一度、自分の住む町の航空写真を見たことがあった。小学校の社会科見学で公民館を訪
れたときである。クラスメートに押されながら背伸びして見た航空写真は、単純に物珍し
く面白かった。自分の家を探したが、うまく見つからない。その内先生に移動させられて、
ちょっとした未練を引き摺りつつもその写真との縁はそれっきりだった。
 今、セナは窓から下を覗き込んでいる。後ろではプロペラが回っている。飛行機と言え
ばジャンボジェットしか想像しなかったから、この小型飛行機を見たときセナは正直不安
になったものだ。が、当機はセナの心配を他所に定刻どおり日本を飛び立ち、海を渡った。
 海を渡った。
 本物のパスポート。出国手続き。今一つ実感を欠く。両親や姉崎家の家族も見送ってく
れた。セナは手を振りながら嘘だろうと思った。
 きっと帰ってくる。帰ってこれる。
 が、飛行機は海を渡った。今眼下には、かつて見た航空写真よりもごみごみした光景が
広がっている。高くそびえるビル、奇妙な形のビル、ビル、ビル。少し霞がかった空の下
に見えたのは、セナの見知らぬ街だった。
「ここで乗り換えだからな」
 それまで眠っていると思っていたヒル魔が突然言った。
「え! 乗り…」
「換え」
 そこから更に小さな飛行機に乗り換えた。落ちはすまいかとセナは出国して初めて涙ぐ
んだが、それは低空で飛びながら無事二人他、乗客を新たな街に送り届けた。
 それはさっき見た光景よりも更にごみごみしていた。込み入っている、と言うより隙間
がない。道路が見えぬ程に建物が密集している。道路は高いビルが隠してしまっている。
飛行機はそれら光景の真上すれすれを飛び、旋回して、海に突き出た飛行場に着陸した。
 タラップを降りて飛行場の広いアスファルトの上に立つ。照り返しと熱気が全身を覆う。
排気の匂い。強く焼かれたアスファルトの匂い。
「ボサっとしてんな」
 荷物で頭を叩かれた。ヒル魔がずんずんと前を歩いてゆく。セナは慌ててその後を追っ
た。
 何故、彼と二人きりこの街に降り立つ事になったのか、詳しい経緯をセナは覚えていな
い。勿論反対された。まもりがその急先鋒だった。しかし彼女が先に国外へ出た後、話は
何となくセナの身をヒル魔に任せるという方向で落ち着いていったと思う。しかし行き先
が何故この街になったのか等の事は分からない。完全にヒル魔に一任されたという訳でも
なかったようだ。それは何となく栗田から教えられた。その栗田もセナ達より一日早く日
本を去った。
 入国手続きは難なく通った。正規のルートでやってきたのだから咎められるはずがない
のだが、この男と一緒にいると問題が多そうな気がしてならない。が、そのヒル魔もあっ
さりと手続きをパスする。手荷物にも問題はなかった。いつもの重火器はどうしたのだろ
うと、セナはもう聞かなかった。
 だが、まだ旅行気分が抜けない。今生の別れを済まし、ここに立っているのだという気
がしなかった。
 今立っているのは古いホテルの部屋だ。木造だった。飛行場からバスに乗って二十分。
海沿いとは言え、ビルに視界を遮られ眺めは良くない。
 セナは靴と靴下を脱いだ。足が火照っている。狭い部屋に扉は多くない。二つ目に開け
た扉がシャワー室だった。
 中を覗いたセナは学校を思い出した。それは学校のプール脇にあるシャワー室と似た造
りだった。狭く、暗く、天井近くに換気窓が開いている。そこだけがぼんやりと光ってい
て、電気さえついていない。違うのは、学校はコンクリートの打ちっぱなしだったのに対
し、ここがタイル貼りだということだ。
 扉の向こうから放り出された荷物が床の上でどすんという音と、パイプの酷く軋む音が
聞こえた。ヒル魔がベッドにでも横になったのだろう。
 シャワーは壁の高い位置に据え付けてあった。セナはカランを探し、声を上げた。
「ヒル魔さん、シャワーが…」
「出ねえくらいでイチイチ驚くな」
 それはセナだって、湯水の如く使うの言葉どおり水をいつでも不自由なく使えるのは日
本くらいであることは知っていたが、しかしカランのないシャワーはどうやって出せばい
いのか。壁を見回すが、パイプにもどこにもつまみの一つもついていない。
「違うんです、あの…」
 ヒル魔がのっそりと顔を出す。そしてつまらなそうにセナの足元を指差した。
「え…? このペダル……」
「水はまだ出ねえぞ。六時過ぎだ」
「あのう…踏むんですか、これ」
 セナは目を丸くして、ヒル魔を見る。ヒル魔は疲れたように一言「慣れろ」と吐き捨て
た。
 ヒル魔は扉脇に置きっぱなしだったセナの荷物をベッドまで持っていく。セナはよたよ
たとその後を追った。ヒル魔はセナの荷物も放り、今度こそセナの目の前でベッドの上に
倒れた。
「九十分寝せろ」
 腕で目を覆い、ヒル魔は言った。確かにこの部屋にベッドは一つしかない。
 セナは慌てる。
「い、いいですよ、ヒル魔さんも疲れてるんだから、僕は、その、まだ平気だし……」
 セナが何故か言い訳めいた言葉を繋げていると、ヒル魔が目を開け、腕を伸ばした。
 仄暗い空気に線を描くようにヒル魔の手は伸びた。
 掴まれた時、セナの手は汗ばんでいた。しかしその手をヒル魔はしっかりと握り、引き
込んだ。セナの身体は小さな悲鳴と共にヒル魔の上に倒れこむ。
「わっ、わっ、すいませ…」
「いいから」右腕で、慌てて退こうとする背中を抱き「乗っとけ」
 ヒル魔は溜め息と一緒に吐き出した。
 そして本当に眠ってしまった。
 セナはそのままの状態で固まり、動けなかった。事実体勢が少しきつくて、おまけに冷
房のない部屋は暑く、このまま引っ付いていても、と思ったのだが、それでもゆうに三十
分は動けなかった。
 何となく寝息が聞こえたのを機に、セナは用心深くヒル魔の腕から抜け出た。
 隣に腰を下ろそうとすると、ギッとパイプが軋んだ。セナは驚いて飛び上がり、結局床
の上に座り込んだ。腕の時計はまだ六時には遠い。
「あれ、時差?」
 結局正確な時間は分からなかったが、九十分経ったと思しき時間にはヒル魔が目を覚ま
した。
 覚醒したヒル魔は途端にいつもの調子で、なんだもう六時過ぎたじゃねえか。さっさと
シャワー浴びやがれ。トロトロすんな。晩飯喰いに行くぞ、と矢継ぎ早にセナを追い立て
た。セナは生れて初めて足踏みシャワーを使い、結局足の疲れはとれず、それから出た外
は思いのほか明るく、ケバケバしていて、セナは目を白黒させながら、あわあわとこの街
最初の一日は過ぎたのだった。






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