家族内恋愛未満




 掃除をして妙にがらんとしてしまった部屋で、一日陽の光を浴びていたラグの上に身を伏せ遊馬は気持ちよさげに目を伏せる。
「遊馬、遊馬」
 二度繰り返して呼ぶその声は、あいつの声だけれどもあいつではない。遊馬が瞼を開くと黒いタイツの足が見えた。
「なんだよ、クロ」
「クロと呼ぶな」
 つま先が遊馬の腹をつつく。
「階下の掃除は終わっていないからと、この俺が呼びに来てやったのだ」
「もうほとんど終わってたじゃん」
 文句を言いつつも遊馬は立ち上がる。
「どうせ姉ちゃんが散らかした分なんだろ?」
「あの女が、掃除を完遂しない者には蕎麦を食わせないとさ」
「姉ちゃんのことをあの女って言うな」
 遊馬はくしゃくしゃになったエプロンをはたき、仕方なく96の後に従う。
 ふとその後ろ姿に、視界が揺れるような気がした。
 こいつはほんの一年前まで、アストラルの記憶の一部で、破壊衝動の塊で、物騒で迷惑でどうしようもない奴だったのに、目の前の背中は人間のそれだ。全ての物語が終わってしまったと思っていたその後、アストラルが戻ってきた時には本当に驚いたけれども、まさかこいつまでやって来るなんて。
 ぎゃんぎゃん文句ばっかり言ってたのに人間の世界に馴染んだなあ、と洋服とエプロン姿の似合ってしまっている背中に思う。白いうなじに黒髪。ばあちゃんが着物を着せてみたいって言った時は何言ってんだろうと思ったけど、黙ってれば本当に似合うのかも。
 しかし上手く想像できなかった。
「遊馬」
 階段を下りながら96が呼ぶ。
「初詣とやらに行くのか」
「あぁ、うん。小鳥と鉄男とも約束したし」
「アストラルは?」
「一緒に行くって」
 後ろから下りてくる遊馬を見上げていた瞳が軽くそばめられ、96はぷいと前を向く。
「え、なに、誘ったじゃんオレ」
「そしてオレが断った」
「そうだよ、お前の方から…」
「だから一人で行く」
「もー!」
 遊馬は思わず手を伸ばし96の肩を掴んだ。
「意地張るなって」
「…お前はオレがどういう存在だったかを、よも忘れた訳ではあるまい」
「難しいこと言うなよ。お前の腕はもう伸びないし、うねうねした気持ち悪い触手だって出ないし、ナンバーズももうないんだぜ?」
 目の前のリビングを二つの太陽による夕陽が明るく照らしている。階段を下りかけた96のつま先も、そのぬくもりの中に踏み出しかけていた。
 96は遊馬の手を振り払い残り数段を下りてしまう。
「クロ!」
「だからクロではないと…」
 遊馬は階段の影の中に96の半身を引っ張り込み、その瞳を見つめた。
「オレはお前と一緒に行くの楽しみだぜ」
 遊馬はポケットに手を突っ込み、赤いリボンを取り出す。掃除の最中に見つけた。今年のクリスマスプレゼントを包んでいたリボンだった。
 それを96の首にまわすと軽く結ぶ。
「…なんだこれは」
「目印」
「躾の悪い犬への首輪ではないのか?」
「そんな言い方するなよ」
 白いうなじに赤いリボン。
「似合うぜ」
 遊馬は96を追い抜いて掃除の難航している姉の元へ向かう。明里とアストラルが怠けていた遊馬を叱責する声が聞こえた。96は思わず笑い、ふと真顔になる。自分が笑ったことが不思議で、むず痒かった。
 リビングの鏡を見る。首のリボンは縦結びになっていてお世辞にも上手なリボン結びとは言えなかった。96はそれに指を伸ばした。
 が、リボンを解くことはなかった。指先は硬い結び目の上を撫でただけだった。
「掃除に参加するのは、仕方ない」
 96は息を吐き、三人の騒ぐ部屋へ向かう。
「蕎麦とやらを食べてみたいからな」






2011年末