Rest In Peace / the latter half




 イワンの喉が引き攣った声を上げた。
 ぞわりと足先から頭のてっぺんまでを舐め上げられるような感覚。それに呼応して通信室は床か
ら天井まで青みがかった灰色に暗く染まった。足元の円盤が青白い明滅を繰り返す。鳥肌が立つ。
自分の力では敵わない何かが存在している。何かがいる。そして近づいてきている。
 イワンは微かに動悸を速めた。このようなことは滅多にない。いや、この百年起きなかったと言
っても過言ではない。過去一度、自分の仲間を死地に送り込んだ時感じたきり、忘れていた。
 危機! 言葉が頭の奥に押し付けられたかのようだ。何かが来る。何かが来る。
『001!』
 呼んだのは「キリエ」だった。「キリエ」は北アメリカの東海岸で傍受した通信をリアルタイム
でイワンに送った。
『至急、至急! 至急確認請う』
『間違いありません。こんなもの、見間違えるもんか!』
『もう一度だ、もう一度繰り返せ』
『繰り返します。地下の未確認施設から「009」を「発掘」しました!』
「『キリエ』、画像を送って。早く!」
 気が急く。
 やはりあそこだったのだ。合衆国が決して捜査させなかったあの区域。ニューヨークのど真ん中
にありながら、唯一地下鉄の通らないあの場所。未確認施設と呼ばれていたが、おそらくその手の
者が「発掘」には携わっている。この通信も聞かれるのは承知なのだ。
 あの大空襲の日、合衆国は地下の実験施設に009を生き埋めにしたのだろう。そして戦争の風
船が破裂しそうなギリギリの際で、自分達の手の中に「あの」ゼロゼロナンバーサイボーグを有し
ていることを知らせたかったのだ。
 間を置かず画像が送られてきた。確かに009だ。担架に乗せられ、救護ヘリに乗せられようと
している。仮死状態にあるため血色はなく、防護服も泥まみれだが間違いない。
 イワンは手を上にかざすと、相棒であるコンピュータに声をかけた。
「『ソーニャ』バックアップを頼む。ぼくはこれから009をここへテレポートする」
 小さな身体が円盤からふわりと浮き上がる。目が強い光を放ち、暗い室内を小天体のように照ら
す。しかし次の瞬間、女性の悲鳴が室内に響き渡った。
「『ソーニャ』!?」
『駄目です、001! 「遮断」されました。「キリエ」との通信も…。復旧……緊急バックアッ
プ回線……「キリエ」、「キリエ」! 届かない…無理です。次々に「遮断」されていきます。こ
れでは無理……。001!』
「『ソーニャ』、どうしたんだ。ぼくの声は? 脳波は?」
『聞こえますか? 001、申し訳ありません。もうあなたの脳波も聞こえません。届かないので
す。私は完全に「遮断」されました。聞こえますか、001。大きな力が妨害しています。私を強
制的にダウンさせる気です。緊急手続きが第一段階……第二段階まで終了しました。私はもうすぐ
消えます』
 イワンは背後の扉に手をかざした。しかしスライディングドアはぴくりとも動かない。それどこ
ろか、さっきまで灰色に染まっていた部屋もその色を失い、白に戻ったかと思うと、やがて照明ま
で消えてしまった。暗闇の中で身体が揺れる。イワンは声を上げる間もなく床に転げ落ちていた。
すぐ側で円盤が乾いた音をたてて転がった。
 痛みに耐えながらイワンは身体を起こした。頭上で微かにディスプレイが光を放っている。そこ
へ文字列が現れた。
『逆探知にも失敗しました。相手は複数です。あんなに強い力は感じたことがない。001、すべ
てのセキュリティを突破されました。おそらく破壊されました。「キリエ」も同様でしょう。手続
きは第五段階。お別れです、001』
 低く唸るような音とともに文字列が掠れ、ディスプレイは光を失った。
 微光さえ存在しない、真の闇がイワンを包んだ。今やまさしく無力な赤ん坊と化したイワンは目
を見開き、息を止めて、ディスプレイの残像を見つめていた。
 何故だ。何が起きた。
 何の感情も起きない。怒りさえ起こらない。混乱している訳ではない。「キリエ」と「ソーニャ」
が強制的に機能停止、また破壊され、自分は更に強い力によって能力を全て封じられ通信室に閉じ
込められている。理由は簡単に推測される。他国との結託による離反、もしくはクーデター。分か
らないのは、それが誰かということだ。自分を上回る力。「ソーニャ」は最後に「複数」と言い残
した。
『……イワン・ウィスキー』
