深海魚と回遊魚




 自分が生きるように生きていた、全ての規範と常識から切り離された記憶。
 空虚のただなかに浮かび、沈むことなく、それ以上浮上することもなく青い空を見上げていた。自分を包み込むのは密度の低い青い何かで空とも海とも区別がつかなかった。十二の春の記憶かと思う。妹がまだ自分の足で立てた頃。
 自分がどこに浮いているかは分からなかったが、見えるあれが青空とは知っていたんだな、と凌牙は長い道を歩く。
 ビルの隙間を歩いていたはずが、いつの間にか通路を踏んでいることを今更不思議にも思わない。ARに支配された街、ハートランドシティ。九龍城砦は住民さえその奥に踏み込んだことがないと言うから自分がこの街の知らない通りを歩いていてもおかしくはない。
 幾種類ものパイプが束になって天井を走る。耳を澄ますとパイプの中を何かが猛スピードで流れるらしい低い音が響いた。
 水の流れ込む音だ。ハートランドシティ中の水が滝壺に落ちるように地下へ向かっている。
 死者の魂が流れ込む音のようだ、と思った。
 何故、そんな異様な発想をしたのか。十二の春の記憶があらゆる関連を断ち切って存在しているように、今この瞬間の凌牙の生もこれまでの人生との連続性をなくし、自分がただ生存している事実にぞっとすることもできない。ぞっとするという感情は、安寧を知るからこその恐怖だ。
 生と死が混在してパイプの中を行くようだった。凌牙はそれに沿って、まっすぐと長い通路を歩き続ける。
 視界は急に拓けたのではなかった。
 拓けた空間に出たのだと凌牙はしばらく気づいていなかった。だからわずかにカーブを描きながら歩いていたのかもしれない。それは思いの外、正解の道程でもあった。
 通路は大きくカーブし、円を描いていた。凌牙は一周するのにどれだけかかるのであろう、巨大な空洞の外縁を歩いていた。壁には一定間隔で通路への入口が口を開けているが、もう自分が出てきたそれを見つけ出すことは不可能だ。
 真っ青な水が溜まっている。
 淡く発光して、水色にも見える。飲むことの躊躇われるような純粋な水の色。純粋すぎて人間には害毒となるのではないかと思えるほど。
「これが君の知りたかったもの、アストラル世界だ」
 甲高い声が空洞に響く。
 凌牙は視線を上げた。空洞の上には反重力によって浮かぶ丸い足場が。
 そこに小さな人影が。足場の影となり、下から照らす水色の水は人影に届かない。
 小さな影法師。
「なんの話だ」
 ぐわん、と声が響く。外壁に凌牙の声は鉄を打つように反響する。
「君は九十九遊馬に執着してるんだろう?」
「……お前は」
「神代凌牙、君のことは君以上に知っているよ」
「お前が、オレのなにを知ってるって?」
「君の歴史も不幸も、君がこの世に生まれ落ちてからの全てを。勿論、九十九遊馬への愛、狂気もね」
「知ったような口を利くな」
「それは理解したふりをするな、という意味かな? 僕は字義通り、君のことを知っているだけだ。理解しようだなんてこれっぽっちも思わない」
 甲高い声は笑う。
「テレビと一緒だ。トゥルーマン・ショー。僕はただ君を観察し、君を知った。君の望みも欲望も何もかもね。だからここに招いた」
 見るといい、と人影は足下の巨大な穴を指し示す。
「これこそが君と九十九遊馬を隔てるもの。引き裂くものと言ってもいい」
「…なに世界だって?」
「アストラル世界」
 この宇宙とは別の次元に存在する世界。青く光り輝く美しい世界。影法師が説明を続ける間に足下が揺れた。通路から伸びるパイプの先、穴に向かって垂れたその先端から汚水が注ぎ込まれる。汚水、ヘドロ、否ゴミの山。
 ゴミだ。
 巨大な青いプールへ投入されるゴミ。しかしゴミはどこまでも深く落ちて、そして水色の水を赤く滾らせ爆発する。
「君が見下ろしているものは水の溜まったプールじゃない。こここそ異世界への入口。僕たちは今、アストラル世界の宇宙を見下ろしているんだよ。今正に地球…このハートランドからの攻撃を受けている無辜の世界のね」
 意味が…、と言いかけて声が掠れた。
「意味が分からねえ」
「そう?」
 影法師の声は楽しそうに揺らぐ。
「攻撃を受けたアストラル世界は、自らを救うべく使者をこの地球へ送り込んだ。九十九遊馬はその使者に取り憑かれてしまったんだ」
「遊馬…? 遊馬がどうして……」
「彼はアストラルに…アストラル世界に魅入られた存在」
「アストラル…」
「君はこの光に見覚えはないのかな? 青白く発光し、水のように波打つこの流体に見覚えは?」
 水色の…水。
 水色の…雨。
 凌牙は膝をつき、口元を覆う。記憶は怒濤のように押し寄せた。
 水色の雨に隔てられた景色、触れることのできない遊馬。
 水色の雨に打たれた遊馬。遊馬そっくりの形をしながら水色の水になって溶けたモノ。
 青白く光る…雨と…水と…遊馬……遊馬の形が溶けて、オレはあの首さえ折ったことが。
 折ったことがオレは。
 ぐにゃりと歪んだ遊馬が笑って。
 雨、雨、止まない雨音。
 頭痛。
 必死に抑えていたものが喉を迫り上がり、掌で塞いだ努力も虚しく口から勢いよく溢れ出した。
 すっぱい匂い、すっぱい味。どろどろに溶けた夕食が、胃液と混ざり合い、口から無様に流れ出して。
 手を汚す。膝を汚す。胸を汚す。
 さっきまで遊馬と名前を呼んでいた口を汚す。
「はしたないぜ? 凌牙」
 嘲笑する声がすぐ頭上から降る。
 凌牙は尚も突き上げる嘔吐感に噎せながら、ぐるりと視線だけを巡らし自分を見下ろす男を見る。
 見なくても分かっていた。極東デュエルチャンピオン。
 だが見上げた顔は右目の傷から血を、瞳から涙を流しながら、己自身を嘲笑うかのような嘲笑を浮かべている。
「下がって」
 冷たい声で影法師が言う。
「君がいると話が面倒になる」
「そんなこと言うなよ、トロン」
「なら黙っていてくれよね」
 今ではデュエルチャンピオンであるはずのその男は大人しく凌牙の隣に跪く。床にまき散らされた吐瀉物で膝が汚れるのも構わず。
「アストラル世界の使者、アストラルは九十九遊馬に取り憑き使命を遂行しようとしている。即ち、この世界の滅亡を」
「…正義の味方の勧誘か…?」
「だとしたら格好良いと目をきらめかせでもして僕の言葉を聞いたかな? 凌牙、君はそうではないでしょう。君の望みは一つ。愛する九十九遊馬を手に入れ、彼と共にある日常を取り戻すことだ」
 違う?と穏やかに尋ねられ、凌牙は手摺りに掴まって立ち上がった。
「そうだ。何が悪い!」
「何も」
 トロンと呼ばれた影法師は静かに首を振った。
「それどころか僕は君を助けようと思っているんだよ。君と九十九遊馬、運命の出会いを覚えている? 君はナンバーズに取り憑かれた。そしてナンバーズのオリジナルの取り憑いた九十九遊馬と戦った。分かるだろう、君ならナンバーズの力が。ナンバーズがこの世にある限り、九十九遊馬は君の手には返らないだろう。アストラルがその邪魔をする」
「アストラル……」
「僕は君と取引をしたい。正当な取引だ」
 隣に跪いていた男が何かを捧げ持っている。赤いクッションに載ったカードの束。凌牙はそれを一枚手に取る。
 ナンバーズ。
「君にそれを貸与したい」
 影法師は事務的な口調で言う。
「君はその力を使って九十九遊馬から全てのナンバーズの力を、アストラルの力を奪い取るんだ」
「遊馬からナンバーズの力を…奪う?」
「元の人間に戻してあげるのさ」
 無邪気な声でトロンは言う。
「君の望みを叶えてあげよう、凌牙」
 凌牙はカードの束を手に取った。
 黒い縁のカード。ナンバーズ。
 胸の奥から黒い染みが広がる。ナンバーズの力に支配される感覚。闇が増幅し、己自身を見失ってしまう。
 そんなことになってたまるか。オレには遊馬がいる。宇宙人なんかに遊馬を取られてたまるか。遊馬を取り返すためならオレは…。
 右手の甲に数字が浮かび上がる。それから腕に。首筋に。頬に。額に。
 ありとあらゆる箇所に数字は浮かび上がり、強く発光した。
 意識が引きずられる。闇に飲まれる。
 胸の奥から囁く声。さあお前の闇を解放しろ、檻から解き放て。
 オレ達の力があればお前は最強の存在として何でもできるだろう。
 子ども一人取り戻すくらい、易いこと。
「違う、オレは遊馬を…」
 凌牙は手摺りを握りしめ、前屈みにアストラル世界へ身を乗り出す。胃液が、吐瀉物の残滓が、唾液が溢れ出て、美しい宇宙の一部を汚した。
「さあ、凌牙」
「さあ、凌牙」
 トロンが言う。隣に跪いた男が言う。
「君の欲望を解き放ってごらん。思うままに手を伸ばしてごらん。その強い力で、君は九十九遊馬を手に入れるんだ」
「遊馬を…」
 数字の痣はいっそう輝きを増し、巨大な空洞は光に満たされる。
「オレは遊馬を愛している…!」

