四日目 ――AM4:35 予選三日目はまだ終わっていない。いや、昨夜をもって終わっていた表向きは。そして事実上のそれも終了したのであり、いまだ分析を続けるオペレーターロボットの稼働や、運営委員の手に残った仕事も目の前から電子書類が全て消えた訳ではなかったが終わったと表現してやってもいいものだった。 それまで書類とデータの間を忙しく行き来していたドロワの手がぴたりと止まった。ゴーシュが始末書の備考欄に入力を終え、ほらよ、とまわす。横から飛んできた赤い縁の書類をじっと睨みつけたドロワは最後に自分の分の署名も書き込み、Mr.ハートランドに送信する。 AR空間は奇妙に静まりかえった。オボットからリアルタイムで伝えられる街の様子。夜明けを前に通りはどこも無人で、猫の子一匹いない。怒濤の三日間を終えていまだ深い眠りの底にいるハートランドシティ。 やおらドロワが一枚の書類を引き寄せた。今回のWDC予選で参加資格を剥奪された者のリストだ。名前に触れると新たな書類が姿を現す。 「…帰るぞ」 低い呟きが聞こえたが無視をする。 「帰るぞ、ドロワ」 今度ははっきりと名指しされた。 「まだ仕事が残っている」 「それくらいオペレーターロボットに任せろ」 「私には運営委員の責任が…」 「殴って気絶させてでも連れて帰るからな」 「仕事が終われば自分の部屋に帰る」 溜息が聞こえ近づく足音。殴れるものなら殴ってみろと振り向くと腰に腕が回され、抱え上げられた。 「離せ…ゴーシュ!」 「午前四時四十二分」 ゴーシュは眼下にずらりと並んだオペレーターロボットに向かって声を投げた。 「違反者リストと資格剥奪者リストと…そこらへんのノリの処理は任せた。ナンバーズ関係の報告書にレスがあったらオレの番号に連絡しろ。Mr.ハートランドからの連絡もな。ARリンク解除。現時刻をもってゴーシュとドロワは業務を終了する」 それを認証する電子音声が同じ文言を復唱していたが、ゴーシュはもうそれを最後まで聞かずドロワを抱えたままオペレーションルームを後にする。 「ゴーシュ…ゴーシュ!」 ドロワの細い手で握った拳が背中を叩く。 「下ろせ、自分で歩くことくらいできる」 「嫌だね。下ろしたらお前すぐ仕事に戻るノリだろ」 「お前が終わらせたではないか」 ゴーシュはドロワの訴えに耳を貸さず人のいない通路を通り、がらんとしたエレベーターに乗り込み、夜明けを前にした薄暗いハートランドの通りを抜け自分の部屋のあるコンドミニアムを目指す。 「誰かに見られたら…」 「街中寝てるぜ、オレたち以外はな」 網膜認証で玄関の自動ドアが開く。吹き抜けの広いフロントをゴーシュは重たい足音を立てて歩く。 「下ろして…」 力無くドロワが言った。 「もう、逃げはしない」 ゴーシュは少し考えたが、エレベーターの前でドロワを下ろした。ようやく床に着いたドロワは少しふらついたが自分の足で立ち、乱れたスーツの皺を伸ばす。そして自分からエレベーターのボタンを押した。 「逃げは、しない」 もう一度ドロワは言った。 「いいノリじゃねえか」 ゴーシュは笑い、ドロワを抱えていた肩をぐるぐる回した。 部屋についた二人はそれぞれスーツを脱ぎながら片や寝室を目指し、片や服をかけるためのハンガーを探したが、ゴーシュはリビングに腰を下ろしたが最後、そのまま床の上で寝てしまった。ドロワは辛うじて寝室まで辿り着いたものの、脱いだスーツを片手に掴みスカートを脱ごうとした格好のままベッドに倒れ込んだ。 調光スイッチを入れていない窓ガラスは透明なまま、昇る朝日の燦々とした光を部屋に投げかける。しかし二人は動かなかった。動き始めた街を見下ろすビルの一角ですやすやという音もなく眠りは満ちる。 ――AM11:57 眩しい。 眩しさが痛みのように押し寄せる。身体が痛い。頭も痛い。目が痛い。ゴーシュは瞼を開く。驚くほどローアングルから見上げる自分の部屋を一瞬、自分の部屋と認識できない。あ、ここはオレのコンドミニアムだと思い出して、上着を放り投げたリビングのテーブルの裏を見た。もう一週間も一ヶ月も帰っていないような気がした。 