悪くない悪夢を見た




 映画のような雨が降っていた。
 欲しいものは熱いコーヒー、熱いシャワーと乾いたタオル、それからちょっとしたぬくもり。
 タワーからコンドミニアムまでの距離はそう遠くはない。タクシーを使うノリでもない、と思えば傘を差すか否かでゴーシュはコンビニエンス・ストアに立ち寄る。安い傘が一本あればよかったが、ついでに夜食も買ってしまった。揚げ物の匂い漂う紙袋を片手に店の外へ出れば、雨の夕はいっそう寒い。
 それは明るい灯を灯す店の並んだ通りからコンドミニアムへと曲がる角の、ちょうどエアポケットのような静かで薄暗い場所にいた。
 にゃあ、と鳴いた。
 ゴーシュは立ち止まり、声の主を見下ろす。
 毛並みの青い猫が暗い軒下で雨に濡れている。
 琥珀色の眼が見上げ、もう一度鳴いた。にゃあ。
 しゃがみこんで喉を撫でるとぐるぐると鳴く。ゴーシュは傘を肩に挟み、紙袋を掴んでいない手で猫を抱き上げる。抱き上げるというよりも猫の方から飛び乗って、ゴーシュの服に濡れた毛皮を擦りつけた。
 ノリ、としか言いようがない。今まで猫や犬を飼ったことはなかったし、別段興味もなかった。曰く、デュエルとなりゃそれどころじゃねえ猛獣だってしもべにするのに今更ちっちゃな毛玉が必要だって? それが夜食と傘と濡れ猫を抱えてのご帰還。何があったよゴーシュ様。
 玄関のドアを開けると猫は突然ゴーシュの手から飛び降り、我が物顔で部屋を走り回る。濡れた足跡が点々と続く。
「こら待ちやがれ!」
 傘は玄関に投げ捨て、紙袋は廊下に置いたというか倒したままゴーシュは猫を追いかける。それは身軽な動きでゴーシュの腕をくぐり抜けたが、一通り部屋の中を駆け回ると気が済んだように急に甘え、足下にすり寄った。その頃にはもう部屋中が足跡だらけで、ソファにも黒い染みがついてしまっていた。
「やってくれたな、ええ?」
 つまみ上げて目の前で恐い顔をしてみせるが、猫は別段こたえた様子もない。
 ゴーシュは溜息をつき、濡れて毛だらけの上着と手袋を脱いで猫を風呂に入れた。
 動物は風呂を嫌がるというが、猫は随分大人しかった。タイルの床の上、ぬるいシャワーを浴びながら眼を閉じている。汚れを落とせば、意外と美しい毛並みなのが分かった。ゴーシュは石鹸で泡立てた手で猫を洗う。
「よーし、このままおとなしくしてろ」
 濡れて痩せた首に、首輪というかチェーンがかかっている。名前や飼い主を示すようなプレートはない。
「飼い猫か? 捨て猫か? なーんであんなところにいたんだ、お前、ん?」
 独り言のように喋りながら泡をシャワーで洗い流す。
 それが熱かったらしい。突然湯気が湧き上がって視界が真っ白になる。湯気の中で猫の鳴き声が響いた。
「うお、悪い…」
 思わず謝りながらシャワーを止めようとするが手が滑る。シャワーヘッドが転がって、吹き出す湯。もうもうと立つ湯気。
「にゃあ」
 声が聞こえた。
 それが猫の声帯から出ている声ではないとゴーシュには分かった。というか、それは聞き慣れた声だったからだ。
「にゃあ?」
 思わず自分の口からも出る。しかし疑問符付きで。
 湿ったぬくもりが重量をもって自分にのしかかる。ゴーシュはそのまま後ろに尻をついた。濡れた服が気持ち悪い。いや、それより。
「にゃあ…」
 真っ白な中にシルエットが浮かび上がった。
 湯気がだんだんと落ち着くと、それがよく見慣れた顔、ついでに見慣れてしまった身体、しかし今ここにはいるはずのない人間の形をとっているのを知る。
 人間…、待て、人間?
 オレは猫を洗ってたはずだぞ?
