ムーン・コール


 何か料理をしようと思って買った筈の買い物の中身を冷蔵庫に詰め込んで台所で一杯の水を飲むと、それだけで満足してしまってなんだか夕食を作る気が失せてしまった。
 なんのためのタイムセールか。なんのための半額のかぼちゃか。しかしめんどうくさい。もう、そういうモードに入ってしまったのだ。
 めんどくせー。ナンバーズ96は心の中で呟く。
 別に腹が膨れればなんでもいいのだ。一番手間が少ないのはなにかと考え、冷蔵庫の中の飯に茶をぶっかけることだろうなと思う。漬け物なら春からもらった梅干しがある。もうそれでいい、それで。
 だらだらとした時間が降りてきた。夕闇と共にそれは部屋を満たし、ナンバーズ96の心を侵蝕する。飯を作るのが面倒で、もっと楽しいことを探していたはずなのにそんなものはどこにもなくて、床に落ちていたテレビのリモコンをつま先で弄るが、ニュース番組ばかりだ。どのチャンネルを回してもキモノ姿が目につく。春がいつも来ている服だな、と思う。随分派手で、髪型も相当だが。
 目の端で光がちらついた。なによりも速く、ナンバーズ96はそれを察知した。Dゲイザーの光。それに反応した次の瞬間、着信音が聞こえて電話かと思う。音で分かる。遊馬だ。
「なに」
 不機嫌そうに出る。実際、上機嫌ではないので。
「お前今どこ!」
 慌てた遊馬の声。
「家」
「外見てみろ、外」
「外?」
「月を見ろよ!」
「月ぃ?」
 台所の窓は波ガラスだ。ベランダ側まで移動して空を見上げたが、西の空には何も見えない。
「見えない。もういいか、オレは今から飯を食うんだ」
「バッカお前無精すんなよな、どうせ部屋の中からしか見てねーんだろ!外出ろよ、そんで見ろ!」
「なにをそんなに興奮している」
「いーからさ!絶対お前も好きだから!」
 遊馬は通話を切らず急かし続けるので、ナンバーズ96ものろのろと玄関に向かう。遊馬の声がめんどうくさい空気を打ち破り始めている。
 アパートの通路からはビルに遮られて見えなかったので、通りまで下りた。
 十字路の半ばでそれは見えた。
 東の空に、それは昇っていた。触れれば縁で皮膚を裂かれそうなほど丸く、驚くほど赤い。
 丸い月なのに手が切れそうだと思ったのは、それが平たく見えたからだ。丸く、平たく、真っ赤な月。
 本当に赤い。夕陽の赤とは違う、真紅だ。周囲の空まで赤い光が広がっているのが見えた。
 亡霊のように赤い。ふと、そう思った。
「見えたか?」
 Dゲイザーから遊馬が叫ぶ。
「見えた」
 ナンバーズ96は短く、落ち着いた声で返す。
「絶対お前好きだと思ったんだよ、こういうの」
「何故だ」
「え?」
「何故オレがこの風景を気に入ると思った?」
「そりゃあ……」
 今度は遊馬が黙り込んだ。しばらく沈黙が続いた。
「なんか…そう思ったから…」
 遊馬がそう答えるまで月を見上げていた。少しずつ月は昇る。色が薄くなってゆく。もう赤ではない。オレンジに近い。円の縁に感じた鋭さも少しずつ消えて行く。
「昔、こんな月を見たのか?」
 Dゲイザーの向こうは再び黙り込む。
「オレたちは見たのか?」
「………さあ」
 オレンジ色の満月を背にナンバーズ96はアパートへの道を帰る。
「遊馬」
 今度はナンバーズ96から話しかける。
「今どこだ」
「家」
「夕飯を食いに来い」
「えー、もうばあちゃん作っちゃったよ多分」
「じゃあおかずを一品手土産に持ってこい」
「なんだよもう」
 そう言いながらも多分、遊馬は来るだろうから、とナンバーズ96は階段を上りながら考えた。半額のかぼちゃで何を作るつもりだったか…、まあいい、今からでもレシピを検索すれば解決だ。
 絶対に来い、と言って通話を切った。月はビルに隠れた。扉を開けるとアパートの部屋は暗かった。ナンバーズ96は電気を点けて、人を迎える光の明るさを取り戻した。






LOVELOVEデストロイヤーズだった別の世界で、一緒に見たじゃないか