キャトル・ハート ライフ・ミューティレーション 水色の雨の下、佇んでいる。 もう恐怖はない。 灰色の地上を、青く染色された骨が行進する。この手に与えられた深海魚たち。肉はすっかり漂白され、瞳をなくした眼窩はぽっかりと明るい。そこには絶望の影もない。 魚たちの行進は続く。佇む凌牙を追い越して、水色の雨の中をしずしずと行進しつづける。 これがオレの力だった。 オレは強かった、と凌牙は思い出した。オレは全国大会に出場し、決勝まで勝ち上がるほどの腕を持っていた。誰かが言っていた。神代凌牙は頭で戦い、力で戦う。オレのデュエルタクティクスには力が宿っていた。それは美しさと表現できるものだった。こいつらがいたから。このモンスターたちがいてくれたから…。 力は今、凌牙から去りゆく。 さらば凌牙、私たちは強かった。お前は負けた訳ではない。弱い訳ではない。しかし私たちは戦う場を違えていたのだ。 回遊魚たちは水色の雨の中を永遠に周遊する。その輪の中で深海魚の骨は青い霧となって水色の雨に溶ける。 そうだ。凌牙は自分の手の甲からナンバーズの刻印が消える瞬間の、あの憑きものの落ちたような身体の軽さを思い出す。 奴らはああなるべきだったのだ。還るべき場所に還るべくして還った。 一つの時代が終わろうとしていた。 一つの事件。一つの仕事。一つの歴史。 巨大な奔流の中の凪のように、終わりは世界を満たしていた。 凪の中を水色の雨は降る。雨音は灰色の地面を何処までも沈む。凌牙は手を当てるとそれに耳を澄まし、瞼を閉じた。 オレもここで終わりを迎えるのだ。 少年時代の終わり。日常と信じられてきた現実の終わり。一つの世界の終焉。 自分と世界との狭間。 シャーク…神代凌牙という名の消失点。 ここがオレの選んだ最後の場所だ。 会いたいと思った瞬間には、目の前にその姿を見ることができる。 遊馬。 金色のオーラを纏い闇を打ち砕く暴力的なほどの光の権化。 金色の瞳。 遊馬は、遊馬に似つかわしくない冷たい微笑を浮かべている。そのウィンクには茶目っ気はなく、悪夢の果てで世界が砂になって崩れ落ちるような厳然たる現実しかない。 終焉の景色には相応しく、遊馬らしい感情を思い出せばいささか冷たい表情だった。 それを感じ取ったのか、ふ、と遊馬の口元が綻ぶ。 片方の瞼が持ち上がり、赤い瞳が凌牙を捉える。 「今のがアストラル、そしてオレだ」 「アストラル…」 「もうオレと区別なんかできない」 「遊馬…?」 そう名前を呼ぶと目の前の彼は慈愛を含んだ笑みを浮かべる。 答えてくれ、自分は遊馬だと。九十九遊馬だと。 オレを救ってくれるんだろ、遊馬! 「シャーク」 水色の雨に濡れる指先は、いつかのように肌の上でばちばちと火花を立てることもない。優しく、まるで皮膚の上で溶けるかのように触れる。 「オレはお前と一緒にバイクに乗ってどこまでも行きたかった」 「ああ…それくらい…」 「一緒に世界中を旅するんだ。ひとときだって離れない。そんな完璧な旅だよ」 「オレのバイクなら…」 「シャークのバイク、格好良いよな」 よぎる無邪気さ。遊馬が遊馬である名残。 「オレは地球の外にも旅に出る。シャーク、そこまで着いてきてくれるか? バイクを捨てても、オレと一緒に旅してくれるか?」 「勿論だ!」 「何を犠牲にしてもいい?」 「何でも!」 「その身体も?」 金色の瞳が見つめる。 「魂も…?」 赤い瞳が見つめる。 「何でも…だ!」 凌牙は息苦しさを感じる。自分の表面が水色の水で満たされていくようだ。呼吸が思い。皮膚も口も鼻も。 力を振り絞り、凌牙は訴える。 「オレはもう本当のことしか言わない。オレの科白は全て真実だ。遊馬、オレはお前を愛しているし、お前のためなら全て捨てても構わない…!」 水色の雨が身体を打つ。 舐めるように肌の上で溶ける雨。 否、溶けているのは身体だ。 溶けた身体が灰色の地面に落ちる。ぼとぼとと音を立てて、肉の塊が落ちる。 しかし凌牙には意識があり、その瞳はしっかりと目の前の遊馬を見つめていた。赤い瞳、金色の瞳と視線を絡ませ、言葉にならない思いを通わせる。 身体は灰色の道の上でシャークの抜け殻となる。手足をばらばらに投げ出して横たわる肉体は既にただの物質であり、雨に打たれて血の気を失い真っ白だった。――行進を続ける魚たちのようだ。青く染色された頭蓋骨が皮膚を透かして見えた。ぽっかりと空いた眼窩は明るく、絶望の影もない。 オレの、この瞳が見ているものは、希望。 肉体を捨て去って遊馬の望みどおりの姿となった。オレはとうとう救われる。遊馬が救ってくれる。 金色の瞳が微笑む。赤い瞳が促す。 眼球と赤い血だけになった凌牙は空を仰ぐ。 遊馬の望みはオレの望み。オレは遊馬に救われたい。遊馬はオレを救いたい。 口を開けて雨を飲む。 ごくごくと音を立てて飲み干す。 濁っていた赤い血が澄んでゆく。とてもいい気分だ。オレは救われている。今まさに救われようとしている。そうだろう、遊馬。 伸ばそうとした手はもう水色の雨と区別がつかない。 眼球からは涙が溢れ出る。次から次へと。 滂沱とはこのことを言ったのだ。なんと優しい涙だろう。こんな涙は流したことがない。オレはオレの人生の内で、こんな涙を流すことができたのだ。 愛しているという言葉を紡ぐ口はなかった。存在は言葉を超えてあり、水色の雨が震えていた。 あたたかい涙が眼球を覆う。水色の涙の向こう遊馬の姿が滲む。しっかりと見える。 遊馬、オレが恐れるものなど最初からなかった。 全ての結末はハッピーエンドだと、オレは知らなかっただけだ。 一つの時代。一つの事件。一つの仕事。一つの歴史。 オレの人生の、全て。 お前を愛した、オレの…。 ぱしゃん、と。 遊馬は瞼を開く。 夜明け前の灰色のハートランドシティは薄暗く、仄明るい。 駅前の広場は凌牙と初めてデュエルをした場所だった。 「思い出、だ」 遊馬は呟いた。 雨の降った名残はどこにもなかった。アスファルトの道路も、広場のタイルも乾いていた。 空を見上げても、水色の雨を降らせた雲はどこにもない。あるのはただいつもの、灰色をした月曜日の曇り空。 「シャーク」 遊馬は胸の中に呼びかける。 「シャーク…」 風が吹き、遊馬は顔を上げる。 宙に浮いたナンバーズのカードが輝きを放ちながら遊馬の手に収まる。 一つの事件、一つの仕事の終わり。 一人の人間の、人間としての歴史の終焉。 再生は遊馬の中にある。しかしすっかり自分と混じってしまって区別がつかず、体液のように巡る愛しさが頬に笑みを浮かべる以外、凌牙を凌牙と認められるものがない。 それは少し残念な気もして、遊馬は胸を指先で二度つついた。 ノックするように。 自分を、遊馬、と呼ぶ懐かしい面影を蘇らせるように。 出口のない愛しさは金色のオーラをまとった遊馬の、金色の瞳さえ慈愛に潤ませた。
2012.3.3
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