「にゃ?」
 目の前でドロワが笑っている。裸で。
 今までとったことのない大胆なポーズでゴーシュを押し倒している。重く垂れた乳房も腰の曲線も見慣れたそれだ。しかし違う。何かが違う。
 濡れた髪からのぞく、ぺたんと垂れた…猫の耳?
 丸い尻の曲線の上で揺れる…尻尾?
「にゃー!」
 ドロワ、は満面の笑みを浮かべてゴーシュに抱きつく。柔らかな胸が押しつけられ、むっちりとした太腿がすり寄せられ、ゴーシュは勢いよく床に後頭部をぶつけた。しかし気絶はしなかった。まあ、少しは気を失いそうになったが。
「どういうノリだ…」
 取り敢えず出た呟きに現実感はない。

 ドロワの裸にうっかり反応を起こしてしまう前にゴーシュはそのドロワらしき存在をつれて浴室を出る。
 バスタオルをかけてやるが自分で拭くことをしない。挙げ句、脱ごうとするから結局ゴーシュが拭いてやることになる。
「ドロワ…?」
 呼びかけてみるが、
「にゃあ」
 笑顔にこの返事。
 その笑顔は見慣れないものの、声もドロワのものだし、身体もゴーシュの知る限りそうだ。黒子の位置までぴったり同じ。右足首には、猫が首につけていたチェーンが巻かれている。いつもならアンクレットをつけている、その位置に。
 取り敢えず耳を引っ張ると嫌そうに抗う。偽物ではないらしい。髪を掻き分け覗いてみたが、身体から直接生えていた。だいたい付け耳はともかく、付け尻尾なんてエロいアレしか浮かんでこない。
 風呂場でずぶ濡れになってしまった服を脱ぐと、ドロワ――と呼ぶことにした――はじっと自分を見つめてくる。自分がドロワの裸を見たことがあるように、ドロワも自分の裸を見たことはあるのだが、このドロワはひどく興味津々でゴーシュの裸を見上げてくる。
「…何だ?」
「にゃ」
 ドロワは床の上から手を伸ばす。ゴーシュの身体についた傷が気になるらしい。
「お前も見たことあるだろ」
「にゃー」
 しゃがみこみ、思わず頭を撫でるとドロワはその手をくぐってゴーシュの肩に手を伸ばし、そこに走った傷を撫でた。
「別に、もう痛くねえよ」
 ぐるる、と喉を鳴らしドロワは離れる。そしてくしゃくしゃになったバスタオルの上にぺたんと座り込んだ。
 ドロワは立とうとしない。膝を伸ばして立つ方法を忘れてしまったのか、動物のように四つん這いのままだ。
「本物の猫みたいなノリだな」
 本物の猫だとでも答えるようにドロワは、にゃあ、と鳴いた。
 乾いた服に着替えはしたものの、雨の中想像していたような落ち着きも安らぎも訪れない。
 ゴーシュはクローゼットから自分の服を取り出し、ドロワに着せようと努めた。
「いいか、ドロワ」
「にゃ」
「耳と尻尾が生えたからって、そのノリでうろうろされると困るんだよ」
「にゃ」
「だからこれを着ろ」
「にゃー!」
 渡した途端に引き裂かれそうだったので、結局暴れるのを押さえつけて服を着せた。取り敢えずシャツだけで疲れた。下着をはかせようとすると本気で嫌がる。
「まあオレのパンツとかお前のノリじゃねえだろうが」
「フー!」
 ソファに隠れ、本当に猫だったら毛を逆立てているのではないかという勢い。実際、耳がピンと立ってこちらを警戒している。
「いいよ、じゃあそのシャツだけで。脱ぐなよ」
 トランクスなら少しは抵抗がないかと思ったが実に余計なお世話だったらしい。ゴーシュはあきらめて濡れた自分の服とそれをまとめて洗濯機に放り込む。
 床がまだ濡れているので自動掃除機のスイッチを入れ、廊下に転がっていた買い物を拾い上げた。
「にゃ、にゃ、にゃ」
 見るとドロワは四つん這いの抜き足差し足で自動掃除機を追いかけている。
 壊されるであろう未来が目に見えていた。
「ドロワ!」
 呼ぶとそれに反応して顔が上がる。
「飯だぞ、ほら、来いよ」
 さっきまでの警戒心はどこへやら、ドロワは嬉しそうにキッチンに近づいてくる。