街のどこかで音楽が鳴り響いた。かすかに聞こえてくる声はMr.ハートランドのものだ。正午になったのだろう。横になったまま窓から射す光に目を背ける。自分が向かおうとしていたのだろう先で、寝室のスライディングドアは開きっぱなしだった。そこから見えるベッドには綺麗な足が二本覗いている。 「ドロワ」 掠れた声、というより嗄れた声で呼んだ。喉がからからだ。 身体を起こすと全身が軋んだ。エアコンも働かせていないから熱気が籠もっている。ゴーシュは立ち上がり壁に手を伸ばしたが、それはエアコンのスイッチには触れず、そのかわりもう片手でシャツのボタンを外した。 習慣でほぼ無意識的に冷蔵庫を開ける。水を取り出して半リットルほど一気に飲み干した。 「…ゴーシュ?」 背後から細い声。振り向くとスーツとスカートを脱いだ半ば下着姿のドロワが立っている。 「私にも」 ゴーシュは開けたままだった冷蔵庫から新しい水を取り出す。ビンに詰められたそれは蓋を開けた途端、涼しげな気泡を立ち上らせた。ドロワも一気にそれを呷り、半分ほど干した。 「何だか」 彼女は呟く。 「眩暈がする」 「寝てろよ」 「お前はもう平気なのか」 「おうノリノリだぜ」 そう言ってキスをすると歯がぶつかる。硬い音と小さな痛み。 唇が離れたドロワは黙って残りの水を飲み干した。 「ありがとう」 空のビンをゴーシュに押しつけ、ふらふらと寝室に向かう。 「おーい」 呼んだが返事をしない。 ゴーシュは冷蔵庫の扉を閉めると空の瓶は床に置き、ドロワの後を追いかけた。 「怒るなよ」 「怒ってない」 「悪かったって。そういうノリだったんだ」 「誰も怒っていない」 ドロワは床に脱ぎ捨てていたスーツをクローゼットに掛け、ベッドに腰掛けるとストッキングを脱ぐ。ブラジャーを外すと重そうな乳房が揺れ、力の抜けるような大きな息を吐いた。 「…もう少し借りるぞ」 そう言ってドロワはベッドに横になる。真昼の陽光に白い肢体がハレーションを起こして輪郭が滲んで見えた。豊かな胸。小さな布一枚に隠れた下半身、すらりと伸びた足。 「風邪引くぞ」 ぼそりと呟いて、眺めているには悪くない光景をシーツで覆った。 窓ガラスを遮光に調節し、影の心地良さに息を吐く。ベッドに腰掛けたところでエアコンを入れ忘れたことに気づいたが、もう腰を浮かすだけの気力が残されていなかった。ゴーシュは脱いだシャツをドロワの上に掛け、自分も横になった。 ――PM6:15 腹がへこんだような気がした。空腹なのだと気づいた。肉体の訴えは強く、ドロワは瞼を開いた。部屋は真っ暗だった。視界の端で時計の数字が光っていた。夕方…、もう夕方だ。 自分の部屋ではないが冷蔵庫の中身も知っている。何か作れば隣で眠る男も食べるだろうか。そう思って身体を起こしかけたが頭の奥が揺れた。重たい液体のような何かが平衡感覚も思考も奪ってしまうような感触。 結局、元のようにベッドに横たわる。 「どうした」 隣から掠れた声がかけられる。 「空腹で…」 一言だけ答えると、何か食うか、と隣も起き出す気配。ドロワは首を横に振った。 「気持ちが悪い」 熱気、息苦しさ。 隣で男がベッドから起きだしたが、ドロワはもうそれを視線で追うこともできない。 少しすると涼しい風が吹き込んだ。エアコンの風ではない。音が聞こえる。窓から吹き込む風の音。リビングから流れてくるのだろうそれが開いたドアを通り抜け、柔らかく寝室の空気を攪拌する。 ドロワは大きく呼吸した。足音が聞こえた。男の身体が隣に戻ってくると、彼女は手を伸ばしてその腕に絡みつき、肩に額を寄せた。男の手がシーツを引き上げた。意識はまた急に、気づかぬ間に落ちていた。 ――PM11:02 今度こそはっきりと目が覚めた。背中が痛い。ベッドの上で伸びをすると、後ろから無骨な手に背中を押される。心地良かったのでしばらく身を任せていると、不意に伸びた手が胸に触れたので叩き落とした。 「いつものノリが戻ったじゃねえか」 「お陰様でな」 遮光を解除された窓の向こうには華やかなハートランドの夜景が広がっていて、この部屋で泥のように眠り込む前にもそんな光景は見ていたはずなのに、既に眠りの前の出来事が遠い昔のように感じられてならない。 