昇天と冒涜




 玄関を出ると白いハイヒールが転がっていて、その瞬間理解したのは自分が全く自由であるということだった。凌牙はそれをすっかり忘れていたのだ。
 遊馬への愛を何か得体の知れないものに利用されてこの精神は散々ぐちゃぐちゃにされたものの、しかし愛情は消えていない。オレはいつでも遊馬の元へ行くことができる。
 会いに行こう。
 月夜だった。
 バイクはひとけのない通りを快調に走る。モノレールの線路に沿うような港湾道路を大きくカーブし、よく遊馬と出会う歩道橋を抜ける。そして街に入る。
 すると道は大きなカーブを描いていて、道はモノレールの線路に沿っており、ああもうすぐだと思いながら港湾道路の緩やかなカーブを走る。遊馬の姿を見かけることの多い歩道橋の下を抜けて、そして街に入る。
 その先の道は三日月のようにカーブしていて、ガードレールの向こうには港湾の景色が見える。モノレールの駅を通り過ぎたら、遊馬が通学路にしている歩道橋があって、その先の街に入る。
 とても気持ちの良い夜だ。月が明るくて街灯さえいらないほどだった。
 夜風が頬を撫でる。この気持ちいい風に乗ってどこまでも行けそうだ。凌牙は頬を緩める。遊馬を目指す道のりはなかなか到着しないのがもどかしく、楽しみな気持ちが心地良く、はやる心で空を飛ぶかのように爽快だ。
 耳元でスピーカーがノイズを立てる。
 着信。
 ノイズだけで分かる。それが遊馬からのものだと。遊馬の居る場所とここの空気が摩擦を起こす心地良いノイズ。
「遊馬」
『シャークったらまだ起きてんの?』
「お前こそ」
『へへっ。急に声が聞きたくなってさあ。あれ、ザーザー音がする。外?』
「今からお前の家に行くところだ」
『マジで? 夜中だぜ? じゃあオレ外で待ってるよ』
「なあ遊馬、これから…一緒にどこか行かないか」
『えっ?』
「乗せてやるよ」
『ほんと! やったやったやったビングー! オレ、シャークのバイクに乗ってみたかったんだよ。何用意すればいい? ヘルメット? うちお面しかねーや!』
「落ち着けよ、ヘルメットはある。気づかれないように外出とけ」
『今出るところ』
 スピーカーを通して風の音。屋根から飛び降りたのだ。
 それから軽い足音。静かな夜気の、かすかなノイズ。
『待ち遠しいぜ。早く来いよ、シャーク』
 明るい月夜の下で遊馬が期待に声を弾ませる。
 本当に、本当に気持ちのいい夜だ。
 どこまでも走れそうだ……。
 どこまでも走っている……。
 道は大きなカーブにさしかかっていて港の静かな海が月明かりに照らされていた。モノレールの架橋も白く照らされ、夜空を走る銀河鉄道のようだ。この先に駅があり、遊馬がよく通る歩道橋を過ぎれば街はもうすぐ……。
「遊馬…」
『あとどれくらいで着く?』
「遊馬、オレは…」
『オレもうずっと待ってるんだぜ』
 どれほどの時間、お前は待っているんだ?
 オレは一体どれだけの距離を走っているのだろう。
 長い長いカーブ。カーブの先は見えないのだ。曲がっているから…視界から消えてしまう…。
 カーブが終わって港湾の景色にさよならをし歩道橋の下を過ぎるとあとは真っ直ぐな道が延びていて、その真ん中に遊馬が立っている。
「遊馬…?」
 凌牙はブレーキをかけた。つんのめるようにしてバイクは止まる。
 目の前に立っている、遊馬。
「迎えに来たぜ、シャーク」
 強い光をたたえた赤い瞳が凌牙を見つめる。
『どうしたんだ、シャーク』
 耳元から声が聞こえる、はやる気持ちを抑えきれない遊馬の声。
 凌牙はゴーグルを持ち上げる。
 確かに遊馬だ。遊馬の姿をしている。いつも見るように。
 いつだってそうだ、遊馬と出会う時、遊馬は本物に見える。いや、本物なのだ。
 …偽物の遊馬などいるはずがない……。胸の中でそう呟くのは誰だ。自分か。オレの遊馬への愛は本物だ。遊馬がたとえデュエルの幽霊に取り憑かれていようとも、ナンバーズの呪いを受けていようとも、後先考えずに命懸けのデュエルに挑もうと、それでいい。それが遊馬の道だから。オレは愛の力でもって遊馬を助け出す。そんな運命から引きずり戻す。オレは現実の世界にいる。遊馬が生きるべき本当の世界に。
 しかし遊馬を目の前に凌牙の肉体は、その全身が発光を始める。彼の持つナンバーズの刻印が犇めき合い、何かを訴えるように光を放つ。
「つらい思いをさせたな」
『どうしたんだよシャーク』
「もう苦しまなくてもいいんだ」
『今どこへん? オレも途中まで行こうか?』
「オレが来たからもう大丈夫、心配すんなよシャーク」
『シャーク?』
 凌牙はヘルメットを脱ぎ捨てることも出来ないまま頭を抱える。バイクが横倒しになり、自分と遊馬との間を遮る。
「お前は…?」
 震えながら尋ねる。
「信じられないんだろう、オレが遊馬だって」
