Rest In Peace / the first half




 そこに立つと月の光を思い出す。
 カルヴァリー墓地北寄り、東の端、僅かな丘陵の上。誰もいない。数度の爆撃により荒れ果てた
墓地は、今は訪れる者も少なく、ある場所には雑草が高く繁り、また他の場所は戦の炎に焼かれた
まま命の息吹を失い、剥き出しの冷たく黒い土を露にする。そんな場所にアイザック・ギルモアの
墓はあった。信仰を持たなかった、あるいは彼の子供達にその事を告白しなかった科学者の墓は飾
り気がなく、四角く切り出された固い石に、ただその名前と生きた年月だけが刻まれている。それ
も爆破の影響で角が削れ、多くの細かい傷が斜めに走っていた。
 しかしそこに立てば、思い出すのは、磨きそこに据えられたばかりの墓石と、音もなく降り注ぐ
月光。月の光は青く、静かで、冷たくて、そこら一帯が水の中に沈んだかのように見えた。八十年
ばかり昔の話だ。
 葬儀は九人のみで行われた。その柩を収める場所については色々と議論がなされ、彼の生まれた
東欧の地に戻すべきだとか、長く過ごした日本に帰すべきだとか、また彼の宗教についても、果た
してロシア正教であったのか、それともユダヤ教であったのか、それに因っては葬儀形式も変わろ
うと誰かが言ったけれども、結局皆、永遠に沈黙した男を囲んで黙り込んでしまったのだった。
 彼らをこのような身体に変えた張本人であり、即ちその中に敵と味方の両方を抱いた存在、そし
て掛け替えのない家族、彼らの父。その男を、彼らは月の光の下で葬り、言葉なく頭を垂れた。
 結局、どの案も実現されることはなかったのだ。その頃、既に戦火はこの付近まで広がってきて
おり、死体を移送するような余裕はどこにもなかった。彼は最後を迎えたこのニューヨークに今も
眠る。時折、空から降る爆撃の音に驚かされながら、あるいは静かな冬の雪の下で、雪のように降
り積もる色のない灰の下で。
 ニューヨークには今日も灰が降る。色のない、音のない世界。その中、灰を踏み締め、なだらか
な丘陵を上ってくる一人の男がある。男は意志を持って、その少し離れた場所に立つ墓石の前まで
やって来た。足を止めると、懐から煙草を取り出す。火の吸い付けられた煙草は、そっと墓前に供
された。
「あんたはパイプだったよな。趣味に合わないかもしれねえけどよ……」
 呟き、灰の降る空を仰ぐ。空は白に近い灰色。降る灰が色を奪い、低く重たく垂れ込める。だが
ジェット・リンクは、月光射す蒼い夜空を思い出していた。あの頃はまだ空気も澄んでいた。今は
草地の多いここも、埃臭く、空気は悪い。マスクなしで歩くことが出来るのは、やはり彼のその身
体故、サイボーグだからこそであった。
「……お久しぶり…です」
 ジェットは照れたように言った。
「この前から結構経っちまった。本当に久しぶりだな、博士。あれから誰か来たか? 花が…ない
な。フランソワーズはやっぱり忙しいみたいだ。アジアの査察も、もう…何度目だっけ。仕事中は
そうでもないけど、休みかな、たまに夜中に通信が入ってくる。もうこんな能力なんかいらないっ
て。……あんたを責める訳じゃないけど、やっぱ辛そうだ。前はイワンが付き添ってたけど、あい
つ、今度正式に北方のESP研究所に迎えられてさ…。エトワール…フランソワーズの子供、彼女
もそこに預けられてる。もう三歳になったよ。けど、やっぱり査察には連れて行けねえし…。イワ
ンの所だから安心は安心さ。会いたくなれば、すぐにイワンが通信を繋ぐし。あいつ、ただの研究
所員だとか言ってるけど、どうだかなあ…。俺達のメンテも向こうでやることになったんだ。それ
って結構権威あるんじゃねえか、とか。設備、まるまる使ってるしさ。ま、俺としては、メンテと
一緒にもれなく鉄道旅行とボルシチとウォッカがついてくるってんで、そういうややこしい事情も
不問にしてるよ。悪くないぜ、定期でユーラシア横断ツアー。
 アルはやっぱり連絡が途切れがち。あいつ、一匹狼にも程があるよ。前線から手紙を寄越すだろ
