忘却性ハピネス




 誰かの手を離さない夢を見た。それは時間も忘れてしまう幸福感で、現在が存在して、いつか終わる未来がやって来ることも、この現在が押し流されて過去になってしまうことも忘れてしまうほどだった。現在だけがあり、繋いだ手だけがあり、引き寄せ、抱きしめるだけで全てが完結し存在していた。
 ああ、誰かに教えなきゃ。この世界にはこんな幸福があるんだ。誰か。誰か。誰かに聞いてほしい。誰かに教えたい。幸せを独占するという欲望さえなかった。幸せが身体から溢れて空気を満たしていく。あたたかく、熱が上がる。これが幸福のエネルギー。世界の全て。
 瞼がうっすら開き、白茶けた屋根裏の風景がぼんやりと立ち上がる。焦点が合う。時計の針が示すのは5時、少し前。
 目は覚めているのに、まだ夢の中にいるかのようだった。屋根裏はぼんやりと暑い。溜まった熱気が逃げ場なく漂っている。遊馬はハンモックから下りると窓を開けた。朝露の降りたらしい冷たい空気が、部屋のぬるい空気と入れ替わりに風のように吹き込む。朝の匂いがする。かつてサバンナや熱帯雨林でかいだ匂いを思い出す。
 遊馬は床に寝転ぶ。屋根裏はそこだけひやりとしている。床板に頬を押しつけ、窓を向いて横になる。
 まだ幸せだ。身体の中に熱が籠もっている。しかし今度は言葉にしたら、それを吐き出してしまうようだった。さっきまで誰かに教えたくてならなかったこの幸福を。だから心の中で名前を呼ぶ。アストラル。瞼を伏せると、掌や胸に誰かの手を繋いだ感触、抱きしめた感触が蘇ってくる。こういうあったかくなる感じが、幸せ、なんだぜ。胸の奥からあたたかい熱が広がって世界で一番優しくなれる感情だよ、凄いだろ。
 掌に皇の鍵を握る。ひやりとしたそれに自分の体温が移る。
 風が頬を撫でて、遊馬は呼び起こされるように瞼を開けた。ハンモックの上にアストラルが座っている。
「落ちたのか?」
 見下ろし、尋ねてくるアストラルの姿はいかにも偉そうに見えたが、遊馬はムッとするよりもそれがおかしくて喉の奥で笑いながら否定した。
「違う」
 今の遊馬は世界で一番優しい存在だ。
 アストラルはふわりとハンモックから離れると、潜水でもするような角度でぬるい空気と朝露の匂いのする空気の入り交じる中を遊馬の元に下りてくる。遊馬はアストラルの顔に向けてひらひらと手を振る。
「おやすみ」
「また眠るのか?」
「だって早すぎるだろ」
 遊馬は瞼を開いているのに、もうその視界に膜がかかるのが分かる。今から眠れば、またあの夢の続きが見られるだろう。夢の中で、もう一度あの誰かを抱きしめよう。ぬくもりをこの身体一杯に溜め込もう。そしたら次に起きたときそれをアストラルに話してやれるかもしれない。あの夢の中には、吐き出しても吐き出しても尽きることのないほど幸福感が満ちている。
「私は君に『おはよう』と言おうとしていた」
「ん、次起きたらな」
「では『おやすみ』か?」
「もうちょっとな。おやすみ」
 瞼を閉じると薄い霧が身体を包み込む。熱帯雨林の匂いがする。濃い緑と、雲がそのまま地上に下りてきたかのような霧と、湿った土の匂い。しかし、景色ははっきりしない。霧が立ちこめている。あの誰かを探さなきゃ。見晴らしの良い場所を、と遊馬は急な石の階段を上る。赤く塗られた階段は普通に立って歩くことはできない。遊馬は石段を一つ一つ掴んで身体を引き上げる。
 頂上から見えたのは緑を覆い尽くすミルク色の霧だった。まるで白い海に囲まれているかのようだった。赤いピラミッドの頂上には涼しい風が吹き、息が通る。遊馬はあたたかな息を吐き出す。
「アストラル!」
 霧の海に向かって遊馬は呼びかける。幸福で満たした熱の籠もった声で探す。
「アストラルー!」
「ここに」
 声は背後から聞こえた。遊馬が振り向くと背中合わせのようにアストラルが立っている。
「どこ行ってたんだよ、探したんだぞ」
「ずっと君の傍にいた」
「じゃあすぐに教えろよ。オレ、すっごく探しちゃっただろ」
 でもいいや、と遊馬は笑って両腕でアストラルを抱きしめる。ひんやりとつめたい身体からは朝露の匂いがする。
「お前に教えてやらなきゃと思ってたんだ」
「何を?」
「感情の名前だよ。幸せって分かる? 胸の奥からあたたかくなって身体中そのあったかいので一杯になって世界で一番優しくなれるんだぜ」
「君は今幸福なのか」
「そうだよ」
 アストラルの身体を強く抱きしめ、遊馬は幸福と一緒に溢れ出す言葉を口にする。
「すっげえ幸せ。オレさ、ずっとこうしたかったんだ。この手でアストラルに触って、こんな風にするの。まるで夢みたいだ!」
 遊馬、と呼ぶアストラルの手が回され、そっと頬が寄り添う。
「本当に夢見たいだ…!」
 とがった薄い水色の耳に遊馬は喜びをはちきれさせ囁きかける。
 ピラミッドの頂上には気持ちの良い風が吹いている。世界中に二人きりでいるような気もしたし、それで全部が解決している気もした。世界の中心はここ。存在する全ての幸福はこれ。夜と朝の間。深く青い空に星が輝く。未来も過去もない、パーフェクトな今。

 朝は配信で忙しい姉が、それでもあまりの時間と発した怒声によって遊馬は目覚めた。慌てて服を着替え、朝食をかき込み慌ただしく家を出る。
 まるで世界が変わってしまったかのようだ。さっきまでいた世界とは違う地面を蹴っている。お掃除ロボットが綺麗にした清潔な道路。眩しすぎる朝の光。立ち並ぶビル。いや、風景だけじゃない。何かもっと大切な、何か…。
 しかし遊馬はそれが何かを思い出す前にまず遅刻しないよう学校まで走らなければならない。一歩ごとの夢のことは忘れる。忘れていることにさえ気づかない。息を切らせて学校の門をくぐった時には今朝のことはすっかり頭から消えてしまっていて、遅刻を鉄男たちに笑われ、右京先生からは呆れたように怒られた。アストラルはすぐ傍に静かに浮いていた。それはあまりにいつもの光景で、今朝の夢を思い出せるようなきっかけはどこにもなかったのだ。
 二人は今朝も『おはよう』という挨拶を交わしていない。






2011.8.11 古代マヤ妄想がまじってきましたよ