 すっかり冷めてしまったチキンをレンジで温め直し皿に盛ると、床に座り込んだドロワが目を輝かせて見上げた。
「何か飲み物…やっぱミルクがいいのか」
 温めただけの夜食をリビングに運び、ゴーシュは眉を寄せる。
 牛乳、コップ、あるいは皿。
 床にしゃがみこんで、ソファに座ろうとしないドロワ。
「こっちに来い」
 ソファの隣を叩いても普通に座らない。四つ足で、なのだ。
 結局ゴーシュが床に下りることにした。
 もしかしたらと思ったがドロワは箸を握ることができない。それどころか手で摘んで食べるのではなく、皿から直接食べようとする。
「こらこら、よせ、ドロワ」
「にゃ〜っ」
「流石にノリが良くねえだろ。ほら、食わせてやるから」
 ゴーシュは唐揚げを一つ摘むとドロワの顔の前に持っていく。噛みつこうとするのを押さえて、ほら、と手本を見せる。
「あーん、だ。あーん。口開けろ」
「な〜」
 大きく開いた口に唐揚げを一つ入れたやると、ドロワは嬉しそうに食べた。
 何事につけ、必要でない限りは決して人の手を借りようとしないドロワに手ずから食事を与えている。しかも素直に開く口。指先の油さえ惜しがって舐めてくる。ゴーシュはうっかりムラッとくるのを抑えて手を引く。
 一皿の半分では足りなかったのか、ドロワはにゃーにゃーと鳴く。ゴーシュは取り敢えずコップに牛乳を注ぎ、ドロワに持たせようとした。
「飲めよ」
「にゃ?」
 ドロワの手は覚束ない。子どものように、すぐにコップを取り落としそうになる。
 いつもは冷血に見えるほど冷静で、できないこと何一つないという素振りを見せるドロワが、今はぶかぶかのシャツを着、髪もくしゃくしゃなまま、コップ一杯のミルクさえうまく飲むことができないのだ。
 猫がドロワになったのか、ドロワが猫になったのか。ドロワにもこんな子どもらしい子どものような時代があったのだろうか。
「来い」
 命令すると警戒するので、少し表情を和らげた。
「来いよ、ドロワ」
 ゴーシュは膝の上にドロワを座らせ、コップを持つ手を支えた。ドロワはおとなしくミルクを飲んだ。美味しかったらしい。全部飲み干すと下から嬉しそうな顔が見上げ、
「にゃあ」
 と鳴いた。
 唇の上に白いヒゲができていた。ゴーシュは吹き出す。
「いいノリだぜ、ドロワ」
「にゃあ!」
 ゴーシュは笑いながら牛乳ヒゲを指で拭ってやった。

 その後ドロワはテレビの映像に飛びかかり――某自然番組の南米の蝶だった――また大騒ぎをした。どうしても蝶を掴まえたいらしく、何度も何度も飛びかかる。
「お前が興奮したノリなんか…」
 初めて見た、と言おうとしてそれはちょっと違ったと思ったが、こんなにも純粋に子どものようにはしゃぐ姿を見るのは初めてだ。
 なんとか抱え込んで押さえつけたが、手や頬をこれでもかと引っ掻かれた。
「いっ…」
 爪がひどく頬を抉る。本当にガリリだのバリッだの音がしたようだった。
 引っ掻いたドロワもひどく驚いていた。
 急に静かになったのをいいことにゴーシュはその身体を抱きしめる。
「ったく、ひでえノリだぜ…」
 頬に触ると血が滲んでいるのが指先に、頬の側にも分かる。ただの傷ではない、爪のつけた傷は疼く痛みをもたらす。
「にゃ……」
 急にしおらしくなったドロワの顔が近づく。
 ぺろりと、舌が傷口を舐めた。
「何だ、心配してんのか」
「にゃあ…」
「大したノリじゃねえよ」
 ドロワの琥珀色の瞳は潤み、今にも涙がこぼれそうだった。耳がぺたんと寝ている。わずかに身体が震えている。
 その時顔が近づいたのは、やはりノリとしか言いようがなかったが、ではキスをしてその先はどうなるのだろう。浴室で感じた興奮がわずかに蘇った。
 人間の耳がない代わりに猫の耳がある。まあいい。本当はよくないのかもしれないが、これくらいはどうにかなるノリだ。
 尻尾の付近は?
