朝は清々しくなどない。 空が白むにつれてビルや路地に暗闇が置き去りにされる。ベトつくそれを見るのが憂鬱 で、だからヒル魔は顔を上げない。道の先を眺める振りをして別のことを考える。景色を 掃き捨てられるほどの。計算や。昨夜のメールや。記事や。煩雑な、整理された。 見慣れた角に立つ。ビルの前には既に老夫婦が屋台を出している。ヒル魔はその脇を黙 って通り過ぎ、暗い階段を昇る。セナが転んだ踊り場を越え、とってつけたようなドアの 前に立つ。 鍵を開ける。 部屋は薄暗い。流しの上だけ、仄かに明るく、コップが滑らかに光る。伏せられたそれ を取り上げ冷蔵庫の水を汲んだ。喉を鳴らして飲む。眠気はまだ襲い来ない。 窓際のプラスチックのコップにささった歯ブラシを取り、機械的に歯を磨く。さっきの コップに水を汲んで口を濯ぐ頃には身体が睡眠に向かって移行し始めた。ヒル魔はコップ を流しに伏せ、歯ブラシを窓際のコップに放った。歯ブラシはもう一本とぶつかり、軽い、 玩具の鈴のような音をたてた。 歩きながら服を脱ぐ。服が抜ける瞬間、自分の匂いが掠める。この街では匂いが染み付 く。街の匂い。路地の匂い。料理の匂い。歯磨き粉の匂いに水の匂い。 ついぞ知らなかった自分の匂い。 シャツを椅子の背に掛け、ドアのなくなった間仕切りを抜ける。と、それは少し戸惑い にも似た。裸身に触れた空気の変化。 ヒル魔はベッドに腰掛けた。昨夜そこに眠っていた体温が失われている。微かに人の形。 「…………」 カーテンに閉ざされた窓の向こうを見る。もうすぐ日が昇る。光が射せば面倒だ。ヒル 魔はソファを横目に久しぶりにベッドに横たわった。冷たい。微かに湿気くさい。固く、 寝心地がいいとは言えないが。 懐かしいのかもしれない。 一人で眠るベッドは、脳の隅で既知感を刺激した。が、ヒル魔はそれを捨て去る。頭の 下には枕。 「…………」 セナの匂いだ。 ヒル魔は仰向いた。息を吸う。暑くなる前の、まだひんやりとした空気。眠りに落ちる のは早かった。 誰もいない部屋を置き去りに走り出した、セナの、心臓は早鐘のように打ち腹の底まで 太鼓のように叩いた。鼓動が。息切れが。急に走り出した脚の痛み。肺の軋み。流れる汗 と共に何かを取り返す。何かを思い出す。自分が走る生き物だったと思い出す。 追われるのでもなく、目指すのでもなく、ただ闇雲に走る。黒い路地裏。違法駐車の大 通り。電線の下。薄く光を取り戻し始めた狭い空の下。仕舞い忘れた庇の下。泥水の上。 ゴミの上。夜明け前の空気の中。 夜の残る空気の中。 いつか初めてかいだ知らない街の匂い。食べ物と、腐臭と、人の肌の、汗の、血の、噎 せ返る熱に溶け合った匂いが、肌を打ち、肌を撫で、肌の上でまた溶け合う。セナと。そ して繋がり始める。日本。変わらない生活。走った。アメフト。あの人。逃げるのではな く。走った。海を渡り。新聞を抱え。目を覚まし始める街を。 走った。 走っている。 今も。 異人の肌。異人の匂い。しかし街がセナを包み始める。匂いがセナに絡みつく。そして セナは繋がる。街と。空と。空気と。息。鼻を掠める匂い、の中に微かに、微かに、自分 の匂いが、する。 流れる街並み。暗闇からゆっくりと景色が立ち上がる。 この街を、走っている。 繋がっている、海の向こうの過去と、この街の今を、走りながら。 「………」 一番のバスがすれ違って行く。後ろにパンを袋一杯につめた少年が二人、掴まっている。 セナは立ち止まり、それを見送った。見上げた空の色は、青。 セナは首を回し、背伸びをし、目を瞑って一言、独り言を呟いた。 「……帰ろ」 ペースを落としてランニングを続け、途中、ポケットに入っていた小銭で食パンを一斤 買った。すれ違ったバスの少年が持っていたパンの匂いが、残っている訳ないのだけれど も、離れなかった。久しぶりに腹が減っていた。ビルの階段を駆け上がる。もう転ばない。 しかしドアの前では深呼吸が必要だった。 鍵を開ける。しかし部屋に足を踏み入れた途端、異変に知れた。 「ヒル魔さん……」 テーブルの上に、鍵。セナは食パンを抱いたまま足音を忍ばせてドアの穴まで近づく。 ベッドの上に、久しく見なかったヒル魔の寝顔があった。裸の胸は微かに上下している。 セナはゆっくりと後じさった。 蝶番が軋まぬよう気をつけながら浴室の扉を開ける。乾いたタイルの匂いがする。セナ は烏の行水程度に汗を流し、そそくさと朝食に取りかかった。 やけに大きな包丁でパンをスライスする。すぐにでも齧り付こうかと思ったが、そこは 思いとどまりヨンに教えられたフレンチトーストを作りにかかる。卵。牛乳。厚みの偏っ た食パン。フライパンから皿に移し、砂糖をまぶす。これを作りながらヨンは「クレイマ ー、クレイマー?」と尋ねたが、セナは何のことか知らなかった。 食後も、眠っているヒル魔を起こすのが忍びなくて、セナは隣の部屋に入ることが出来 なかった。外はすっかり日が昇り、通りの喧騒はここまで聞こえてきたが、しかしセナは 息をひそめていた。 異国語だらけの新聞を読んだり(英語はさっぱりだが、ここの言葉も、ヨンから借りた 辞書を使っても中々読めない)、英語の宿題でもするように、知らない単語をチラシの裏 に書き取ったり。 ヨンの辞書は古く、擦り切れていて、懐かしい匂いがした。 ヨンの店からビラの裏紙をもらって帰る時、見上げた空からそれは降り出した。 この街に降る雨は汚い。煙と塵とガスの溶けこんだ雨は、ビルの壁を溶かしたし、庇の 鉄パイプを錆びさせた。たまに道端でひっそり人が死んだ。猫は人に隠れて、犬は路地裏 で死んだ。雨が降り出すとアスファルトの熱気が湧き上がると共に、染み出すように死臭 や腐臭が漂う。 流しの前の丸椅子に腰掛けた。窓が明るい。雨は降っているのに。窓から見える空気は やけに透明で、夕方前の柔らかな色が薄いピンク、淡い橙と混じり始めていた。 コップの水が空になる。字を書きかけたビラの裏紙。ヨンから借りた辞書。ちびけた鉛 筆。そしてセナは少しうたた寝。 ヒル魔が起き出した。テーブルの上の空のコップを取り、新しく水を注ぐ。少し空腹だ った。セナが買ってきたらしい食パンを少し削って齧る。それからセナがうたた寝する向 かいで英字新聞を読んだ。 雨の音と生温い腐臭。淫靡なピンクに染まる狭い空。 セナを見た。何も連想されなかった。昨夜の姿態も。一昨日の泣き顔も。何一つ思い出 されず、それどころか、細い腕にも、無防備な項にも、唇に触れようとさえ思わなかった。 ただ、眠る姿。 ただ、観て。 いつの間にか部屋は真っ暗になっていた。 |