 雑音混じりの放送のような声が頭に響いた。テレパシーが受信のみの一方的な回線としてだけ開
かれる。聞こえてきたのは所長のオグドン・ニューの声だ。
『聞こえるかね、通じたようだな。ご機嫌いかが?』
 よいはずがない。イワンは所長のグリズリーのような容貌を思い浮かべ、少し不快になった。
『…まあよいはずもあるまいがね。しかし、だからと言って私を恨まんでいただきたい。残念なが
ら、こちらも居心地のよい場所ではないんだ。私も、副所長のマルコ君も、人質なんだよ。今、首
の後ろの銃口に怯えながら喋っている訳さ』
 オグドンの声は投げやりで、それが一種の余裕のようにも聞こえる。
『何が起きたかは、まあ察してるだろう? クーデターだよ。平和利用を望まぬ輩が存外に多かっ
たと……イテッ。……イワン、首謀者は誰だと思う? 驚くぞ。君の所の赤毛の医療助手だ』
 イワンは大きく息を吐いた。その端が微かに震えていた。
 イリーナ・ヘルツシュタイン。この研究所に入る前からメンテナンスを助けてくれていたハンブ
ルク出身の孤児。長い髪を赤く染め、ソバカスだらけの顔を少しでもおしゃれに見せようとしてい
た二十七の娘。
『光栄だわ、ウィスキーさん。私のこと、随分若く見てくださってたのね』
 イリーナの声だった。彼女の声は平生と変わらず、高揚した様子も、逆に緊張した様子も聞こえ
ない。
『所長はクーデターとおっしゃったけれど、私達はそんなに荒っぽいことをするつもりはありませ
んよ。ただこれから起きる戦争に備えて隠れ、力を蓄えるだけのことです。いくら「永世中立機関」
と言え、地球上全てが混乱してしまえば、私達の存在は精々大量破壊兵器くらいにしか見られない
でしょうからね。私達、そうやって力づくで人殺しの手伝いをさせられるのは御免だし、だからと
言って、ウィスキーさん、あなたのように、あなた達九人のサイボーグ戦士のように戦うのも、ち
ょっと釈然としないんです。私達、今は死にたくないの。
 「キリエ」を殺してしまったから届かなかったでしょうけれど、つい今し方004、アルベルト・
ハインリヒから通信が入りましたよ。部下のサイボーグ達が離反したそうです。彼は関わっていな
いけれど、周囲によって無理に頭目にされてしまっています。これから離脱してこちらへ向かう、
と。それが二分三十秒前。それを狼煙に、世界各国でサイボーグ部隊が反旗を翻しましたわ。次か
ら次へと通信が入ってきています。一番激しいのはアフリカですね。008…ピュンマからの通信
が今入りましたよ。彼も、単身離脱を試みるそうです。
 ……ね。彼らは力があったから一歩先に行動を起こしました。彼らは戦いますが、私達は逃げま
す。別に戦いたくはないから。静かに暮らせるのならば、どこか別の世界に私達の世界を築けるの
ならば、もうそれで帰ってくるつもりはありません』
 力強く言われる「私達」という言葉。どうやら所長と副所長を人質にほとんどの人間がこのクー
デターに加わっているようだ。それでは彼女は? 彼女は無事なのか?
『エトワールのことを心配していますね。それもそうでしょう、彼女はあなた達の「星」だから』
 エトワール。ジョーが祈り、フランソワーズがつけた名だった。新たな世代へ平和を、そして光
を。そう願われつけられた「星」という名。同時にパリ・オペラ座の最高位にあたる名。それはバ
レエダンサーを母に持つ彼女に相応しい名だった。
 エトワール。イワンは心の中で呼びかける。エトワール!
『聞こえてるわ、イワン』
 その時イワンは、思わず胸元を握り締めていた。
 それは聞き慣れた彼女の、エトワールの声だ。
 同時に全く異質の声だった。彼女は澱みなく、完璧なロシア語でイワンに語りかけていた。
『怒らないで聞いてね。イリーナ達は私を人質にしたいんじゃないわ。私が、彼らについて行くこ
とを決めたの。私の子孫を残すために。私には子孫が必要なの。分かるでしょ、イワン』
 それは同時に未来の人類の祖になるという意味か。
『そうよ。人類のためだなんて言うのは、まだ恥ずかしいけど、結局そういうことになるの。その
ためにはここにはいられない。もう少し平和な場所に行かなきゃ』
 エトワール!
『イワンが自分の声で私の名前を呼んでくれるの、楽しみだったけど……。あのパステルカラーの
ワンピースを選んでくれたのはあなたよね、イワン、大好きなお兄ちゃん』
 涙が流れていることに、イワンは気づかなかった。彼は暗闇の中で目をこらしていた。その目か
ら一筋だけだが、確かに涙が零れ落ちた。