……、手紙だぜ、博士。俺達、通信機がついてるのにさ。そうだ、博士。新しくしたんだよ、通信
機。イワンが、衛星を幾つか専有出来るようになったからって、独自の周波数で九人だけの通信網
を作ったんだ。衛星の仲介があるから、地球上のどこでも圏内さ。あんまり私的な利用はするなっ
て言われちゃいるけど、でも手紙はなあ…。届くのに一カ月以上かかるんだぜ。向こうは前線であ
っちこっちに移動するから、返事も送れねえし。転居通知も送れねえから、引っ越しも出来ねえし。
……部下のサイボーグが増員されたって、それが最後にきた内容。味も素っ気もねえ。おまけに暗
くなる。俺達は相変わらず道具扱いだ」
 ジェットは口を噤んだ。風が吹いたからだ。積んだ灰が吹き上げられ、革の上着やパンツを汚す。
煙草の灰は吹き飛ばされ、半分ほどの長さになったそれも地面の上を右に左にころころと転がった。
 風が止み、ジェットは息をついた。頬にも灰がついている。それを拭うと、手が黒く汚れた。彼
はそれをパンツで拭い、転がった煙草を再び墓の前に置き直した。
「博士、ジェロニモと張々湖が活動してるのは知ってるだろ。中国の砂漠にやっと畑が出来たって
よ。凄えよな、五十年かけてやっと緑の野菜が出来たんだ。写真が送られてきたぜ。オアシスを中
心にして、なんてったってデカい畑が広がってるんだ。凄えよ、トマトだろ、イモだろ、トウモロ
コシもあったと思う。あと何だっけ、あのパイナップルみたいな形の、繊維質の……名前忘れちま
った、それだろ。なんかそういうのがさ、サボテンの林に区切られて、こう延々と続いてんだよ。
普通無理だろって思うけど…、最初から砂漠じゃなかったんだから、命を引き戻せばどうにかなる
って、ジェロニモが言うんだ。で、次は中東に畑を作るんだってさ。こないだまで爆撃に晒されて
カラカラになった土地に、まだ安全って決まったんじゃじゃねえ場所に。あいつらも命知らずって
言えば、そうだよな。まあ、俺達皆そうだけど。
 連絡がないのはピュンマとグレートだ。ピュンマの方は、まあ分かるんだ。最近、アフリカの動
きが微妙になってきてる。連合が出来るかって所で、また揉めだしたんだ。初めの頃サイボーグマ
ン化された人間が結構多くてさ、んでやっぱ抵抗あるんだよ、皆。ピュンマは板挟みになってる訳
じゃねえけど、多分仲介で走り回ってるんだろうな。連絡はねえけど、たまにニュース映像に映っ
てんだ。
 グレートはとんと連絡はねえけど、何してるかはイワンに教えてもらった。非営利団体の慰問団
に加わってるんだって、つまりサーカスさ。グレートには打ってつけだよな、博士。だからあいつ
も前線にいるって言ったらそうなのかな。慰問団って言ったら、そういう所を回るのが仕事だから。
……何だ、皆、結構消息は掴めてるんだな。何だ……」
 灰の降りが強くなった。地面がみるみる黒ずんだ灰色に覆われてゆく。それはギルモアの墓石の
上にも積んだ。灰に覆われた煙草は、いつの間にか火が消えていた。
「俺はまだ国連で下働きだ。仕事も、少しは出来るようになったんだぜ。って言っても、大したこ
とじゃねえけどさ。やっぱここからは…動けねえんだよ」
 博士…、とジェットは呼びかけた。
「あの約束から、もう二年だ。あいつは来たか? 大空襲のあの日、俺達はこう言って別れた。旧
海軍基地、そこがやられてたらカルヴァリー墓地で……」
 ジェットは握った右手の拳を見つめた。とん、と宙に突き出してみせる。
「通信も通じねえ。イワンの捜索にも引っ掛からねえ。ったく、どこにいるんだよ、なあ……」
 再び、風が強く吹いた。強い風はなかなか止まなかった。ジェットは懐から取り出した煙草をボ
ックスごと墓の前に置いた。それはみるみるうちに灰に覆われていった。ジェットは墓前に佇んだ
まま、目をそばめていたが、やがて踵を返した。襟に首を埋めるように歩く姿は降りしきる灰の向
こうに消え、足跡も、残る間もなく風に吹かれ、灰に埋もれた。語りかける人を失ったカルヴァリ
ー墓地は、また死の沈黙に眠り込むばかり。それは月光の夢さえ見ない、冷たく乾いた灰色の眠り
