新聞配達に行かなくなっての朝は、既に十以上数えた。 流しのある手前の部屋の隅には小さな冷蔵庫が置かれた。セナはぐったりした身体を引 き摺り、冷蔵庫の前に腰を下ろす。食欲はなかった。セナは水だけを飲んだ。老夫婦の固 まった皺面が瞼の裏に浮かぶ。懐かしいといえば懐かしい。 懐かしいのは老夫婦そのものではない。全て、全てのものだ。二つの部屋を隔てる壁に はドアの部分がぽっかり開いている。数日前までそこには染みや落書きのある木の扉があ った。今はない。部屋はひたすら静かで、暗い。流しの上の窓にもカーテンをかけた。余 り物だ!と偉そうに余り物の料理を持ってくるヨンの声もしばらく聞かない。何よりセナ が。 セナは深呼吸すると、もう一度冷蔵庫から水を取り出した。コップ一杯に注いだそれを 一気に飲み干す。 情けない、と口の中で呟いた。新聞配達は自分から言い出したことだった。しかしセナ は自分の足で営業所に行き、辞める事も言い出せなかった。それどころか、この部屋から 出ることさえできなかったのだ。扉を開けようとすると生唾が湧き出す。二度、嘔吐した。 営業所にはヨンが行ったらしい。気にするなという伝言をヒル魔を通して聞いた。 ヒル魔も少しだけ変わった。それまで遠慮なくズカズカと出入りをしていた彼が、まる で幽霊のようだった。セナが眠ってから出かけ、セナが目を覚ました時には必ずこの部屋 にいる。 今も奥の部屋のソファで眠っている。 寝るようになったのも、あれからだった。この街に来て二人は、それまでお互いほとん ど裸体をさらすことはなかった。触れる事だって頭をはたかれる以外、初日にホテルで腕 を引かれたことを除けば、指一本触れはしなかったのだ。 夜、セナは冷房をつけることを拒んだ。そして暗い熱の中で身体の溶けることを望んだ。 いっそ意識を全て手放して、人の形をして生きるのはもういいと。しかし皮膚が空気とセ ナを隔て、ヒル魔との間を隔てた。 「お願いします」 昨夜セナは、ようやく出るようになった声でヒル魔に言った。 カーテンの向こうでネオンが光っていた。その光を背に、ヒル魔の顔がぼんやりと見え た。笑ってはいなかったと思う。呆れたような、難しそうな顔だった。 唇が開き、尖った犬歯が覗く。 「あ……」 セナは冷蔵庫の前に座り込んだまま、小さく呟いた。 あの時もヒル魔は何かを言った。それは以前、どこかで聞いたことのある言葉だった。 知らなくて 「知らなくて…?」 知らなくていいことを、と言ったのか、彼は。昨夜? 「知らなくて……」 いや、それ以前も似たような言葉を聞いている。思い出せない。いつだ。何と言われた。 知らなくていい。何を? ――何も。 ――テメーは何も知らなくていい。 「あ……」 耳元で囁いたヒル魔は背を向け。 「あのとき…」 右手で乱れた髪を掴んで引き摺り。 セナの身体が震えた。あの日。あの朝。ヒル魔は何度も囁いたではないか。抱き締め囁 いた。セナの視界から死体を隠し囁いた。起きたこと全てを水に流そうと髪を洗いながら 囁き、ベッドの上でつめたく冷えたセナの耳に囁いた。 何も知らなくていい、と。 何も。何を? 男は何物だったのか。ヒル魔が忌々しげに見たバッグの中身は何だった のか。あのショットガンは男の物だったのだろうか。それともヒル魔はここでも重火器を 手元に置いていたのだろうか。彼は、右手に拳銃、を握っていた。 そもそも何故。 何故、男はこの部屋に現れたのか。 ――何も知らなくていい。 涙が、流れていた。 セナは声を殺して泣いた。 また逃げて。また守られてばかりで。 新聞配達を始めたのは走りたかったからだ。折角変わった自分をまた元のように戻した くなかったからだ。走るのは喜びだと、そして自分の誇りだと。日本から離れた。まるで 現実感が湧かなかった。全てが夢のようで。しかしこれは夢ではないと。今まで走り続け た事も、春から新たに走り出すことができた事も、全て現実だと。自分のものなのだと。 「逃げたくない…」 僕は。 「セナ」 小早川セナだ。そして 小さく名前を呼んだ。自分に与えられた、自分を変えた一つの名前…。 「朝ッから何ブツブツ言ってんだ、この糞チビ!」 「へ!」 ペシャンと頭を叩かれる。 「あ、わわわ、ヒル魔さん」 「るせー。目ェ覚めただろうが」 「わああ、すいません…!」 いいから退けとヒル魔はぞんざいにセナを脇に押しやり冷蔵庫を開けた。 「ロクなもんねえな」 目が不機嫌そうに細められる。 「喰ってくる」 「あ、あの…」 「じゃあ、早くしろ」 セナがみなまで言う前にヒル魔はただ、一言、言った。 セナは顔を上げた。 ヒル魔は玄関の側にもたれかかり、ただセナを見て、二度は言わなかった。 「はっ、はい!」 セナはポイポイと寝巻きを脱ぎ捨て、がらがらの箪笥からジャージとティーシャツを取 り出した。爪先を引っ掛け、転びそうになる。照れ隠しのように笑い声が漏れた。 久しぶりに靴を履く。 靴紐を結んでいると、乱暴な音がして玄関の向こうにヒル魔の後姿が消えていった。 「あっ」 きつく靴紐を締める。閉まりかけたドアに体当たりするようにセナは部屋の外へ出た。 「うっ、わっ!」 勢いづきすぎた。セナの身体は止まらず、足が階段を踏み外した。 「うわあああああッ」 「セナ!」 セナは急な階段を下の階まで転げ落ちた。痛みを堪えながら目を開けると、階段を駆け 上がってきたらしいヒル魔が息を切らしながらかなり恐い顔で睨んでいた。 「あ…えっと…大丈夫で……」 「こ!の!糞チビ!」 「ご、ごめんなさいっ」 怒鳴られセナは目を瞑ったが、罵り声は階下へ降りていった。 「ひぃぃぃ」 声を漏らし、立ち上がる。尻か腰を打っているが、歩けなくはない。それより右手を突 き指したらしかった。セナは左手で壁にもたれながら階段を一歩ずつ降りた。 屋台の前ではヒル魔が揚げドーナツに喰いついている。 セナがよろよろ近づくと、老婆が無言のまま同じものをセナに差し出した。 「え…?」 「払ってある」 「あ。…ありがとうございます」 セナは日本語を飲み込んで、片言で礼を述べる。屋台の老夫婦は相変わらずニコリとも しない。 部屋に戻ってセナは吐いた。ドアを開けて中に入った途端、嘔吐したのだった。 結局その日も寝て暮らした。 ぽっかり開いたドアの穴の向こうに、ノートパソコンを使うヒル魔の姿が見えた。その 姿はやけにやかましい光に照らされていた。さっき物を乱暴にゴミ箱に突っ込む音が聞こ えた、あれはカーテンだったのか。 「一歩前進ってこった」 ヒル魔がぼつりと言った。 |