          *

 ドルフィン号は国境で待機を余儀なくされていた。入国許可を待ってもう一週間になる。よくあ
ることではあるので、張々湖とジェロニモは気長に待つことにしていたが、昨日から続く言いよう
のない不安に、妙にあの戦いの日々に感覚を呼び起こされ、防護服で操舵室にこもっていた。
「ホンマ、何なんやろか…」
「分からん…」
 何度繰り返したか分からない遣り取りの後、不意に通信回路がざわつきだした。
『張々湖小父さん、ジェロニモ…』
「…通信、専用回線アルか?」
「いや、違う。……テレパシーだ」
 ジェロニモが確信持って言った直後、はっきりとした言葉が頭の中に響いた。
『よかった、届いたのね。初めて試すからドキドキしちゃった』
「お…おまはんは……」
『エトワールよ。ちょっと長いお別れになるから、さよならを言うために、こうやって……。他の
皆さんも聞こえますか。グレート小父さん、ピュンマ…、ハインリヒ! さよならを言いにきたの』
「さ、さよなら、て……?」
 張々湖は助けを求めるように、辺りをキョロキョロ見回した。ジェロニモは目を瞑って、耳を澄
ますようにしている。
『聞いて、張々湖小父さん、ジェロニモ。この前、トマトをたくさんもらったわね。あの砂漠で最
初に成功させた野菜、トマト。あれはママが離乳食に料理して食べさせてくれたわ。とても美味し
かった。ありがとう。二人の愛情を感じました。張々湖小父さん、火を吹くのは吃驚しちゃった。
でもとても楽しかったの、ありがとう。ジェロニモ、ありがとう。高く抱き上げてくれた、肩に乗
せてくれた。忘れないわ』
「エトワール!」
 張々湖が叫んだ。
 しかし返事はなく、後は砂嵐のようなノイズが流れて、消えた。

          *

『ピュンマ。あなたが話してくれた海のお話。どんなデータベースで勉強しても、あなたが話して
くれたのが一番楽しくて、一番美しくて、私、一番好きだったの。一緒に海に行きたかったな。で
もね、私、いつでも夢の中の海で泳げるわ。ピュンマのお蔭よ。ありがとう。素敵なドルフィン、
さよなら』

          *

『グレート小父さん。聞こえますか。慰問団に加わることを一番最初に話してくれたのは、私にだ
ったのよね。小父さんは私がまだ喋れないからって思ってたのかもしれないけど、私はとても嬉し
かったわ。私が生まれて初めて持った秘密。指切りげんまんで約束したわ、小父さんがサーカスに
入ること誰にも言わないって。今でも守ってるわ。ずっとよ。さよならするけど、私ずっと守るわ』

          *

『アル! 最後だからアルって呼ばせて。ママがあなたのことを「アル」って呼ぶのに、ずっと憧
れてたの。アル、色々ブツブツ言ってたけど、私に優しかったわよね。私、アルのこと、ちっとも
怖くなかったよ。アルが優しいの、解るもの。頭を撫でる手、抱き上げてくれる手、どれも優しか
った。アルの手が、私、大好き。……あ、それと、パパジェットのことをお願いします。助けてあ
げてね。撃墜されちゃったの。位置は、このテレパシーと一緒に情報を送ったわ。パパジェットを
お願い、ね、パートゥーシュカ(小父さま)』

