4th kind 帰れ、帰れよう!という声が通りに響く穏やかな下校時間。凌牙はその声に促されるようにぞろぞろと帰宅する生徒達に逆流して街に向かう。潰れたゲームセンターの角を曲がり一本路地を抜けた裏通りに出ると黒猫がたむろしていて、凌牙を見上げてはやはり帰れ、帰れよう!と連呼した。 歯医者の予約は今朝入れた。喧嘩で腫れた頬はなかなか治らず、歯茎から出血するようになった。歯磨きの後、舌で触ると歯がぐらついているのが分かった。歯医者は電話番号案内が薦めるところにしたはずだが、どうしてこんな裏通りにあるのだろう。歯医者の治療を受けるくらい、別に何に恐れることもないのに。 辺りが暗いせいか診療室は眩しいほどの光に包まれていて、見れば工事現場に置かれているような投光器が部屋の四隅から診療台を照らしているのだった。眩しい光と一体化したかのような白衣の医者はおでこで光る反射鏡でしかその存在を確認できない。 「シャークさん」 神代凌牙の名前で予約をしたはずなのに医者はそう呼ぶ。 「近頃、別のところで治療を受けられました?」 口に指を突っ込まれた状態で、いいえ、と返事をすると、おかしいなあ、と反射鏡は言う。 「とても綺麗に治療されていますね。レントゲンを撮りましょう。ほら見て下さい、新しい歯が顎の骨にきちんと植わっている。ボルトが見当たらないな。有機ナノマシンですか? これは最新治療ですよ!」 適当にくっちゃべった医者は口の中を消毒液で一杯にしてうがいをさせ、歯垢取りが一番の特技なのだと鼻歌を歌いながら凌牙の歯にフロスをかけた。 金を払って歯医者を出た。表の扉にかけられた鏡を見ると頬の腫れは引いていて、今朝はぐらぐらしていた奥歯もしっかり歯茎に埋まっている。 消毒液の味のする唾を吐く。下校時刻をとうにすぎた街は夕焼け色に染められている。まるで火事だ。黒猫はその光が煩わしいのか背を向けて動かない。夜を待っている。それはシャークも同様だった。彼は夕陽に背を向けて歩き出した。 港湾沿いの橋にさしかかるとそこで遊馬が待っている。 「心配したんだぜ、シャーク」 遊馬は頬を指さす。 「すっごく腫れてたからさあ。シャーク格好良いのに台無しだよ。もう治ったんだろ?」 「ああ……」 凌牙は遊馬に近づけない。あの朝の記憶が蘇る。遊馬のような生き物とセックスをした。遊馬の顔、遊馬の身体、遊馬の声をした、遊馬ではない生き物。人間でさえなかった。 「変な顔して…まだ痛いのか?」 「いや」 後ずさり、凌牙は首を垂れる。 「すまねえ、遊馬」 「なにが」 「オレはお前に会わせる顔がない」 「何言ってんだよ」 遊馬は爛漫に笑う。 「困ったことがあったらいつでも駆けつけるぜ。オレとシャークは仲間なんだから!」 「仲間…」 「そうさ! 皇の鍵が奪われた時もシャークは黙ってオレを助けてくれた。同じだよ、オレだってそうする。いつだって、どこだって、シャークが困ってる時はオレが助けてやる」 「遊馬……、オレを許してくれるのか」 「シャークは何も悪いことなんかしてないんだ」 橋の下で感情が泣いている。大粒の涙をこぼし恥も外聞もなく泣いている。泣いているのはシャークの心だ。オレは許された。オレは遊馬に許されたんだ。 ぬるい湯のたまった浴槽に身を沈め、凌牙は繰り返す。 オレは遊馬から許された。 腫れた頬も、黒く染まった胸も全て許された。 浴槽から出るとベッドの上に遊馬が待っている。裸で、リラックスした様子で天井を仰いでいる。 それを見た瞬間、凌牙は怖くなる。