 はっきりと確認はしていないが、しかし、本当にドロワなのか、元は猫なのか分からないこの存在とやっていいものか。
 ぺろぺろと頬を舐めるドロワを押しとどめて、ゴーシュはその喉を撫でる。
「ありがとな、もう平気だ」
「にゃあ」
 ほころぶ笑顔にまた脳がぐらっと動いたが、堪えた。
 リビングはもうめちゃくちゃだった。食べたまま散らかった皿と、コップ。裂けたソファから中身がはみ出し、多分何かを拭うはずだったタオルがぐしゃぐしゃになっている。隅では壊れた自動掃除機が引っ繰り返り、車輪が空回りしていた。
「なー…」
 小さな鳴き声。ドロワが胸にもたれかかる。とろんとした瞳。瞼が今にも閉じそうだ。
「眠いのか?」
「なぅ」
 ドロワは自分の首を撫でるゴーシュの手を、何度も何度も甘噛みする。
「これは食いもんじゃねえよ」
 ぐったりと力をなくしたドロワを抱え上げ、ベッドに運ぶ。ドロワは身体を丸めて目を瞑る。ゴーシュもその隣に横になった。
 外はまだ雨が降り続いていた。窓を打つ、映画のような青い雨。
 にゃあ、と小さな声がした。ドロワが身体をすり寄せる。足首のチェーンが小さく涼しい音を立てる。
 腕の中にちょっとしたぬくもり。
 眠るにはちょうどよかった。ゴーシュはドロワの背中を撫でながら自分も目を閉じた。

 翌朝、ベッドの上で一人目を覚ます。
「悪いノリだぜ…」
 外はすっかり晴れていた。雨は止んだばかりらしい。滴る水滴が朝日に光る。
 かりかりと小さな音を立てて、毛並みの青い猫が寝室のドアを引っ掻いていた。
 その姿を見たゴーシュはひやりとしながら、昨夜は自制してよかったと心底思った。オレも疲れていたのかもしれない、知らないうちに。でなけりゃ、あんな悪夢…。
 悪夢にしては甘かった、が。
 リビングの惨状は昨夜のままだが、猫相手に暴れたのだから当然かと思う。ドロワに着せたはずのシャツが落ちていたが見なかったふりをしながらこれも洗濯機に放り込んだ。昨夜からスイッチは入れていない。
 猫はしきりに窓を引っ掻いた。
「風にでも当たりたいのか?」
 話しかけるのもすっかり当たり前になりながら窓を少し開けると
「あっ」
 声を上げる間もなく猫の姿は窓の外に消える。バルコニーを蹴って、まるでARヴィジョンが空中に消えるように、ふわりと。
 ゴーシュは慌ててバルコニーから下を見下ろしたが、恐れていたような惨状はなかった。
 猫の姿を見たのはそれきりだ。
 仕事に出ると、時間内ではあったが自分より早く来ていたドロワが冷たい視線を寄越した。
 耳は生えていない。きちんと人間の耳が人間の耳の場所にある。
 それに尻尾もない。
 ストッキングを履いた右足首にはいつものアンクレット。
「どうした、その顔は」
「ああ?」
「ひどい顔をしている」
 ゴーシュは頬の傷に触り、ああ、と呟いた。
「猫に引っ掻かれたんだよ」
「猫? 猫なんか飼っていたのか?」
 その冷たい言葉が妙に心地良かった。
「だよなあ、お前はやっぱりそのノリだぜ…」
「頭は大丈夫か」
 しかしドロワの手は不意にゴーシュの頬に伸びた。
「猫、か」
 冷たい微笑み。
「火遊びもほどほどにしろ、ゴーシュ」
「あのなあ、お前のせいだぞ」
「は? 何を言っている」
 通路のど真ん中でキスを奪おうとすると、盛大な平手打ちを食らった。まるで映画のようだ。
 しかしその痛みさえ心地良く。
「まさかMなノリに目覚めちゃいねえよな?」
 そう自問する二月二十三日の朝の出来事。






2012.2.22