営業所からの帰り道、バスとすれ違った。車体の後ろに子供が二、三人しがみついてい る。セナは妙な気がした。まだ観光気分でこの街に降り立ったとき、ホテルへ行くのにバ スを使った。あの時のバスの後ろにも人が掴まっていたのだろうか。 あのホテルを三日で引き払い、セナ達は今住んでいる部屋に越してきた。ごみごみとし た街の一角にある細長い雑居ビルの五階だ。ヒル魔が一体どのようにしてそこを借り受け、 今もセナは毎朝の新聞配達をするだけで暮らしていけるのか、よく分からない。本当は自 分が新聞配達をしなくても生活できるようだ。 しかし少し言葉が分かったのを契機に、セナは今の仕事を始めた。ヒル魔は別に反対し た訳ではなかったが、セナはその時随分頑とした態度で言い出した。周旋してくれた男は、 この街に来て唯一ヒル魔が紹介した人物、一階で韓国料理店を営むヨンという男だった。 彼は僅かに日本語を話すことができたが、セナは紹介されてもしばらくその事を知らなか った。 ビルの一階の閉まったシャッターの前に、年の知れない老夫婦が朝食の屋台を出してい た。セナのこの街での数少ない顔見知りだ。セナがポケットから小銭を出すと、何も注文 せぬうちから老婆が揚げ物を二つ、新聞に包んでくれた。 「ありがとう」 セナはこの街に来て最初に覚えた片言で礼をしたが、二人は固い面の皮を少しも動かし はしない。怒っているわけではないのだとヨンは言った。 オメーが気にすることネーのさ! 初めの頃、老夫婦が返事をしないものだからまごついているセナを見かけたヨンは、彼 の住居である二階の窓から身を乗り出して叫んだ。セナはこの街に来て初めて自分達以外 の発した日本語に驚き、腰を抜かした。 無愛想な皺面にはなかなか慣れない。声も発さないから、善意も悪意も見出せない。 セナはもう一度会釈をすると、急ぎ足でビルの階段を駆け上がった。最上階の一階下が 彼らの部屋だ。妙な改築を重ねた、とってつけたような扉。尻のポケットから鍵を取り出 す。 今はこの部屋の唯一の無人時間帯だった。ヒル魔は夜、おおよそこの部屋にいない。帰 ってくるのは日が昇ってからで、セナが営業所から戻ってくるよりも遅い。 が、鍵を差し込んでも何時もどおりの感触がなかった。鍵が回らない。 「ただいま」 ドアから半身乗り込んだセナは屋内に声をかけた。返事はない。セナは出入りの挨拶を 続けるよう心がけている。たとえ無人であろうとも、彼が返事をしてくれなかろうとも。 見ると奥の扉が閉まっている。という事は、矢張りヒル魔が帰ってきているのだ。 帰宅したヒル魔は短い時間熟睡する。セナは足音を忍ばせて室内に入った。台所で顔を 洗い、脱いだティーシャツでごしごしと顔を拭う。それから低い椅子に腰掛け買ってきた 朝食を一人ぼそぼそと頂いた。 上げたドーナツのような朝食。たった一人の食卓。 明ける、街。 窓の外がガヤガヤとやかましくなる。この街では太陽の光もガヤガヤとやかましい。 車の動き出す音。罵るような人の声。喧嘩ではない。ただこの街の住人は皆、喧嘩でも するように威勢のいい声で話す。セナにはまだ上手く聞き取れない。せめて人称だけでも 聞き取れるよう努力する。俺が…、俺は…、お前…、私は……。 ガシャ、と。 音がした。セナは、瞬間、身を固くして後ろを振り向いた。奥の扉は閉じている。 セナは食べかけのパンをテーブルの上に置き、振り返った。 「起きたんですか…?」 恐る恐る声をかける。今の音は銃を構える音だった。何を朝から物騒な物を持ち出すの だろう。この街でその存在は、かなり、洒落にならない。 