          *

『パパジェット、今は聞こえてないわね。私よ、エトワール。通信回路のメモリにうまく残ればい
いんだけど。パパジェット、さよならなの。パパジェット……、色々ありがとうを言いたいんだけ
ど、ええっと、クリスマスプレゼントとか、ハロウィンとか……。パパジェット。パパジェットは
やっぱり私のパパだったわ。パパなの。あなたは私のパパ。パパジェット……、パパ、大好き!』

          *

『ママ。突然ごめんなさい。ママ…、離れるのは凄く…淋しいんだけど、でも、ごめんね。ママ、
せめてママが帰ってくるまで待っていたかった。でも、もう駄目。ママ、勝手に行ってしまうの、
ごめんなさい。ママ……、生んでくれてありがとう。愛してくれてありがとう。ママ、私も愛して
るわ。ママ、愛してる。ママ、ママ、愛してる』

          *

 呼び起こされる。
 覚醒は一瞬だった。見開いた目に突き刺さる強いライトの光。背中に感じる固い診療台の感触。
そして知覚と共に感じる意識のブレ。何だ。何が起きた。ここは何処だ。今は、何時だ。僕は何を
していた。
『009』
 頭に響くその声は、日本語で優しくジョーを「ゼロゼロナイン」と呼んだ。
『009』
 よく見ると工学実験室のような場所に寝かされている。ここは…過去来たことがある。合衆国の
軍事基地に似たような施設があった。部屋の隅では白衣を着た男達が驚いて後ずさり、慌ててコン
ソールに向かったり、マイクに向かって何かを叫んでいる。まだ起動操作はしていないぞ!
『009、すぐに逃げて』
「君は……」
『エトワール』
 ドアの向こう、通路を武装した兵士達が走ってくるのが分かる。
『急いで!』
 奥歯のスイッチを押すと、懐かしい感触と共に周囲の動きが止まる。彼は反対側のドアから飛び
出し、幾重に巡らされた廊下を渡り、階段を駆け上がり、窓から外へ飛び出した。加速を解き、思
わず立ちすくむ。
 そこは見慣れない建物が並ぶが、空気は変わらない。ニューヨークだ。ここはニューヨーク。ジ
ョーは空を見上げた。爆撃機の影はないが、低く垂れ込めた空は思い出せる一番最後の空よりどす
黒く、ひっきりなしに灰が降っている。
『009、ジェットとした約束を覚えてる?』
「覚えてる…、カルヴァリー墓地だ」
『そうよ。早く行って』
「教えてくれ、エトワール。今は何時なんだ」
『今日は2101年9月2日』
「……2101年。……そうか。三歳になったんだな」
『……うん』
 ジョーは再び加速し、東へ向かって走りだした。
「エトワール、君は今、何処にいるんだ。迎えに行かなくちゃ…」
『ううん、いいの。今は仲間の、ゼロゼロナンバーの人達が危ないわ。急いで』
「でも、エトワール…」
 ジョーの喉が不意に塞がった。声に出来ない言葉を彼は歯の奥で噛み潰す。
 君は、僕の子供だから。
『009』
 エトワールの声は静かに響いた。
『ありがとう、お父さん』
 それが、最後の声だった。