オレは許されたはずなのに。赦されたはずなのに。目の前には裸の遊馬がいる。まるで罰せられるかのようだ。肌が粟立つ。血が冷たくなって心臓を止める。 遊馬の姿におののいた凌牙は、とうとう浴槽に逃げ込んだ。そこは静かで恐れるものがなかった。凌牙はぬるい湯の中で両手をしっかりと組み、祈る。許してくれ遊馬、オレはお前に赦されるような人間じゃない。 胸の黒い染みがどくどくと脈打ち、凌牙の全身を支配する。背骨が盛り上がり、眉の上から皮膚を破って角が生える。 有機ナノマシン療法は最新技術ですからね、あなたの心の闇を増幅させるくらい訳ありませんよ! 反射鏡の目がぐるりと取り囲み凌牙を元気づける。さあ、もう少しで極東チャンピオンにもなれたあなただ。ストリートを睥睨し、小悪党どもを追い払ったあなただ。九十九遊馬を手に入れるくらい訳ないでしょう? 悪魔的な囁きに耳を塞ぎ、ぬるい湯の中に沈み込む。 浴槽で眠る夢を見た。 穏やかな気持ちで遊馬の言葉を繰り返していた。オレとシャークは仲間なんだ。シャークは何も悪いことなんかしてないんだ。 その言葉だけで赦される。神が最後の審判の日を早めても、宇宙が気まぐれをおこしてノストラダムスの予言を実行しても悔いはない。 あたたかな湯に身をひたし、凌牙はゆっくりと首を傾ける。頬に湯が触れる。穏やかな気持ちだった。このまま溺れるだろうと思った。それでも恐怖はなかったし、やはり悔いもなかった。 遊馬、オレは遊馬に出会えて幸せだった。 オレは、もっと、お前に…。 浴槽で眠る夢から目覚めると、浴槽の中にいた。 冷たい水が身体を包み込んでいた。凌牙は入口に目を向けた。ドアは開けっ放しで、その向こうにリビングと明るいバルコニーが見えた。外は天気雨だ。部屋の外も、部屋の中も同じようにぼんやりと明るい。浴室は電気がついて眩しいほどだ。 凌牙は身体を起こす。身体中が冷え切っている。頭はぼんやりとしていた。 手を伸ばしたがいつものところにタオルはなかった。床の上には濡れた足跡が残る。浴室から二歩、三歩、四歩と。 濡れた足跡は寝室に続いていた。開け放されたドアの向こうにベッドがあって、裸の遊馬が寝転び待っている。 「遅いじゃん、シャーク」 「…ああ」 「オレ待ちくたびれて、一回もう抜いちゃったし」 「え?」 「へへ、だーいじょうぶ。心配すんなよ。やる気満々」 手を掴まれベッドに引っ張り込まれる。 「で、どうする? 今日はどっちが上になる?」 「何を…」 「えっちいことに決まってるだろ」 とぼけんなよ、と遊馬は顔を赤くする。 「…たまにはさ、オレが上に乗ってやるってのも、あり?」 「上に」 「こーんな風に」 遊馬は凌牙の身体を横たえ、腰の上に跨がった。 「こんな風に、さ」 腰を上げて、落とす。 凌牙はたまらず遊馬の尻を掴む。遊馬はせっかちだなと笑いながらも、いいぜ、もう準備はしてるから、と興奮した声で言う。 急な挿入を果たしても遊馬は悲鳴をあげない。むしろ喜びに満ちた目で腹を撫で、自分の中に埋め込まれた凌牙の在処を感じている。 「オレ、シャークとすんの大好きなんだよ」 オレもだ、と凌牙は泣きそうになりながら答える。お前だけが気持ちいい。もうお前としかできない、したくない。オレがしてるのに、オレはお前のものになりたいとさえ思う。 「感動するんだ」 遊馬は囁いた。 「この閉じ込められた惑星で続いてきた行為。熱い海の中で無機物が意志の力で生命となって多様化していく中で獲得した古い記憶にある行為の最果てにいるんだと思うとさ」 その言葉に凌牙の心臓は冷えてゆく。