気がつけばセナは懸命に床を拭いている。手にしたタオルは日本から持って来たものの 一つだったが、思い入れも掻き消えていた。 男の身体に空いた四つの穴から噴き出した血は、セナの顔も汚していた。ヒル魔が落ち ていたティーシャツで顔を拭う間、セナはされるがまま身を任せた。それからヒル魔は何 かを囁き、男の身体を引き摺って外へ出て行った。何と言われたのか、セナは覚えていな い。ただ床の上を引き摺られた血の跡に気づいた時、蹌踉めく身体と回らない頭で自分の 荷物をかき回して、タオルを掴み出し一心に床を拭いたのだった。 頭がくらくらした。目が霞む。鼻のあたりがぼんやりする。 セナは手を休めた。暑い。窓が強烈に白く光っている。もう昼なのか。暑いはずだ。窓 を開けて。風なんかろくに吹き込んでこないのに。裸の背中を汗が流れ落ちてゆく。ぞく ぞく、する。喉が渇く。汗。水。僕は泣いた。血は。拭いて。男。 「気持ち悪い…」 小声で呟く。 床の上の血は既に乾いている。セナはぐらりと立ち上がると、爪先でそれを削いだ。爪 の間に乾いた血の塊が挟まった。 セナは身体を引き摺りながら浴室の扉を開けた。暗い浴室。背後から照らす容赦なくや かましい光に照らされ、バスタブが鈍く光る。 「さっさと入りやがれ」 後ろから声をかけられた。セナは大人しくズボンと下着を脱ぐと、浴室に踏み込んだ。 バスタブに入ると、上から水を掛けられる。シャワーが頭皮に触れ、髪の中がやけに蒸れ ていた事を知った。暑い。 シャワーが目に入る。セナは俯き加減に、瞬きを繰り返す。水は少し生温い。時々、急 に冷たくなる。 細い指が乱暴に髪をかき回す。髪を洗っているのだと、途中まで分からなかった。 長い指は器用に動いて、髪の生え際まで丁寧に洗った。 髪は何本も抜けた。シャワーで流れ、浴槽の底に沈む。 水音と、髪を洗う指のリズムだけが、セナを支配した。 音とリズムを感じているのが自分ではなく、音とリズムそのものが自分だ。 全てが夢のように遠くなる。 「寝るな」 短い乱暴な言葉がセナを忘我の状態から呼び戻した。 セナは目を開く。流れ落ちる水が目の中に入る。セナは瞬きを繰り返す。 音が止む。シャワーが止まった。髪から離れた長い指がカランを閉めている。生温い水 は微かに波打ちながら胸の下までをひたひたと浸した。 「セナ」 呼ばれた。ヒル魔が自分を見ていた。 セナは手で水をすくい、顔を洗った。ごしごしとこする。 息をつく。そして慎重に声を出した。 「…だいじょうぶ…」 です、と小さく付け加える。 「寝るぞ」 とだけヒル魔は言った。さっき寝るなと言ったのに、とセナは思った。 セナは自分で身体を拭くことも、服を着ることもできた。自分で奥の寝室に行くことも できた。しかしベッドに腰を下ろした途端、身体は糸を切ったように脱力した。倒れるよ うに横になり、小さな息をする。膝から下が細かく震えていた。 ヒル魔は黙って服を脱いだ。 頭の上、カーテンを透かしてやかましい日の光が見える。遮るようにヒル魔の身体が覆 い被さる。 吐息の一つも漏れぬ部屋は、静かだった。 不意にカーテンの向こうが翳った。太陽が西に傾き始めた。部屋はビルの影に包まれ、 ひっそりと街の熱に蒸される。 ヒル魔が電話で話をしている。部屋に設置された電話だ。何故か部屋の隅で赤い発光ダ イオードが光っている。ベッドの上に転がるセナの足も赤く染まる。ダイオードは時折点 滅する。セナの足は陰と赤い光の間をゆらゆらと揺れる。 電話を切ると、赤い光もすっと消滅した。 ヒル魔は何も言わなかった。木っ端微塵に吹き飛んだと思っていたドアは、真ん中に大 穴が開いただけだった。セナは見るでなし、そこを眺めている。 少ししてヒル魔は立ち上がった。黙って玄関のドアを開ける。セナは目を瞑る。 ヨンの声がした。低い声でヒル魔が話す。聞き取れない。最後にヨンの言う「服を着ろ」 という言葉だけが分かった。 食べ物の暖かい匂いがした。いつのまにか鼻の奥の不快感が消えている。目を開く。 目の前にどんぶりが鎮座しましている。 「喰え」 ヒル魔が言った。中華粥だった。 セナはのろのろと起き上がると、添えられたプラスチックのスプーンに少しそれをすく い、口に入れた。 「あつ…」 「じゃあ時間かけて喰え」 ヒル魔は服を着ている。 「すぐ戻る」 ありふれた軽装で、手には何も持っていない。何も所持していない。 セナが沈黙で応えると、彼は振り向いた。 「嘘じゃねえ」 と彼は付け加えた。 ふとセナの中で何かが蘇る。嘔吐感にも似た何かがせり上がってくる。 「嘘は言わねえ」 ヒル魔は耳元で囁いた。 「もう何も起きねえ。テメーは寝てろ」 セナの目を見て確認する。信じられるのか。 「信じて、寝ろ」 時間をかけてセナは頷いた。 去り際ヒル魔は「喰えよ」とまで念を押して出て行った。鍵のかかる音が微かに聞こえ た。セナは溜め息をついて器を持ち上げた。食欲はなかったが水の多い中華粥をセナは最 後まで食べた。 空になった器を眺める。器の底には鳥の絵が青い絵の具で描かれている。 不意に、セナは胸に穴が空いたようでベッドに伏した。目の前にはどんぶり。側面にも 同じ青い鳥が描かれている。それがぐにゃりと歪む。鳥が口を開ける。鳴き声は聞こえな い。鳥は何かを食べようとしている。ぐにゃぐにゃと嘴が広がる。 パンをやるな、と声が聞こえた。それは父の声だった。父の声は遠くから聞こえた。 暗い底から父の声は聞こえる。父の声ばかりでなかった。まもりの声も聞こえた。二人 の声は口々に何かを言ったが、セナにはよく聞こえない。 暗闇はだんだん濃くなる。それは単に黒い闇ではなかった。赤や緑の光が飛んでいる。 誰か電話しているのだろうか。 まどろみがセナを深く深く引きずり込む。 裸の肩に何かが触れた。ふと暖かくなった。 最後に聞こえたのは、小さな溜め息だった。 |