          *

 その後、俺達は見た。
 皆が見ていた。北の方から雲を割るように空が晴れてゆくのを。
 ニューヨーク・カルヴァリー墓地の009が、喜望峰で船に密航した008が、ルート66を巡
回トラックで移動していた007が、ドルフィン号でイワンの元に向かおうとしていた005と0
06が、一人戦闘機を奪い部下だったサイボーグの追っ手を振り切ろうとしていた004が、防護
服も着ずたった独りで俺を探しにジープを走らせる003が。
 俺も見た。消えそうな意識の中で、爆音とともに屋根が吹っ飛ばされ、そこから覗いた青空を。
 皆が見た。スラムに生きる子供達。シェルターから外の様子をカメラで伺っていた金持ちども。
離反したサイボーグ達。武器を奪われ呆然と立ち尽くす人間の兵士。皆がその時、数十年振に出会
った空に心を奪われていた。
 ある人間は奇跡の日と呼ぶ。始まりの日、再生の日、呼び名は多くある。俺にとっては、寝てる
間にエトワールとさよならしてしまった間抜けの日だ。
 その日、俺は003と004によって救出された。俺の撃墜された近辺では戦争が起こり始めて
いた。きっかけは、恥じても恥じ足りないが、俺だ。ゼロゼロナンバーサイボーグがいきなり飛ん
できたということで、一気に緊張状態に陥ったのだ。俺は、落ちた近くの基地に拘留されている所
を004に助けられた。003の運転するジープに揺られ数時間走った所で、急に光に包まれた。
気が付いたらドルフィン号の中だった。そこには懐かしい顔がちゃんと六人集まっていた。
 俺達は少しだけ安堵した。そして諸手をあげて喜びはしなかった。出来なかった。
 001が気を失いながら、外を指さした。俺達は黙ってそれを見た。日も暮れ、暗くなり始めた
空に月が浮かんでいた。
 その時起きた現象は、人工衛星が詳しく撮影していた。ユーラシア大陸北部の一点から広がった
晴れ間は、その後物凄い勢いで南北に広がり、地球を一周する一本の帯となった。空の帯はその後
世界に同時多発的に広がり、現象が始まって半日後、世界中の空に青の線を描いて止まった。
 空の復活。太陽の復活。それはエネルギーの復活であり人間の生活の復活だと喜びのニュースが
駆け回ったが、喜色のムードはすぐに沈静化する。急激に射した太陽の光にショック死を起こす人
間が続出したのだ。長きにわたりその光を忘れていた人間の体は、空から射す眩しい光を毒にして
しまった。
 戦争は止まった。止まらざるを得なかった。人間は戦うことが出来なかった。今地上で日の光を
恐れず動くことが出来るのはサイボーグ達だけだった。
 人間とサイボーグは協定を結ぶ。2104年のことだ。労働力、生活力の中心はサイボーグとな
り、彼らのサポートによって人間は太陽の下の生活を取り戻すためのリハビリを行った。俺達もそ
の主力となった。サイボーグ同士のサポートも必要だった。心を持った者、心を持たない者、それ
なりに問題や悩みがあった。「協力」という言葉が盛んに叫ばれた。一体感の持てた時期だった。
人間、サイボーグという区別なく、それは実感された。しかしサイボーグの存在はまだ法的な力を
得ていなかった。
 再び対立が大きくなるのは2300年代に入ってからのことだった。その頃になったようやく人
間は本来の力を取り戻してきた。随分時間がかかったようだが、俺は進化や適応はそう易々とされ
るとは思ってないし、それに噂ではあるがサイボーグが適応を遅らせるよう仕組んだのではという
ことも、あまり責める気持ちはない。事実この二世紀間は平和だったのだ。
 自分達が作り出したものに支配されている、という人間の感覚は、彼らが持つ力に比例して強く
なり、やがて憎しみへ変化した。パートナーの関係は解消された。
 2439年8月15日午前0時、世界中で火蓋が切って落とされた。俺は009とともにベッド
から飛び起き、防護服をまとって外へ出た。あいつと寝ていて、安らかな夜を過ごしたことは、結
局最後までなかった。ただ喧嘩別れにならなかったのが救いだ。
 あいつと寝たのは三度目だった。004への疚しさに俺がためらうことも、痛みにあいつが拒絶
することもなかった。それは最初で最後だった。
 009の遺体は半年後の冬の最中に発見された。あいつは五体満足のまま、何処にも傷を負わな
い全き姿で「機能停止」していた。結局原因は解明されていない。心臓死、脳死が五回のテストと
実験により確認された。
 残された身体を巡ってはあちこちで取り合いや議論があったが、結局俺達はかつてギルモア邸の
建っていた場所へ、あいつを葬った。そこはもう地形が変わり海の底になっていた。だから海の底
へ葬った。星の綺麗な場所だ。俺はまだ一度も、そこを訪れていない。ただ、たまに夜の空を見上
げる。
 2441年、フランソワーズが妊娠をしたというニュースを戦地で聞いた。俺は004と一緒に
前線にいた。人間が開発したマッド・マシンの改良型と戦っていた。
 最後の記憶は同じ年の11月8日。海面の上昇により水没した都市の廃ビルから、俺は飛び立っ
た。天候は曇り。灰色の重い雲が空を覆っていた。冷たい風が吹き付け、水平線の際が僅かに朝焼
けに染まっている。その強烈な赤が不吉に感じたことを覚えている。004から指示が出た。何と
言われたのか正確には覚えていない。高度を上げようとして上を向いた。その時見た赤い光。それ
が最後だ。