今まさに遊馬の言った行為の最中にある性器は熱をなくさないものの、しかし心臓だけ急に冷えて沈み込むようで、凌牙の心は身体から離れそうになる。急に遊馬が遠くなる。凌牙は必死で手を伸ばす。 遊馬はその手を掴んだ。 「なに?」 「その喋り方はどうしたんだ…」 「オレだって知識を獲得したらこのくらい喋るさ」 「違う…」 「成長の中で予測される誤差の範囲内だよ」 優しい眼差しが凌牙を見つめる。 「オレはお前をオレのものにしたいんだ、シャーク。お前を一つにしたいんだよ。オレはそう望んでいる」 「遊馬…」 「オレが、遊馬がそう望んでいる」 遊馬の手が青白く光って胸の上に当てられる。凌牙の胸から黒い染みが消える。遊馬の掌に吸い取られる。 「シャークの心は熱くて、優しくて、オレは大好きだ」 微笑み、遊馬は手を持ち上げた。 それと共に凌牙はべろりと捲れた。 皮膚が剥がれたのだと思い、全身が驚愕と衝撃で引き攣りそうになったが、そうではなかった。皮膚は無事だ。しかしたしかに凌牙の一部が、皮膚ではない更にその表面、凌牙と凌牙以外を分ける境界がべろりと捲れる。胸一杯に。 捲れた膜は遊馬に触れられ、ふるふると緩やかな振動を続けている。凌牙はその捲れた膜が更に細いヒモのようなもので編まれていて、ヒモがほどけ、そのヒモもべろりと広がり波打つのを感じる。原子よりもっと小さな世界で。宇宙よりさらに深いスケールで。 「好きだぜ、シャーク」 膜を震わせる遊馬の声。 「一つにしたいんだ。オレと一つに」 遊馬の声に振動が変わる。より密度の高い振動をする。ヒモがほどけ、輪になる。輪になった凌牙は遊馬の中に吸い込まれ、遊馬の身体を通過して喜びの声をあげる。膜に触れる遊馬の手がほどけて、凌牙の膜と一体化する。水色の遊馬が溶ける。 凌牙は喜びを通り越して――そんなものは感じる暇もなかった!――泣きそうになる。オレの中に遊馬が入ってくる。遊馬が混じる。遊馬がオレの身体の一部になる。 視界の端で天気雨が降り続いている。水色の雨は柔らかく外の世界と凌牙の世界を断絶する。 電話番号案内が紹介する歯医者に朝から予約を入れた。 下校のチャイムが生徒達を追い出す。その中を凌牙も歩き、途中で歯医者による。白い清潔なビルの二階に歯医者はあって、腫れた凌牙の頬を酷いですねと言い、治療の後は痛み止めも出してくれた。 通りには白い毛並みの猫がいて、遊馬のクラスメイトがしゃがみ込んでじゃれている。それを横目に通り過ぎると歩道橋の上に遊馬がいるのを発見した。凌牙は走って遊馬に追いついた。 「遊馬…!」 「シャーク!」 振り向いた遊馬は嬉しそうに笑う。 「どうしたんだよその顔、殴られたのか? また喧嘩とかしてるのかよ」 「いや…歯医者に」 「ええー、虫歯?」 遊馬だ。いつもの遊馬だ。 街は夕陽も沈み、街灯がともり始めている。濃い紫色の空。街を彩るネオンと、歩道橋の下をせわしなく行き交う車の列。 お前こそこんな時間までほっつき歩いて大丈夫なのかよ、と手を伸ばすと、凌牙の手はがばりと捲れ巨大なアメーバのように広がり、遊馬を包む。 凌牙はその場に倒れた。泡を吹いて気絶していた。 遊馬は水色をしたアメーバのような凌牙の手の中から背後を振り向く。 「お前、なにしたんだよ」 アストラルの返事は遊馬には聞こえても、凌牙には聞こえない。それは気絶していても、そうでなかろうとも。
2012.2.28
|