だった。

 入り口で肩に積んだ灰を払うと、まず暖房のスイッチを入れた。エアコンの低い響きを聞いてい
ると、さっき墓地で思い出した月光が本当に懐かしく、また遠い過去だと思われる。
 ニューヨークだけでなく、地球上の多くの土地が太陽を、月を、そして空をなくしていた。空を
覆っているのは、雲以上に灰だ。それはあたかも氷河期のように、地上を極寒の世界に変えた。太
平洋の島々などは、いくらかその被害から逃れているものの、海水の上昇によって沈没、あるいは
真水が失われ、住めない地域が八割を超える。
 日光を失った当初、人々はこれが世界の終わりだと騒いだが、その割にしぶとく生き延びている。
確かに身体の虚弱化などは進んだが、代わりに人工臓器等の研究、つまりサイボーグ技術が発達し
た。しかしそれが用いられるのもおおよそ軍事中心であり、サイボーグと人の間の確執は未だ解消
されていない。それは例外なく彼らも苦しめ、結果、ピュンマの音信不通に繋がったりもする。
 まあ音信不通と言っても、とジェットは湯を沸かしながら思った。おそらくイワンとの連絡くら
いは取れているのだろう。今や伝説的存在となった彼ら九人のメンテナンスを担当出来るのは彼以
外にない。イワンとの連絡は生命維持の一部なのだ。自分もそろそろメンテナンスにかからなけれ
ばならない。最近とみに通信機の調子が悪い。いくら丁寧に周波数を合わせても雑音が混じるのだ。
この頃は聞こえないことも多い。
 仕事は最近、関係者以外禁の扱いのものが多く、あちこちを走り回る役目で、尚且つ新参のジェ
ットは、その機密保持のため仕事から外されていた。事実上の自宅待機、事態が穏やかになるまで
休みも同然だろう。これを機に行っておいた方がいいかもしれない。ニューヨークを離れることに
不安はあるが、自分が壊れてしまっては話になるまい。
 ジェットは沸いた湯で薄いコーヒーをいれ、キッチンにもたれた。
 墓前では列車旅行つきと冗談を言ってみせたが、実際にはそのような余裕はない。彼一人であれ
ばシベリア鉄道を利用しようが文句はなかったはずだが、今や「あの」ゼロゼロナンバーサイボー
グであり、おそらく「国連所有物」の扱いにされている自分は軍用機で「輸送」されるに違いない
のだった。まあ交通費が浮くと言えば、そうなのだけど。明日、事務総長に連絡を入れようか。こ
のような関係の事柄に関しては、彼は直接事務総長に連絡する義務を持っていた。それは査察団に
所属するフランソワーズなども同様だ。
 と、頭の奥に聞き慣れたノイズが響いた。専用回線の通信が入ったのだ。ジェットはなるべく受
信状態をよくするため、窓辺に寄った。しかし雑音ばかりで、なかなか通信は入らない。いよいよ
イカレたか、とコーヒーを啜っていると、唐突に『002!』とナンバーで呼ばれた。
「……フランソワーズ?」
 いつもの、疲れ果てたような物憂げな声ではない。切羽詰まったような響きにジェットは、その
声で相手がフランソワーズだと分かっていたにも関わらず、思わず聞き返してしまった。
「何かあったのか?」
『それは私が言いたいわ。どうしてなかなか出てくれなかったの?』
「悪い。最近回路の調子が悪くてさ」
『メンテナンスは? ちゃんと行ってるの? また怠けてるんじゃないでしょうね』
「近々行くつもりだって…。ところでどうしたんだ。何、焦ってんだよ?」
『馬鹿ね、返事がないから心配したんじゃない……』
 フランソワーズの声は急に覇気をなくし、勢い諸共失墜した。
 沈黙が続く。回線は繋がっている。聞こえるのは耳の奥に砂を流し込むようなノイズと定期的な
電子音。そして、聞こえるはずもないフランソワーズの弱々しい吐息。
 ジェットはこの通信の向こうの姿を想像した。煤煙に覆われた空を突き刺す都市部の高層ホテル、
最上階の二階下。屋上には非常時のためのブイトル。けれども彼女の部屋は、おそらく屋上への通
路から一番遠いはずだ。使いようもないツインの部屋で、片方のベッドの上にスーツも脱ぎ散らか
