君の色と私の色 遊馬がくれた。 遊馬が選んだ。 遊馬の色、赤い腕時計。 私の手首で時を刻む、君の色をした時計。 何が欲しいの、と問う。声は優しい。笑顔も。何でも欲しいものを買ってあげるよ。腕時計はどう?そんなおもちゃみたいなのじゃ壊れちゃうし似合わないよ。もっといいのをつけなよ。きっと似合うよほら、と指さしたショーウィンドーの中できらきらと光るそれは、文字盤の上に数字はなく、四カ所に小さなダイヤが嵌め込まれている。アストラルはその小さなダイヤに心が重くなって、思わず一歩後ずさった。 「アスちゃん?」 「いらない…」 なんだか急に疲れが襲ってきたかのような腕と足の重み。 「いりません」 踵を返そうとすると手首を強く掴まれた。おもちゃのようと言われた赤い腕時計。喉の奥で熱い息が溜まる。遊馬に今すぐ抱きしめられたい。 振り払おうとしたが、掴む力は痛いほどで、手首を捻った。 人ごみを縫って走る。手首が熱い。痛みが熱となって襲う。遊馬とこぼすより早く、目からは涙がこぼれた。 「親切心だなどと言うのは偽善だな。俺は善行を行いたい訳じゃない。これはれっきとした娯楽だよ、君」 老紳士は自分よりまだ少し背の低いアストラルを横目に見下ろした。 彼の言葉は率直だった。老いた男は悪ぶるでなく、悪びれるでなく、自分の性というものを受容して恐れていないのだった。それを清らかなアストラルに知られることさえ。 「綺麗な君が見たい」 老人はショーウィンドーの中に視線を遣る。細い腕時計。文字盤の上で一つだけ輝くダイヤ。細い金色の針が時を刻む。それを見つめるアストラルの姿も映っている。 「純然たる娯楽でもある。不思議なほどに悪意がない。金とはこうやって使うものだったかね?」 「私は…」 「断るのも自由だ。俺は我が儘を言いたいだけだからな」 老紳士は微笑む。今日は指先一つ触れられていない。アストラルは手首の赤い腕時計を見下ろした。ショーウィンドーの中の時計と同じ時間を刻んでいるはずなのに、まるで別世界のような午後四時。 ぬっ、と。 手が伸びた。見慣れたバングル。アストラルの目の前で火花が弾ける。振り向く間もない。 「アストラル!」 背後からアストラルの腕を掴んだ遊馬は言った。 「俺達もう帰りますので」 低い声で丁寧な言葉を吐き出し、ぐっと腕を引く。まるで別人の声に聞こえた。遊馬に引っ張られながら、アストラルはちらりと後ろを振り向いた。ショーウィンドーの前に彼はいる。彼はアストラルを見送り、悪戯っぽく片目をつむってみせる。 「遊馬」 遊馬は返事をしなかった。 「ゆうま…!」 目の前を横断歩道に遮られとうとう足が止まった時、遊馬が急にアストラルを抱きしめる。 「えっ…」 「今あいつが追いかけてきても、返さないからな。オレ絶対離さないからな」 怒ったように遊馬は言った。 「…ああ」 アストラルは潰れそうな胸の奥からそっと返事をした。息が震えていた。信号が変わったのが見えたが、アストラルは遊馬の背に腕を伸ばして強く抱きしめた。 記憶力はいいからこんな顔がいたとアストラルは覚えてはいたのだけれど、ここまで認識したのは初めてだった。それが満員のモノレール内というのはタイミングの悪いことだ、と頭の片隅で思う。真横に立つ彼のフレグランスが強く、アストラルは顔を背ける。 「なんでそんな顔してんの?」 学生は小声で話しかける。 「まだ昼じゃん。もう帰りたいの?土曜日だよ?遊んでこーぜ」 手を、握られる。冬の雨のせいか、モノレールの暖房のせいか掌が少し湿っていて、アストラルの背中に一瞬ぞっとしたものが走る。 もうすぐ駅だ。下車駅はまだ先だが、ここで下りる。人波に乗れば…。 「帰るなよ」 急に低い声で男が言った。アストラルは身動きができなくなった。顔を上げることもできない。この車両内にいるはずの遊馬を探すことさえできなくなった。 「逃げようとかさ、考えんじゃねーよ。折角正面から会えたんだろ、俺たち」 指が手首の内側を滑る。腕時計に触れる。指先は器用にそれを外しにかかる。遊馬と一緒に買った腕時計。遊馬の色の。 遊馬、遊馬。 時計が外れて落ちたのが分かった。アストラルは床の上に視線を走らせる。赤い色のバンドが一瞬映って、それは隣の靴に強く踏みにじられた。 ブレーキの音。モノレールが止まる。駅の名前が繰り返しアナウンスされる。ドアの開く気配に人が動き始める。しかし男が手を掴む力はいよいよ強くなる。 「帰らない。だろ?アストラル」 ドアが開く。人波はホームに向かって出て行くのに、アストラルはその流れに乗ることができない。断絶されている。暖房の息苦しさが気持ち悪さに変わる。 その時、腕時計を踏みにじる靴の上を、更に見慣れた靴が踏みしめた。 と同時に呼ぶ声。 「アストラル!」 急に呪縛の解かれたかのようにアストラルは顔を上げた。 「はぐれないように手繋いどけって言っただろ」 遊馬が目の前で笑っている。笑顔で言いながらも遊馬の足はぐりぐりと学生の靴を踏みにじる。学生は声を出さず、形相を歪めて遊馬を見下ろす。その痛みと憎悪の隙に手が緩んだ。逃げ出したアストラルの手を、遊馬が素早く掴んだ。 「下りるぜ」 「いいや」 アストラルは顔を上げ、学生を睨みつけた。 「ちゃんと次の駅まで行こう。私たちは家に帰るんだ」 それを聞いた遊馬は、うん、と返事をし足をどかした。 「じゃ、前の車両に行って運転席見ようぜ」 隣をすり抜けるまでアストラルは浮かべた強い笑みを崩さなかった。 さすがに隣の車両についた時には遊馬の手を両手で掴み、泣きそうになってしまったけれども。遊馬が泣くなよ、と行ってくれたので、少し笑った。
金持ち俺さん、老紳士俺さん、チャラくてゲスい俺さん(略してチャゲさん)
|