セナは恐れが無意識に引き出す半端な笑顔を浮かべて、相手の名前を呼ぼうとした。 「あの、ヒ……」 それから数秒のことをセナは正確に把握できなかった筈である。 耳をつんざく太い音が響いて、奥の扉は木っ端微塵に破壊された。セナは椅子から転が り落ちた。その際テーブルの脚に頭をぶつけた。そこばかりが痛かった。セナは床に転が ったまま目を瞑り、頭が痛い、頭が痛い、とそればかり思っていた。 目を開けた時も、自分を見下ろす男の顔を全く見知らぬ事、彼の抱えているバッグの事、 そして自分に突きつけられた太い銃口の事、何にも考えが及ばなかった。ただその銃口だ けは見覚えがあった。あの人が部室で磨いていたショットガンだと思った。 汚れた手が弾を装填する。乱れた髪から覗く黄色い目が自分を見据えている。 死ぬとさえ、思わなかった。 吸い寄せられるように銃口だけを見つめていた。 だからその銃口が揺れたとき、セナは異変を悟った。 遅れて、耳の奥に乾いた音が響いた。連続して響いた。 銃口はあらぬ方向を向いていた。ゆっくりと斜め上から天井を指す。 げぼ、と変な音をたてて男は口から血を吐いた。その浅黒い顔がゆっくりとセナと同じ 高さまで落ちてくる。頭は床の上でバウンドして、またゴボっと血が吐き出された。 細い足が頭の上を通り過ぎて行った。 細い腕が男の抱えていたバッグを取り上げる。 細い指がジッパーを明けて中身を確認する。 細くそばめられた目。 その目がこちらを向く。 見慣れた足と、見慣れた腕と、見慣れた指と、見慣れた目の、彼、彼、彼。 口は開くが、声が出ない。 顎が無意味に震える。歯が鳴る。喉が渇く。 細い腕が伸びてきた。腕はセナの身体を抱え起こし、背中を抱いた。 腕が、体が、今まで自分の目の前に倒れていた男の姿を隠す。 左手がセナを抱きこむ。右手は現れてくれない。 右手に銃。そんなもの見慣れている。日常茶飯だったじゃないですか、そんなの持って るくらい。僕は恐くない。別に。恐くなど。 「あ」 恐くなど。 「あ……」 恐くなど。 「あ、あっ」 突然、顔を胸に押し当てられた。セナは構わず叫び声を上げた。それは服の布地に阻ま れ、固い筋肉の体に押さえられ、ほとんど声とならなかった。しかしセナはひとしきり叫 んだ。 恐ろしいなどという言葉も浮かばぬほど、ただひたすら叫んだ。 耳の奥が痛む。キリキリと。耐えられない。 縋りつき、爪を立てる。それでも尚襲うもの。襲う。襲う。襲う。 襲われて。 死ぬ。 その時、足元の床が微かに振動した。 右手が頭を抱きこんだ。 強く、痛むほどに。 セナ。 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。 セナ。 「セナ」 「セナ」 べっとりとした汗が皮膚を這っていた。喉が痛む。鼻の奥が熱い。 しかし耳の痛みがゆっくりと去っている。 心臓の音が聞こえる。 「セナ」 視界が戻る。 黒いティーシャツの生地。細く強い腕が見える。 唇が乾いている。開きっぱなしの口から細く絶えず息が吐き出され続けていた。既に声 を失った喉が、それでも悲鳴を発し続けていた。 悲鳴は途切れた。そして止まった。 セナの息も止まった。 止まった息が蘇るとき、セナは震えながら空気を吸い込んだ。それはぐずぐずの鼻の中 で酷い音を立てた。 セナは顔を上げた。 見慣れた顔。そして、見慣れぬ顔。こんな表情を見たことがない。 両手が肩を抱いている。 足の影、床の上に拳銃が落ちている。 セナは視線を戻す。 そしてようやく、その名前を呼んだ。 「…ヒル魔さん…」 ヒル魔は応えなかった。 |