し、脱力して横たわっている。
 勝手な想像が、衛星を介して送られてきた映像のようにジェットの頭には浮かんだ。
 身体が、それは決して老いることのない身体であるのに疲労のため血色を失って、ライトスタン
ドの淡い明かりの下、細く痩せて見えるのだろう。下着を押し上げ微かに上下する胸。細く物憂い
呼吸が、ノイズに乗せて届く気がする。
『……ねえ、009はまだ見つからないの?』
 ここ数カ月程聞かなかった言葉を、フランソワーズはぽつりと呟いた。いくらか頑是ない子供の
ように、語尾に苛立ちを滲ませ呟く。
「どうしたんだ」
『訊かないで』
「それじゃ話にならねえだろ」
『ならないのよ』
「…………」
 いつも以上に不機嫌だ。不機嫌と言うより余裕がない。彼女が深夜の愚痴で極端に低調だったり、
多少ヒステリックになるのはよくあることだったが。
『ねえ、009は…』
「お前、今どこにいるんだ?」
『009は…』
「今、どこにいる?」
『訊かないで』
「査察はもう終わる頃じゃないのか」
『訊かないで』
「まだ協定地に…」
『訊かないでったら!』
 フランソワーズは喚いた。回路一杯に割れた声が響いた。愚痴はあっても、こんな声は聞いたこ
とがなかった。まして、まだ九人一緒にいた時などは。
 ジェットは静かに尋ねた。
「ジョーを探したいのか?」
 フランソワーズは答えない。時折ノイズが激しくなる。
「フランソワーズ……、もしかして今、探さないといけないんじゃないのか?」
『何、それ……』
「そういう状況になったんじゃないのか。今探さないと、この後は探せない状況になるんじゃ…」
『ジェット!』
 その声は頑是ない愚図りでもなく、ヒステリーでもない。不安に突き動かされた悲鳴だった。
 この回線、この周波数が傍受されることはありえない。それはイワンの目をくぐり抜けるという
ことである。出来るはずがない。しかし今、フランソワーズは不可能なそれさえ恐れている。
「……どうしたんだ?」
『…言える訳ないでしょ』
「守秘義務か?」
『それは当たり前のことだわ。これは私の秘密よ。私だけの秘密』
「その秘密、協定地の地下に眠ってるんじゃないのか?」
『馬鹿なこと言わないで!』
「……悪い」
 流石にあからさますぎた。
 ジェットはさっき墓の前でしたように、右の拳を前に突き出した。フランソワーズの言う「秘密」
を巡って事態がこじれた場合、いよいよジョーの捜索は難しくなるだろう。きっと今が最後のチャ
ンスなのだ。
 ベッドの上で頭を掻き毟るフランソワーズの姿が脳裏をよぎる。
「……ジョーのこと、好きか?」
『……言わないで』
「好きだろ、今でも」
『……何を言わせたいの、あなた』
「心配すんなってことさ。俺が生きてるくらいなんだ、あいつは数段性能がいいんだぜ。そのうち
ひょっこり出てくるって」
『何十回と聞いたわよ。安い慰めは十分だって言ったじゃない』
「そんなんじゃねえって。……俺、今、わりと信じてんだ。あいつ、生きてるって」
『…………』
「それより子供の方はどうだ? 元気か?」
『……元気』
 ジェットは微かに笑う。
「やんちゃ盛りだろ。イワンより大きくなったんだよな?」
 その時、憮然とした雰囲気を残しつつも、少しだけフランソワーズが笑った。
「お、何何?」
『ううん、この前届いた映像が……。ツーショット写真が何枚か届いたのよ。エトワールと皆。メ
ンテナンスの時に記念撮影をしたらしくて。張大人とか、ジェロニモとか。アルベルトもいたわ』
「それで?」
『でね……イワンの写真が、ああ、どうしてこんなにおかしいんだろう。…あのね、エトワールが、
イワンを抱っこしてるのよ』
「傑作!」
『でしょう?』
 ようやくフランソワーズの声に明るさが戻った。
 ジェットも安堵に肩を下ろし、そして心持ち姿勢を正した。
「今日は悪かった。色々、無理に訊いて…」
『反省してるなら、今度からやめて。専用回線にしたって…冷や冷やしたわ』
「ん、だから悪い……」
『…ねえ、ジェット』
 それまで感情に呼応するように混ざった雑音が晴れる。さらさら音を立てるノイズも遠く、フラ
