蝶を殺す




 ぐっすりと寝込んだ女の背中を見ながら一向に押し寄せない眠気に疲労さえ覚える。
 ベッドはあたたかで、女の白い肢体に残る行為の余韻と熱は心地良かった。簡単だ、女の背を抱いて目を瞑ればいい。次に瞼を開いた時には朝になっているだろう。そう言い聞かせる。言い聞かせてもう一時間も経つ、だろう。
 時計は見ていない。時計は体内に組み込まれた歯車のようなもので、ゴーシュにはデジタルの数字も文字盤も必要ない。それはきっとこの女も同じはずだ。目覚めたい時間にぴたりと目が覚める。夢の世界を引きずることはない。
 今の眠りこそ必要だった。一晩眠らない程度で翌日の仕事に支障をきたしはしないタフさを持ってはいたが、出来るということと体調管理はまた別の話だ。
 ベッドを立ち去るのは、それがわずかな時間でもしたくはなかった。女を思ってのことなのか、女の体温にしがみついていたいだけの怠惰なのか、区別はつかない。それ程には疲労している。白い背中。覗き込むと呼吸にかすかに上下する胸。女の眠りは深い。
「ドロワ」
 囁いたが睫毛を震わせるほどの力もなかった。
 ゴーシュはベッドから下り、寝室を後にした。リビングの窓から見える夜景には目もくれず真っ直ぐキッチンへ進む。冷蔵庫には明日の朝食とビールが入っているのを知っていた。しかしそれにも手をつけることなく、キッチンの奥の戸棚を開いた。
 懐かしいウィスキーのビンがそこにはある。ゴーシュは久しぶりのそれを手に取りグラスに注いだ。懐かしい、今でも肌に馴染む香り。一気に煽ると、鼻腔に喉に、そして胃の腑に熱いものが染み渡る。
 ゴーシュは流しの前に佇み、じっと耳を澄ませた。冷蔵庫の低いモーター音。それから静けさ。静けさの中からふわりと浮き上がる高い音は神経の発するそれだ。血管が広がる。時速六十キロメートルでアルコールが全身を駆け巡る。肝臓が働き始める。それらに命令を出しているのだろうか。耳鳴りよりも更に高い、頭の中にだけ響く音。
 ドロワを、もう一度抱きたいと思った。ウィスキーを飲ませて、その味のする舌を貪りたいと思った。汚したいという欲かもしれなかった。この手で。
 昼間のそれは本当に衝動的なもので、何故ドロワがあんな顔をしたのか分からない。しかし潤んだ瞳が自分を見上げて吐息のように名前を呼ばれると、もう我慢をするという選択肢は残されていなかった。職務倫理を持ち出すだけ野暮であり、上司のクソメガネを殴り飛ばすことさえ出来ただろうと。昔の男に嫉妬して何が悪い。
 トイレに駆け込んでロックをかけ、そのドアにドロワの身体を押しつけた。タイトスカートをたくし上げる。パンストを膝までずり下ろしたがそれ以上の手間は省いた。
 次の一杯に口をつける。あの時のドロワの姿はフラッシュを焚かれた写真のように断片的にゴーシュの脳裏に焼きついていた。スーツで締めつけた胸をドアに押しつける様。手が助けを求めるように引っ掻く。身動きもままならない中、快楽に翻弄される姿。
 流し台についた手から這い上がる冷たさを感じながら、ふと思い出していた。後ろから自分のものを突きたて無我夢中だったあの時もそうだった。まるで自分ではないかのような冷静さが、頭の隅に湧いた。
 蝶を思い出していた。弟の集めた蝶の標本だ。あれが好きだったのは揚羽蝶だった。自分で採集し標本を作るのを楽しみとしていたあれ。自分の手で殺した蝶を一つ一つピンで留めてゆく。キアゲハ。ミカドアゲハ。アオスジアゲハ。黒い羽にに包まれた鮮やかな青緑の模様。半透明で美しく破れやすい羽を、一枚一枚、ピンで。
 蝶を殺す時の手つきを自分はしていたのではないか。ストッキングを引きずり下ろし、下着を下ろすのを待てずに股布をずらして柔らかな箇所を露わにさせた。蒸れた匂いと、自分の指を濡らしたものとが五感をぐちゃりと蕩けさせた。
 ああ、とゴーシュは呆然とした声を漏らした。キスさえしなかったのだ。五分か十分そこらの交接を終えがさがさしたペーパータオルで処理する時に改めて、ずらした下着とそこから溢れるものを見た。ゴムについて思い出したのは終わった後だ。ドロワはロックをかけたドアにぐったりと縋りついたまま、何も言わなかった。詰りもしなかった。が、あの時女の指は、そうだ、ドアから離れて自分の太腿をなでた。内股を伝うものに自分の指先で触れた。それさえゴーシュはペーパータオルで拭ってしまったが。
 下着を元に戻しストッキングを履き直し、自分はチャックを閉じてベルトを締め、手を洗った後は余韻も何もなく仕事に戻った。互いに何も言わなかった。黙ったまま、溜まった仕事を終えた後はこのコンドミニアムに直行した。
 服は全部脱いだ。キスもしたし、いつも以上にあそこを舐めた。ドロワが泣きそうになりながら首を振って自分を引き剥がすので何かと思うと、今度は彼女の手が自分の下半身に触れた。それは初めてのことだった。
 充分だろう、とゴーシュは繰り返す。充分すぎるくらいにやったんだぞ、オレたちは。それでも尚加速する欲望がゴーシュを眠らせない。
 ドロワを自分のものにしたい。
 好きだと言った訳でも言われた訳でもない。ただ、ドロワの最初の男になってしまったことでずるずると続いた肉体関係が、ここへきて本来身体を結ぶ前に持つべきだった何かに根を伸ばそうとしている。
 ゴーシュはビンから口づけにウィスキーを呷った。溢れたそれが口元を伝った。大きく息をつき、手の甲で拭う。
 女の泣く様を見たい。あられもなく泣く様を。全部食らうようにセックスをしたかった。実際には食らわれるドロワなど想像がつかず、終われば殺されるかなと思った。少し笑いが漏れて、疲労が溶ける。アルコールの力も手伝ってか頭が揺れた。眠い。待ちわびていた睡魔だった。
 ゴーシュはウィスキーを戸棚に戻さずシンクに残したまま、のそのそと寝室に戻った。ドアから射すかすかな光の中、女の白い背中はさっきと同じ体勢のまま横になっていた。ゴーシュはシーツの間に潜り込み、背後から女の身体を抱いた。
「ドロワ」
 耳元に囁きかける。
「ドロワ…」
 何を言うつもりだったのか、その先の声が漏れる前にゴーシュの瞼は閉じている。眠気が全身を重くした。意識が沈む。次に瞼を開ける時、真っ直ぐ浮上できるよう、ゴーシュは腕の中のぬくもりを抱きしめる。暗い海のような眠りの中で、女の身体は唯一のブイだった。ドロワ。自分が殺そうとした蝶。その羽音は、とうとう眠りに沈み込んだゴーシュには聞こえない。






2012.2.18