 円筒形の水槽が並んでいる。
 その間を凌牙はトロンの後ろについて歩く。
 水槽の中で蠢くモンスター達。シャークドレイクのグロテスクな姿。あの大きな水槽で羽を広げているのはリバイス・ドラゴンか。もうオレの手を離れたはずのモンスターが。アシッド・ゴーレムの死骸が海底に埋もれ、その上を泳ぐのはエアロシャーク。
 ああ、と声を漏らし凌牙はその大きな水槽に近づく。
 ビッグ・ジョーズ。スカル・クラーケン。シャクトパス。
 オレのモンスター達。
「凌牙」
 トロンの声。
 トロンの姿は無数の円筒形の水槽を背にまた影法師になる。
「君の力はこっちだ。君が使役するモンスターは」
「でも、オレのデッキは…」
「九十九遊馬を手に入れるんだろう? 愛しているから」
 愛しているから。
 そう、オレは遊馬を愛するからこそ、力を手に入れなければならない。
 凌牙は一歩踏み出す。
 円筒形の水槽を通り過ぎるたびに数字が肌の上で輝く。
 右手の甲。腕。首筋。頬。額。
 身体のありとあらゆる箇所で光り輝き、凌牙に力を与える。
 そして一歩ずつ正気は失われるのだ。
 IVはそうトロンに言った。
 まさか、とトロンは笑う。
「彼は最初からそんなもの持っていないよ」






2012.3.2