ンソワーズの声が今日初めてクリアに届いた。
『私、出来るだけのことを、やってみるわ』
「フランソワーズ…」
『003よ。そんな心配そうな声を出さないで。私だって一世紀を乗り切ったゼロゼロナンバーサ
イボーグなんだから。そして女よ。女は強し』
「そして母はもっと強し、だ」
『そのとおり』
 ノイズが再び蘇った。波打つようにフランソワーズの声を攫う。その不調は、相手にも感じられ
たらしかった。
『あなたも気をつけてね。本当に通信の状態が悪いみたい。無理せずに、早くイワンの所に行くの
よ。絶対よ』
「分かってるって、ママ」
『…もう』
 フランソワーズは笑いをにじませて返した。
 通信を終えたジェットは、のろのろとコーヒーに口をつけた。すっかりアイスコーヒーになった
それを喉の奥に流し込むと、マグをシンクに伏せる。彼はクローゼットからスーツケースを取り出
しベッドの上で開いたが、やがて自分もベッドの上にごろんと横になった。
 メンテナンスが済んだら、フランソワーズに付き添おうと考えた。ボディガードはついているだ
ろうが、彼女の話から得たことが事実なら自分くらいの者がついていた方がいい。
 ならば明日、上司と事務総長にかけあって、それから郵便局に行って手紙をオフィスに転送して
もらうようにしよう。それからもう一度カルヴァリー墓地に行こう。もしもジョーが帰還した時の
ためにメッセージを残しておこう。
 そうして寝転んだまま天井を見つめていた。不意に、二年間たった一人で過ごしたこの部屋に、
もう戻らないだろうと感じた。

          *

 ジェットは揺れの酷い輸送機の中で、じっと目を瞑り動かなかった。イワンの手配してくれた東
部行の食料支援機は小麦粉などの穀物の袋の間に「国連所有物」と称される男を一人隠し、許可さ
れた領空内を高度を上げて飛んでいた。低いと迎撃用レーダーにかかる恐れがあるためだ。近隣の
国が使用している旧式のものは、認証番号を確認する前に目標物を撃墜するという物騒な代物で、
今、その全ては稼動している。
「ぼく個人の意見を言わせてもらえば反対だよ」
 イワンはやはりテレパシーで話しかけた。
 ぼんやりとした間接照明に部屋全体が白く光を放って見える。天井、壁、床の区別が曖昧な、曲
面のみで構成された室内。北方ESP研究所の内部は、おおよそどこもそのような作りになってい
た。それが場所場所にいるESPのイメージで多様に彩られている。玄関口は春の花で埋め尽くさ
れていた。その中で、研究所のシンボルカラーである鮮やかな空色のジャンプスーツに身を包み、
小さな半透明の円盤に乗って空中を浮遊しているのがイワンだった。彼は生身であるにも関わらず
身体のその成長を止めてしまっていて、百年前と変わらぬ赤ん坊の姿でジェットを出迎えた。
 今使用しているメディカルルームは所内の独立した医療用ドームの一つで、イワンが数人の医療
助手を使って専有する施設の一つだった。既にメンテナンスも終了し、助手の赤毛の女性が今回の
通信機の不調に関するレポートを作成していた。ジェットは顔には出さないが、イライラしながら
彼女が退出するのを待っていた。するとコンソールに前かがみになっていた赤毛の頭がぴょこりと
上がった。
「ウィスキーさん、レポートは私のオフィスで作ります。提出は明日でもよろしいでしょうか」
 近眼らしい彼女は急にディスプレイから目を離したので、眩しそうにイワンを見上げながら言っ
た。ジェットには聞こえなかったが、イワンは彼女の頭に直接話しかけたらしい。ソバカスの多い
顔が微笑し、女は軽く会釈をしてメディカルルームを去った。
「気が利くなあ、とか思ってるんじゃない?」
 今度はジェットの頭に直接声が響く。
「彼女は精神感応の部分が特に鋭敏なんだ。君が早く二人きりになりたいのを察したんだよ」
「なんだ…折角ポーカーフェイスで頑張ってたのに」
 ともかく安心してジェットはイワンに自分の提案を話した。
 すると、先のような言葉を返されたのだ。