ゴーシュが大あくびをしながら寝室を出る。裸の背中を見ながら、シャツは、と思う。ベッドの上でくしゃくしゃになっていた。床の上には自分のストッキングとブラジャーが落ちていた。ドロワはそれを拾い上げたが結局ベッドの隅に置くだけで、ゴーシュのシャツの方を羽織った。 「何か食うノリはあるか?」 冷蔵庫に頭を突っ込んでゴーシュが言う。 「少し食べよう」 返事をすると振り向いたゴーシュが小さく口笛を鳴らす。 「…なんだ?」 「いいや」 インスタントのリゾットをレンジにかける間、野菜室から皮が真っ黒になってしまったバナナを発見する。捨てるぞ、と言うと、馬鹿食うんだよ、とゴーシュが当たり前のように言った。 「腐っているのではないか」 「んな訳あるか」 確かに皮を剥いた中身は普通の色をしている。しかしドロワは懐疑的だ。 「美味いって」 ナイフで切りながらゴーシュが言う。ドロワも恐る恐る摘んだ。 「…甘い」 「だろ」 結局サラダにのせる前に食べ尽くしてしまった。 リゾットのボウルを抱えてリビングのソファに並んで腰掛ける。テレビを点けると二十四時間ぶりに見る上司の顔が画面に大写しになった。あまりにタイミングがよく、通信かと思ったゴーシュが目をきょろきょろさせたが実際にはただのニュース映像だ。続けてWDC本戦出場者へのインタビューが流れる。 「落ち着けゴーシュ」 口をついて出た科白が妙に懐かしく、やっと本来の自分が帰ってきた心地になる。 「仕事の話はなしってノリだろ」 ゴーシュがチャンネルを変えた。地球の裏側で行われているフットボールの中継ではドロワが首を振り、クラシックの演奏会ではゴーシュが首を振った。チャンネルは最終的にサバンナに生きる動物の生態を追ったものになる。 二人は空になったボウルをテーブルの上に放置したまま、ぼんやりとテレビを眺めた。いつもならどちらからともなくすぐに立ち上がって食器を洗う。ドロワは清潔なのが好きだし、ゴーシュは何にせよ身体が動いていないのが気にくわないからだ。しかし、二人ともソファから動かなかった。テレビの中でライオンが交尾するのを黙って見ていた。 ライオンの子どもが生まれる。毛玉がころころとじゃれる様を見てもドロワは表情を変えなかったが、無言でゴーシュの肩にもたれかかった。 「寝るか」 珍しくゴーシュから、明日も仕事だしな、という言葉が漏れた。 「寝るためには」 ドロワは呟く。 「食器を洗って、歯を磨いて、シャワーを浴びて、下着を替えて、洗濯をして…」 「クリーニングサービス呼ぶぞ。って言うかドロワ、お前もう着替えの一着くらい置いとくノリになれよ」 「前向きに考える」 二人はのろのろと立ち上がった。ゴーシュが食器を洗った。その間、ドロワはあちこちに落ちた服を拾い上げクリーニングに電話をする。電話の後で気がついて下着を脱いだ。 すぐさま玄関前にやって来たロボットに翌早朝仕上げの注文と料金を支払ったのはゴーシュ。ドロワは歯を磨きながら自分の好みの歯磨き粉ではないことを改めて認識する。専用のものが欲しい。シャンプーは特にだ。ちなみにコンディショナーはない。これも必要。 シャワーは二人で浴びた。キスだけをした。 「おい、オレのノリはどうしてくれるんだ!」 と叫ぶので浴室に一人残す。ドロワなりの優しさだ。 「覚えてやがれ、ドロワ!」 「覚えておく」 律儀に返した返事はそれなりに本気だ。 シーツを換えて、これもクリーニングに出せばよかったかと思ったが、別段早朝に出来上がるべきものでもない。ドロワはそれを洗濯機に入れて回し、清潔なシーツでベッドを作った。 どういう格好で待ち受けようと悩んでいる間にゴーシュはぶつぶつ言いながら浴室から出てきて、ドロワを指さす。 「本当に覚えておけよ」 ドロワは素直に頷いた。 ――AM1:21 おやすみのキスを初めてした。された。 四日目が終わる。
2012.2.19
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