肩胛骨の恋




 肩胛骨の痛みが現実と、男の不在を感じさせた。
 このままでは風邪を引いてしまう。目を覚まし、肩から外れた毛布を少ない動作で引き上げ、闇の中で息をついた。
 なんとなく男の手を思い出した。背後から抱きしめるのは私の胸に触れたかったからだろうか、と不意にそんなことに思い当たる。正解は知れない。眠気はすぐそばでうろうろとしていた。しかし瞼は閉じなかった。
 肩胛骨の痛みがやけにはっきりと感じられる。全ての現実がそこにあるように。ドロワは、心細さを感じているのかもしれない自分を認めたくないと思いながら肌寒さに肩を震わせた。
 朝日が昇れば、コーヒーを飲めば、いつものスーツを着込めばきっと忘れてしまうはずのそれが、裸の肩を容赦なく苛む。
 ドロワは静かに目を閉じる。記憶の中のぬくもりを追いかける。背中に触れる手を思い出す。しかし、夢のない眠りに落ちたかった。現実でもない、ご都合主義の夢でもない、ただの安息に身をひたしたかった。お前に、そばにいてほしくない時もある。ゴーシュ。
 たとえ彼の不在がこの寒さをもたらしているのだとしても。
 かつて、夢見る瞳で恋と永遠の愛について語った周りの少女達。ドロワには分からなかった。移ろわないものはない。衰えないものも。終わらないものも。
 まるで一つに溶け合うように一つになるのよ。永遠の愛で結ばれるの。
 恋はそんなものではなかった。
 Mr.ハートランドへの想いも、今肩胛骨を苛む寒さも。
 時には胸を熱くさせるそれは同時に同じだけの冷たさも心に呼び込む。Mr.ハートランドを想った夜は切なく、彼の下で働くようになれば自分がただの個人に戻るのが悲しかった。
 彼のものになりたい、彼に所有されたい。
 しかしドロワの身体を最初に開いたのは思いもしなかった男で、何もかも自分と違っていた。あるいは自分が心密かに抱いていたのだろう理想とも。
 熱血で仕事の効率がよくなるのか?ノリだと言ってこの始末をするのは誰だと思っている。そんな文句を言いながら一緒に仕事をしてきた男。
 右。
 左。
 溶け合いなどしない。交わっても、一つにはならない。皮膚が隔てる。その下を流れる血の温度も、打つ脈拍の数も違う。何度寝ても性格が寄り合うことはない。好みも違う。歯磨き粉の味から、料理の味付けまで。――料理の腕は向こうが上なのは認めざるを得ないけれど。
 一つのベッドに眠っても、常に二人。
 右。
 左。
 ドロワは目を瞑ったまま自分の右手首に触れる。あの男に抱かれると、いつもブレスレットがそこに触れる。
 たまに、触って。それから抱いて。
 ぬくもりが心地良い夜もある。でも今は寒くてもこの肩胛骨の痛みを受け入れる。
 一人でいたい。
 溶け合いたくない。
 そのままでいろ、ゴーシュ。私はそれで構わない。
「好き」
 囁き、ドロワは闇の中でまばたきをする。
 熱のない囁きがこの恋の全てを表していた。
 悔いることも諦めることもできない、ただ、気づけば好きになってしまった。
 肩胛骨の痛みがその証拠。感じる寒さがその証明。ドロワが抱いたのは熱ではない。日常の中で呼吸するように隣にいることを求めている。自分と全く違う存在が隣にいて、同じものを見ては違うものを感じ、同じ空気を吸っては違うことを言う。
 一つの空間に、自分と、ゴーシュという存在。
 たとえ一つの空間に自分一人だとしても、もうドロワの隣にはゴーシュのためのスペースがある。
 不在さえ、恋の一部だった。

 枕元には体温計。
 毎朝基礎体温を計る。ゴーシュの部屋を訪れているのでなければ。
 恋の中に当然のように組み込まれた排卵周期。セックスにセーフティを求めていたのはむしろゴーシュが先で、コンドームは欠かしたことがないのだけれど。
 使わなかった。つい先日のこと。
 昼日中、仕事の最中に二人でトイレに入ってロックをかけ、ほんの短い時間に一回を済ませた。
 それからその夜。
「もういい」
 と言うまでゴーシュはやめなかった。
 そこを舐められるのは気持ちがいいというよりも、なにか耐えられない。快感と呼ぶには強い、それに恥ずかしい。シャワーを浴びてはいるが、汚い、とも思う。しかしゴーシュは躊躇わず舌を這わせる。
「やめろ」
「どうして」
「やめて」
 口をついて出た涙声に顔が上がったところを引き離し、逆にゴーシュの身体に触れた。
 肌の色も違う。髪の色も。瞳の色も。
 日の光を存分に浴びてきたのだろう肌と、燃えるような髪の跳ね。それなのに、何故瞳の色だけそんな静かな、夕暮れの海のような色をしているのだろう。
 ドロワは下半身に目を落とした。
 まじまじと見つめると、これが自分の中に入ってくるのが信じられない。ごくりと唾を飲み込んで、先端に触れる。
 おい、と不安そうな声が降ってきた。しかし触れてみた。
 こんなものまであたたかい。
 あんなものに触ることまで恋だとは思いもしなかった。
 恋は全部現実でできていた。
 射精を見て呆然としたのはドロワだけではなかった。ゴーシュもだった。気まずさ。沈黙。掌についた液体の、何の気なしに匂いをかいでみると、何故か怒ったのはゴーシュの方で、お前だって私のあそこを舐めるくせにと反論したが、反論半ばで赤面したのはドロワだった。
 朝見た体温計の数字。今日は安全日だと思いながら口に出さない。熱情が極まったかのような態度でコンドームのことを忘れる。
 ゴーシュのセックスが上手いのかどうか考えたことはない。女に不自由したことはないらしいけれども、それは何がいいのだろう。ルックス? 性格? セックス? その夜初めて触れたゴーシュのそれが男性的にどうなのか、よく言われるように大きいのか小さいのか良いものなのかどうかも判断がつかない。
 お前しか知らないから仕方ない、と胸の中で呟きながらドロワは手と足でゴーシュの身体を抱きしめる。ともあれ、これで気持ちよくなってしまう身体に自分はなった。
 痛みから慣れへ。
 快楽からぬくもりへ。
 ぽつぽつと話す冗談抜きの言葉はいつの間にか恋になったが、好き、と言ったことはない。
「好き」
 熱のない囁きを、ドロワはもう一度繰り返す。
 言われたこともなかった。
 しかし自分はもうMr.ハートランドが自分を抱くところなど想像もできないし、自分の隣のスペースをゴーシュ以外の誰かで埋めるつもりもないのだ。
 無骨な手が背後から伸びて抱きしめるぬくもりをドロワは思い出す。蘇った記憶が寒さに痛む肩胛骨に、肌の下じんわりと馴染んで溶ける。
 今度は溶けない手で私を撫でて。それから、抱いて。






2012.2.24