『シャーク、誰かと話してるのか?』
「そうだよな。お前は今まで何度もアイツに会ってきたんだ。あれがアストラル…オレにとってアストラルっていうのはこの後ろに浮いてるヤツなんだけどさ、シャークには見えないもんな」
『おーい、シャーク?』
「アストラルには使命があるんだよ。アストラルはアストラル世界の一部だ。オレと一緒にアストラル世界を救うために、アストラルはできるだけオレに負担がないように考えてきた。つまり…オレが気持ちよくデュエルできるように心配事をなくそうとしてくれたんだよ。オレもやっと全部聞いた。ごめんな、シャーク」
『オレの電波が悪いのか? ごめん、シャーク』
「お前のこと、苦しめて」
『シャーク?』
 遊馬と、遊馬の声…。
「……お前達は」
 凌牙は目を剥き、目の前に、そしてスピーカーの向こうに叫ぶ。
「どっちが本物なんだ!」
 膝をつき地面に伏した凌牙は苦しみの呻きを上げた。
 これは現実なのか…これが現実の世界なのか?
「…シャーク」
『…シャーク?』
「お前はその声をオレだって信じてるのか?」
『お前の目の前には何がいるんだ?』
 オレは現実の世界に生きている。遊馬を取り返すために。
「オレが遊馬だって名乗るのが、もう信じられないんだな…」
『ヤバイことになってるのか? 待ってろ、今行くからな!』
 凌牙は小さく首を振った。
「もう分からねえ…」
「また苦しめたんだな、オレが」
『待ってろシャーク!』
「オレがお前を助けるつもりだったのに…」
「知ってるぜ」
『必ず行くからな!』
 バイクを跨ぎ、遊馬は近づく。
「信じてくれ。オレは今度こそオレの意志でお前のところに来たんだ」
『今行く!』
「オレのためにお前が苦しまないように」
『必ず助けてやる!』
 凌牙は顔を上げた。
 辛そうな顔を、遊馬はしていた。
 お前を苦しめたくないんだ、と言いながら赤い瞳を潤ませていた。
「シャーク、選んでくれ」
「なに…を…?」
「お前を救うことができるのはお前が信じた遊馬だけなんだ。信じてくれって口にするのは簡単だけど……でもお前が選んでくれ、シャーク」
『もうすぐだ、もうすぐつくからな!』
 目の前で辛そうな顔をし、いつもより少し大人びた口調で話す遊馬も、スピーカーから飛び込んでくるいつものように五月蠅い遊馬の声も、どちらも偽物とは思えなかった。
 だって遊馬はオレのことを考えてくれている!
 遊馬はオレを助けようとしてくれている!
 そのどちらかをお前は偽物だと言って捨てるのか? 倒すのか? 殺すのか? そんなことはできるはずがないだろう。オレは遊馬を愛しているのに!
「オレも、お前のバイクでどこまでも走りたかったよ。シャーク」
「遊馬…」
 凌牙は手を伸ばす。
「助けてくれ…!」
「シャーク」
『シャーク…!』
 明るい月夜だった。月は水色に輝き、空に開いた井戸のように揺れていた。
 強い風がビルの谷間を吹き下ろし、景色を揺さぶる。
 凌牙のヘルメットが外れ、音を立てて道路に転げた。
 遊馬が凌牙の手をとった。両手をしっかりと繋ぎ、力強く笑いかける。
「もう辛い思いはさせない」
 シャーク!と遠い場所からノイズに紛れた叫び。しかしそれももう凌牙の耳には届かない。目の前で笑っている遊馬が、凌牙の現実だ。
 だってこれは…紛れもなく遊馬じゃねえか。強い意志の光を宿す赤い瞳。オレを勇気づけてくれた力強い笑み。全部、全部、オレが覚えている遊馬だ。
 オレの愛する遊馬は目の前にいる。
 遊馬は空から降る光を一身に浴びて輝いている。青白い月光は遊馬に当たって弾けて金色の霧となる。
 凌牙は目を見開いた。
 力強い笑み。自分を見つめる赤と金色の瞳。遊馬はまるで太陽だ。金色に輝いて見える。
 そうだ、遊馬は太陽だ…。
 ざばりと水色の月が落ちてきてゼアルとしっかり手を繋いだ凌牙を飲み込む。
 宇宙のような輝きが街の中心を満たし…それから…静かになった。
 幻のように光は消え失せていた。月は今にも海に沈もうとしている欠けた月だけだった。夜風は心地良く、星明かりに照らされた街を吹き抜ける。
 大通りを走る足音があった。それは走って走って急いでそこへ駆けつけたのだった。
 道のど真ん中に倒れた凌牙のバイクを見つけ、その小柄な人影は雄叫びを上げる。
「くっそおおおおおおお!」
 遊馬だ。
 遊馬は、彼には見える空の青白い余韻に向かって怒りも露わに叫んだ。
「シャーク連れてっちゃったのかよ! 勝手なことするなよな!」
 あーもう、あああああ!と遊馬は地団駄を踏む。
「今度こそオレを完璧に作ったのにさあ!」
 そう叫ぶと遊馬は水色の不定形に溶け、ばしゃり、と。
 道路から消えてしまった。

 凌牙のバイクだけが放置され、翌朝レッカーされた。今も集積場で主を待っている。






2012.2.29