 2446年2月23日、俺はガラパゴスに新設されたイワンのESP研究所へ向かった。飛行機
の中で俺は何度も手の中のメモを読み返した。
 俺には、この5年間の記憶が全くない。なんとか覚えた事実によれば、俺は脳に障害を負い、こ
れ以上の記憶が出来なくなってしまったのだ。短い時間のものなら覚えている。しかしすぐ忘れて
しまう。喋っている最中、食事をしている最中。いつの間にか知らない場所を飛んでいて、どうし
たらいいのか途方に暮れたこともあった。そして帰ってくるのは、2441年11月8日の朝。
 以前の記憶はちゃんとある。俺を診たサイボーグ専門医の言うには、海馬という部位に損傷を負
ったため、このようなことになったのだそうだ。短期記憶が維持出来ない、とメモには書いてある。
 真っ青な空と真っ青な海。その間に剥き出しの大地が広がっている。イワンは清潔そうな短い白
の上下を着て、俺を出迎えた。半ズボンの裾から伸びる細い足。半袖から剥き出しにされた細い腕
に、襟元の細い首筋。不思議なくらいに色が白い。そして前髪から見えかくれする不思議な色の目。
 イワンはもう自分の足で立つことが出来るようになっていた。彼は、おそらく俺に話すのは何度
目かになる説明をした。2440年前後を境に身体に微妙な変化が生まれた。成長が医療関係者に
より正式に確認されたのは2443年に入ってからのことで、現在三、四歳程度にまで成長した。
しかし、普通の人間より成長スピードは遅いという。
 物々しい機械に囲まれたベッドに、俺は身体を横たえた。イワンが説明をした。他人の視覚情報、
聴覚情報、その他を元に、幾つか重点的な記憶を再構築し、直接脳に埋め込む。このような試みは
君が初めてだから、正直、他の研究者達にとっては実験的な部分もある。今ならやめることも出来
るけど。
 俺は首を振った。
 ライトが消された。辺りは真っ暗だ。外側に向いていた感覚が一つ一つ遮断されてゆく。身体が
冷たくなってゆく。そして内側から湧き上がる感覚が一つ一つ姿を成してゆく。
 2442年5月16日、フランソワーズが男の子を出産。名前は「丈」。人工授精技術を用いて
の島村ジョーとの子供。どうやら親父似のようだ。
 2445年1月1日、終戦。大きな要因は人間側の譲歩。全世界的な戦争はここに終結し、半年
後の6月第1回の協定が結ばれる。ピュンマの尽力があるのだ。彼は議員になった、今年に入って
からのことだ。世界初のサイボーグ議員だ。
 目まぐるしく変わる日付。流れ込む映像、言葉、声。行方知れずのグレート・ブリテン。活動を
再開したジェロニモと張々湖。今度は太平洋の島々に真水を取り戻す実験に各国と共同で取り組ん
でいる。中国の砂漠の畑は、少し小さくなったけど元気だ。たくさんの人がそこで働いている。
 未だに前線暮らしのハインリヒ。何度もニューヨークの俺の部屋を訪れている。俺はカルヴァリ
ー墓地へ行った。二人で行った。ギルモア博士の墓には、俺の刻んだ文字が残っていた。『ESP
研究所へ ジェット』。俺は日付を書き忘れていたんだ。
 ギルモア博士、あんたが死んでから五百年が経とうとしている。博士、報告があるんだ。戦争が
終わったんだってよ。今、ハインリヒが最後の火消しに回ってるところだ。俺? 俺は今、何も出
来てない。博士、もう一つ報告が。009は、ジョーは死んだよ。あんたの家があった、あの海の
底に眠っている。博士、仲間が一人、そっちへ行った。
 ハインリヒ! お前は無事なのか? 最後に部屋を訪れた記録は2445年6月30日。あれか
ら半年が経った。どうして会いにこないんだ、ハインリヒ!

