汚れた道を走る。乗り捨てられた車の間をぬって走る。路地を曲がる。ゴミ箱を避けて
走る。泥濘を跳ね上げる。ポスト。コトン。路地を抜ける。薄青い空が見える。犇めく建
物と電線の向こうに。何処かで、猫の鳴き声。
 夜明け前の街をセナは走る。
 微かに切れた息。
 全身に汗が浮く。
 袖で、額を拭う。
 セナは、見失う。
 何かを、見失う。
 肩から掛けられた袋の中の新聞も路地の両脇の看板も、見知らぬ言葉で書かれている。
 しかし走りながら見上げる空は、ほんの数週間前まで見ていた空と同じ色をしている。
 朝食の屋台の主が話す声や路地を曲がり際聞いたテレビの声、どれも耳馴染みがない。
 けれども坂を登るにつれて見えてくる住宅街は、見慣れた近所の風景を思い出させる。
 知らない街。知らない言葉。
 同じ色の空。見慣れた風景。
 セナはひたすらに走る。日が昇るまでに住宅街の全てのポストに新聞を投げ込まなけれ
ばならない。日の昇る前には営業所に帰らなければならない。バイクを使う者もいる。自
転車で配達する者もいる。セナより早い仕事をする者は何人もいた。どん尻に帰って、知
らない言葉で罵倒されるのは嫌だった。
 坂の上は住宅地だ。中心街から離れた住宅は本来バイクの担当だ。しかし半端に歓楽街
の側に建つ坂の途中の家々までは、セナが配達しなければならなかった。
 自分の家の近所にもあるような、小奇麗な造りをした家々。近代的なユニット住宅。整
備された路。ゴミの数が減る。すれ違いに、頭の上をカラスが飛んで行った。ごみごみと
ビルの犇めくあの路地と近いのに、ここはキレイ過ぎる。
 セナは既に記憶に馴染んだ番地のポストに次々と新聞を投げ込む。
 ポスト。コトン。
 ポスト。コトン。
 ポスト。バサリ。
 コトン、コトン、と音がするたびにセナは現実感を失う。
 何故自分は走っているのか。何故自分は新聞など抱えているのか。見慣れた風景の中を
走っているのに、何故自分はこんなにも違和を感じるのだろう。
 コトン、コトン、という音に合わせて空は段々白んでゆく。
 いけない。セナはスピードを上げる。坂を下る。犇めく建物の、隙間のような路地に戻
ってゆく。肩から下がる重みはまだ消えない。空のポストはまだ残っている。
 路地の暗がりは湿り気を帯びている。目はその景色に慣れたが、肌がまだ慣れない。
 自分はまだこの風景に馴染んでいない。
 自分は異物だ。言葉の違う、匂いの違う、異人だ。
 無性に、名前を呼ばれたくなった。
 誰か呼んでください。
 小早川セナ、と僕の名前を呼んでください。
 セナは立ち止まった。
 最後のポストに新聞を入れた。コトン、と音がした。






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