「フランソワーズだって、そんなに危険な状況に置かれている訳じゃない。危険を回避するために
査察をして報告するのが彼女達の使命だよ」
「だけど、この前の通信は…」
「変わったね、ジェット。随分心配性になったじゃない」
「ふざけんなよ」
「ううん、素直な意見。……でも本当に反対。査察団は三日後に帰還するし、それまでは絶対に何
も起こらない。君が引っ掻き回さない限り」
「……ケンカ売ってんのか?」
「簡単な推察と、ちょっとした予知」
 それでも解せぬと言うようにジェットが睨むので、イワンは溜め息をついて目の前のコンピュー
タと繋がったジャックを指した。
「見せてあげる」
 小さな手が勧めるまま椅子に腰掛け、ジャックを首の後ろに接続する。
 隣に浮遊するイワンの目が微かに青白く光った。頭の中に膨大な情報が流れ込む。
 ジェットは目を回しそうになり、思わず肘掛けを握り締めた。背中に汗の滲むような嫌な感触が
する。隣のイワンを見る。無表情だった。
 永世中立独立機関北方ESP研究所、専有衛星「キリエ」管理記録。担当管理官イワン・ウィス
キー・コンピュータ「ソーニャ」間の通信記録。2101年1月1日午前0時からの「ソーニャ」
セキュリティログ。アクセスログ。
 一拍置いて、新たに画像データが送られてきた。ユーラシア北部からアジアにかけての軍事主要
地を一月毎に撮影した衛星写真。更に各地のホストコンピュータの大まかな稼動記録、アクシデン
ト。
 ジェットはジャックを抜いた後も、しばらく椅子から腰を上げることが出来なかった。目の前の
コンソールにもたれ、息をつく。
「多すぎる情報だからね。君がこれから行こうとしてるルート以外の情報は早急に消去して」
「言われなくても…今、やってる」
「これで解っただろう」
「まあ、解ったっつうか……、むしろ何なんだよって感じだな」
 今年の初めから数十回にわたって試みられている「キリエ」または「ソーニャ」へのハッキング。
それらは専用通信回路に狙いを定めている。次にGPS機能による九人(現時点で可能なのは八人
のみ)の存在位置。
 そしてユーラシアにじわじわと広がる戦争準備ともとれる活動。
「お前のセキュリティは凄いな。全部はじいたのか?」
「九割は『ソーニャ』の仕事。残りはちょっとぼくが介入したけどね。面白いのがあっただろう?」
「クソ面白くもねえよ。なんだありゃ」
「『002、シキュウ ゴウリュウ サレタシ』。偽証コードは『004』」
 ハインリヒを騙り自分を呼び出そうとした何者かがいる。その試みは月一度、そうジェットの元
に手紙が届く日に合わせ試みられていた。他にも似たアクセスが、各人宛にに何度もされている。
「犯人の特定は?」
「君に宛てのアクセス以外は全部解ってるんだ」
「……俺だけ?」
「うん。君を狙ってる相手は、かなり手ごわいよ」
 ジェットはその日付がハインリヒからの手紙の到着日と一致していることを告げた。
 するとイワンも黙り込み、メディカルルームはしばらく耳に痛いような沈黙が降りた。
「ハインリヒと連絡、とれるか?」
「この後、すぐにとる」
「…で、後の方の写真は? 勝手に使えってことか?」
「役に立つだろう?」
「立つけどよ…」
 最後に送られてきた地図を瞼の裏にもう一度引き出す。
「輸送機のルート……」
「無理はしてほしくないんだけどね。でも君の所属する所が、いざとなったら『003』の『デー
タ』だけを取って、彼女を見捨てる可能性もなくはないんだ」
「人道主義って古語だっけか?」
 イワンは応えなかった。
 その時、背後のドアがスライディングし、小さく不規則な足音が近づいてきた。
「ジェット!」
「エトワール」
 所内ではなかなか見かけないカラフルなパステルカラーのワンピースが揺れる。まだ幼い子供な
がら、すらりとした印象の体型。床の上を跳ねるように駆け近づいてきたのは、誰あろうフランソ
ワーズとジョーの一人娘エトワールだった。
 ジェットの顔は意識せぬうちに曇りを拭って晴れ渡り、彼は満面に笑顔を浮かべ両手を広げて小
