寝汗をかいていた。セナはのろのろと起き上がった。誰かに呼ばれた気がした。夢の中 でだろうか。ヒル魔はいない。珍しく朝から出かけていった。その後、セナは二度寝した。 腹が減っている。もう正午を過ぎたか。 昨日から壊れた冷房のせいで、部屋の空気は篭っている。汗をかいた腕の方が冷たい。 頭の芯まで熱で溶かされたかのようだ。うまく働かない。寝ぼけ眼で動き出す。ヒル魔の 姿はない。まだ日は高い。セナは冷蔵庫の中身を見たが、特に気乗りがしない。 その時。 セナは思わず身をすくめた。 強く、叩きつける音がした。 ドア、だ。 汗が冷や汗に変わる。背中の神経を尖らせて、廊下の向こうの気配を窺う。 ドアを押さえに行かなければ。間に合うか。 シャツの下で鳥肌が立つ。 再び扉が叩かれる。安普請の廊下が揺れて、天井から埃が落ちる。 三たび。セナは弾かれたように耳を塞ぐ。息を止め、窓の向こうを見つめようとする。 引かれた薄いカーテンが午後を回ったばかりの日光に透けて光る。 冷たい唾を飲み下す。塞いだ耳に聞こえる血液のどうどうと流れる音の底から、ごくり とマグマの湧き上がるような音。唾を飲み込むその音さえ、押し潰すように神経を傷付け る。見開いた目に、カーテンの白く描き抜かれた象の隊列が網膜に焼き付く。引き千切ら れる神経が、叫ぶ、殺される。 目を、瞑りたい、痛い、音を、殺して、助けて、僕を、救って、目を、塞いで、何も、 知らないでいいと、言って、言って、言ってくれた、言って、その声、助け、聞かせ、て 声、お願い、お願いお願いお願いお願い。 「おい糞チビ!」 耳が、壊れた、かと思った。 「さっさと開け…」 「ヒル魔さん!」 その叫びはほとんど声にはなっていなかったが、その瞬間、ヒル魔の罵声は止んだ。 セナはよろめき、壁に床に手をつきながら、転びながらようやく玄関扉に辿り着いた。 彼は両手で扉にすがり、顔を押し当て声を振り絞った。 「ヒル魔さん、ヒル魔さん!」 「落ち着け糞チビ」 声が扉を震わす。耳元で囁いてくれている。 「ヒル魔さん…」 「安心しろ」 セナはしかし恐る恐る扉を押し開けた。そこにはヒル魔が立っていた。両手に重量感の あるダンボールの包みを抱えている。 腰が、抜けた。 「ヒル魔さん、背中流しましょうかー」 間延びした声で問うと、いいから向こうにいっていろと怒鳴られた。セナは少し笑って クーラーの効いた部屋に戻る。涼しい。吹く風を直接受けると、こんな幸福がこの世にあ ったものかと思った。窓は狭くなり、部屋は少し暗くなったが、この涼しさと引き換えな ら代償と言う言葉など使わない。相当の代価だ。 「コラ糞チビ、直接風に当たんな」 ヒル魔が浴室から顔を覗かせて言った。 「はーい」 振り返り、笑いながら返事をする、その声も間延びしてしまう。 そんなセナを見て、ヒル魔は苦々しそうに首を引っ込める。 セナはベッドの上に転がり、身体を丸めて、また意味もなく、ふふふ、と笑った。シー ツの面が冷えている。所々に汗染みがあったが、今は不快ではない。少し弱くなったカー テン越しの光に、室内は少しずつ表情を変える。湿気でぬめるようだった床がしんと静ま り、輪郭の溶けそうに感じたテレビも小さな箪笥も、このベッドも、ペンシルの硬い芯で 描いたようにくっきりと見える。何より涼しさが、全ての色を変えている。 セナはもう一度、ふふふ、と笑う。 「気色悪いな」 「あ」 すっ、と空気が翳る。 両脇に支えられた柱のような腕。ベッドのパイプが軋む。ヒル魔が、寝転がるセナの上 を覆い被さる。髪の先からはまだ雫が落ちていた。それは頬の上に落ちて、セナは反射的 に片目を瞑る。 「下手な媚はいいから、服脱げ」 「え、今のウィンクじゃないですよ…」 「いいから脱げ」 指先で額を弾き、ヒル魔は笑った。 セナが起き上がろうとすると、ヒル魔は腕をどかした。ベッド脇に腰掛け、傍らでセナ が長袖のボタンを外すのを待つ。 セナはシャツの肩越しにヒル魔の横顔を盗み見た。どこをとっても尖った印象。尖った 鼻と、尖った耳。引き結んだ唇は少し不安感を煽る。しかしその眼が、不意にこちらを向 いて意地悪そうに笑った。 「着たまんまでも、構いやしねえか?」 「あ…」 キスは乱暴ではない。でもセナはぎゅっと目を瞑ってしまう。 唇が離れる。恐る恐る目を開けば、ヒル魔が見ている。 セナはシャツを脱ぎ捨てた。すい、と近づき、抱きつく。濡れた髪に顔を押し付け、 「冷たい」 と囁いた。 気を失いそうになる、その際の意識をズルズルと引き留めて思うことは、相手の顔を見 たいというそれだけ。 クーラーの風が優しく肌を撫でる。先に果て、まるで感覚だけの生き物になった体で彼 をうけとめた自分はどれだけみっともない顔をしているかしれないが、それでもその顔を 上げ、見たいと思う。 普段計算ずくのようにしりぞく彼が、見知らぬ街の、猥雑な喧騒がノイズのように届く、 午後の光がカーテンに透けるこの部屋で、何かに翻弄されるように自分の中からしりぞく ことができず達してしまう。その時一体どんな顔をしているのか、見たい。 「今…ロクでもねえこと考えてやがるな…」 息切れする声がして、そのまま胸の中に抱き締められる。頬に密着する汗ばんだ肌。激 しい心音が聞こえる。記憶に染み込むような汗の匂い。 セナは呟く。 「…ずるい……」 「何か言ったか?」 背を抱き締めていた手が腰の方に下りて、未だつながったままの微かに痙攣するそこを 触れる。 「ひっ…」 セナが悲鳴を上げ全身をこわばらせると、頭の上でヒル魔が微かにうめくのが聞こえた。 聞こえた瞬間、何だか訳の分からない嬉しさが胸にこみあげ 「んー……」 セナもヒル魔の胸にしがみついたまま唸る。 けれどセナは、シャワーを浴びながら少し泣いた。訳も分からず。 |