『血圧上昇。心拍数145。一時実験中断!』



 波の音が聞こえる。息をするたび、身体がベッドに沈み込むような感じ。こんなベッドには慣れ
ていない。ギルモア博士が俺達のために用意してくれた部屋だから文句は言えねえけど。確かに…
気持ちいいもんなあ。撤回撤回、文句なんてありません。
 波の音が聞こえる。重ねて、窓枠の軋む音? カーテンの揺れる衣擦れの音? 窓を開けて寝た
記憶はない。
 記憶。
 目が覚めた。少し汗をかいていた。息が早かった。機械の心臓が強く打つ。ゆっくりと目を開く。
暗い。すぐに順応した。薄ぼんやりとした輪郭。広い部屋の、端のベッド。病室だ。窓際。カーテ
ンが揺れている。窓が開いている。木枠作りの、古風な作り。見えるのは空だけ。鼻をくすぐる潮
の匂い、波の音が、海の側の施設を思い出させる。イワンのESP研究所、ガラパゴスに新設され
た。
 覚えている?
「よう、死に損ない」
 低い声が響いた。窓の側に人影。締まった身体に、暗い色の服を着て、両手はズボンのポケット
の中。銀髪、こちらを見下ろすニヒリスティックな視線。かつて何度も口づけた薄い唇。
「あんたもな」
 出たのはたった一言なのに、無様に嗄れていた。
 すると、そっと手が伸びてきて俺の頬を撫でた。機械の手だった。微かに硝煙の匂いがした。前
線から飛んできたのだ、きっと。
「ハイン…」
 何とか名前を呼ぼうと喉を開く。
「ハインリヒ……」
 すると奴は、しっ、と人差し指を俺の口に当てた。その冷たい指にキスをする。
 涙が出た。
 ハインリヒはベッドの端に座ると、俺の頭を撫でた。頭には包帯が巻かれていた。その上を、触
れるか触れないか程度に、奴は優しく撫でた。そしてゆっくりと首を巡らし、見ろ、と囁いた。綺
麗な月だ。
 綺麗な月だった。銀色に輝き、濃紺の空を気持ちよく照らしていた。静かな月光。俺は思い出す。
色々なことを思い出した。思い出すと、また涙が溢れる。俺はそれを隠さなかった。赤ん坊が涙を
隠さないように、俺は涙を隠さなかった。それ程、泣くことが心地よかった。
 ハインリヒは月を眺めながら、黙って俺の頭を撫で続けてくれた。


END





黎明と春鮫による合作『2099その後』

『春鮫さんに愛を込めて』
送ってもらった13枚のA4用紙に頭が下がる思いがしました。
……原因を作った人間の言うことじゃないかもしれませんが(汗)。
まともな文章が書けないくせに発想だけはでかい私の案に乗ってくれた上に、
私の没ネタまで救ってくださって…!!
ユカさまのリクエストに添っているのか甚だ不安ですが、
ぜひお納めください。
感想などいただけると黎明は狂喜いたします。
                               2003.2.26 黎明


黎明さん曰く「レジェンド・オブ・サイボーグ」。

書いている間、次のような作品に影響をうけました。

津守時生 『喪神の碑シリーズ』(角川スニーカー文庫)
デイヴィッド・ファインタック『銀河の荒鷲シーフォート・シリーズ』(ハヤカワ文庫SF)
清涼院流水『カーニバル―人類最後の事件』(講談社ノベルス)
映画『タイムマシン』(原作・H.G.ウェルズ)
映画『ターミネーター2』
最近の国際情勢(汗。作品じゃないし)

そして『mono』の蚕さまによる『2500』。

実はSF初挑戦だったような……。
もう色々と粗がありますけれど、見逃してください。
                               2003.2.24 春鮫


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