さなレディを迎えた。
「よしよし、エトワール。どら、おうおう重くなったな」
 両脇に手を差し入れ、高く抱き上げる。
 肩まで伸ばした金に近い栗毛が外巻きに跳ねている。キラキラ光る瞳は黒。両親共に白かった肌
は忠実に美しく遺伝しており、じっとしていれば実物大のバレエ人形のようだ。しかし実際はよく
動き回り、一時もじっとしていない。表情も豊富で、利発そうな目と言い、絶えず微笑むような口
元と言い、どちらかと母親似のようだ。
 額にキスをすると、エトワールは「ママ、ママ」と繰り返した。
「ママか? 待ってな、今から迎えに行く所だよ」
「パパ」
 パパと言いながら、その高い鼻にキスをしてくるエトワールにジェットは苦笑した。
「俺はパパじゃねえよ。パパはその内帰ってくるからな」
「パパ」
 柔らかな手のひらが鼻先を掴む。
「パパ!」
「分かった分かった、ならジェットパパな」
「パパジェット」
「うん、どっちでもいいや」
 パパ、パパと言いながら首に抱き着くエトワールの背中を撫でていると、イワンが
「それに、この子には母親が必要だと、君も思うだろう?」
「素直に、フランソワーズが心配だって言えばいいじゃねえか」
 その一言で機嫌を損ねたらしい。
「ハインリヒに連絡をつけるよ。間に合えばいいけど」
 わざと思わせ振りは言葉を付け加え、イワンは空中でプイと背を向けメディカルルームから出て
行った。
 見開いた黒い瞳がその後を追う。エトワールは桜色の唇を尖らせて、不服を訴えた。
「イワン?」
「イワンはお仕事だってさ。さあ、エトもお部屋に帰って、いい子にしてような」
「ウィ、パパ」
 返事をする彼女は、母親を思い起こさせる、花のような笑顔を浮かべた。
 この手に抱いた柔らかな感触を思い出す。
 舌足らずな、ママと呼ぶ声。イワン曰く年齢と比較して言語発達が少々遅れているということだ
けれども、多国の言語が飛び交う研究所内でエトワールの言葉はフランス語と英語の交じった不思
議な響きを持っていた。もしもジョーが帰ってきて日本語を話すようになったら、どのように変化
するのだろう。きっと天使の言葉でも話し出すに違いない。
 頬が自然に緩んでいた。
 直ったばかりの通信機を使って、もう一度話をしてみたい欲に駆られる。これまでも一日満たず
にしてのサヨナラはあったことだが、今日は一段と名残惜しい気がするのだった。何故だろう。
 頭上の小さな窓には何も映らない。あるのは暗い夜の闇だけだ。ESP研究所所有の飛行場で燃
料補給した輸送機は、そこでジェットを乗せ、日付が変わるのと同時に出発した。夜明けの時刻に
は目的地のユーラシア東端協定地に到着する。輸送機はそのままとんぼ返りするから、夕方にはフ
ランソワーズを連れてESP研究所に戻ることが出来るのだ。
 一瞬開いた心の隙間に疑問が滑り入ったように、ふと嫌な予感が胸を掠めた。いや、これは予感
ではない。耳を澄ます。エンジンの音が妙だ。
 次の瞬間、機体が大きく傾いだ。乱気流? いや、今飛んでいるのは砂漠の上だ。
 ガタガタと機体が揺れだす。高度が下がっている。考える間もなくジェットは小麦粉の袋を蹴飛
ばし操縦席へ向かった。
 一目見、彼は口の中で小さく罵りの言葉を吐いた。
 操縦士は気絶している。隣の年若い副操縦士が何とか高度を持ち上げようとしているが、目盛り
の低下は収まらない。
「おい!」
 ジェットは大声を出すと、思わず振り返った副操縦士を殴り気絶させた。そして二人の身体を脇
に抱え、何度かのキックによりハッチを蹴り開いた。
 場所が場所なのは重々承知している。もう一度、イワンからもらった画像を呼び起こす。非常に
まずい地帯の側にいるのは間違いなかった。
「このまま墜落してレーダーにかかって撃ち落とされるか、それとも……。ったく、これだから俺
は、アイツから怒られるんだろうけどよ」
 苦々しく笑いながらもジェットの中にある種の感覚が蘇ってくる。彼は一声自分に喝を入れると、
二人の人間を抱え足のジェットに点火した。




THE LATTER HALF