲む音が聞こえた。 パチン、と音をたててスイッチを持ち上げる。接続不良で五秒後に点いた明かりの中、 セナの肩は震えていた。 再びスイッチを落とす。こちらは音がしないが、しかし音よりも饒舌な唐突さで闇に落 ちる。 パチン、震えるセナ。闇。パチン、震える肩。闇。パチン。闇。パチン。 闇。 パチン。 セナの肩はもう震えていない。手も動いていない。食器はシンクの底に沈んでいる。 目を瞑っている。 そう、目を瞑っているだけだ。 キスの後は、またいつもの夜に戻る。毎夜ではない、けれどもよくある夜に。 セナは自分の服を脱ぐ前にヒル魔の上に乗った。触って、キス。頬も、唇も。触って、 舐めて、キス。また舐める。冷房はとっくに切られているから次第に汗が浮いてくる。セ ナはTシャツを脱ぎ捨てる。吐く息が熱い。どういう目をしているのかは分からない。い つものように顔を埋めようとするセナをちょっと押し留めて、顔をよく見る。 一体どこでこのようなことを覚えてきたのか知れない。セナとて一男子なのだから、こ ういった知識はあったのかもしれない。この街にはいかがわしいものなどすぐ隣にあるか ら、それかもしれないし、ヨンが教えたのだとしたら明日の朝一番でどてっ腹に風穴を空 けてやらなければ気が済まない。 闇の中でセナはヒル魔の腕を掴み、慣れた様で口づけをする。別人だ、まるで。 「どこで覚えた」 それとも自分が教え込んでしまったのか。 セナは聞こえないような素振りでヒル魔の脚の間に顔を埋める。 何か、を求めているのだ。明確には分からない、何か。自分の口を使った翌朝、セナは 必ず決まり悪そうな顔をした。目もまともに合わせられない。そのような思いをすると分 かっていてそれでも繰り返すのは矢張り、求めるから、なのだろう。何かを。セナの口の 中で達したことは一度もないが、例えそうなったとしてセナの求めるものを与えられると は思わなかった。 舌の動きは拙い。幼い、とさえ言いたくなる。妙に犯罪じみたこの行為がヒル魔を視野 狭窄に陥れるのは事実ではあるのだけれども。 ヒル魔が噛み締めた歯の奥から息を漏らしたとき、セナはいつものようにヒル魔に引き 離される前に唇を離した。口の端を唾液が伝う。セナは息をつき、残った衣服を自分で脱 ぎ捨てた。 二人きりの夜にすっかり毒されている。これは非日常だと思ううちに、非日常が日常化 してしまった。自分から跨り、痛みに涙を零しながら腰を動かすセナを見ているうちにヒ ル魔は苦々しい気分になる。彼はセナの細い腰を抱くと、ぐいと上体を起こした。悲鳴じ みた嬌声を漏らす唇を塞いで、舌に噛みつく。ぼやける視界の中でセナが見ている。 ヒル魔はセナが全て手放し目を瞑るまでキスを続けた。押し倒し、指先で触れた身体は 細く、今まで以上に、酷く、脆く見えた。 浴室に運び込まれたセナは、水を張ったバスタブの中でぼんやりと膝を見つめている。 ヒル魔はバスタブに背をもたれ、リボルバーの銃身を磨いていた。彼が銃を持っていても、 セナは何もいわない。水の揺れる音もしなかった。 シリンダーは空だ。彼はそれを透かしてドアを眺める。唇が動いた。 「何処か行きたい所はねえか」 不意に沈黙がざわめいた。セナの身体が震えたのが分かった。 「…何処かって」 声が揺れている。まるで寒さを恐れるような震えだ。 「だから、行きたい所はねえのかよ」 ヒル魔は手にリボルバーをもてあそびながら酷く何気無い風に言った。 「旅行…とかですか…」 水風呂の中で心持ち身を小さくしながら、セナが横目に尋ねる。 「何でもいいだろ。何処か、行きたい所だ」 何処か。 ヒル魔は首を捻ってセナを見た。セナは水面を見つめていた。天井の小さな裸の明かり が膝の上で揺れる。セナがふっと溜め息をつくと波紋が広がった。 セナが躊躇いながら少し顔を上げた。目が合う。 何も無い、何処か。 セナは伏し目がちになりながら呟く。 「僕…ここでいいですよ…」 ヒル魔は勢いよくシリンダーを収めた。掌の上を滑らせる。シリンダーが回る。ガチリ と止まり。ハンマーを引く。鋼の噛み合う音。 振り返る。膝の上から落ちた空薬莢がタイルの上で高い音を響かせた。それは垂直に飛 び上がり、床の上で跳ね返って、神経を裂くように響いた。 銃口をセナの右のこめかみに押し付けた。セナは目をつむり、震えながら息を吐き出す。 僅かに頭が動く。このこめかみの感触を恐れている。銃口と頭に挟まれた髪がじりじりと 鳴る。 ヒル魔は右手をセナの首に添わせた。ゆっくりと力を入れる。親指がじわじわと喉を締 め付ける。 小さな水音がした。セナがすっかり冷たくなってしまった手でヒル魔の胸にすがってい た。掴まれたシャツには強く皺が寄り、滴る水が濡らす。 ヒル魔は引金を引く指に力を入れた。セナが強く目をつむった。 重い音をたててハンマーが叩く。裸の痩せた肩が震えた。 「…馬鹿」 自分でも驚くほど、ヒル魔の声は笑っていなかった。 |