白にまつわる記憶の総て 背を向けブラジャーを手に取ると、不意にゴーシュの体温が近づいてきた。男は何も言わずシャワーを浴びたばかりの彼女の肌に手を滑らせる。洗い流したばかりの快楽の余韻が肌の下で震える。ドロワはそっと目を閉じる。 しかしゴーシュの手はドロワをシーツの間に引きずり込むものではなかった。彼はドロワが引っかけたままだったブラジャーのホックを留める。意外な手の優しさ。。ゴーシュのドロワに対する扱いは普段の彼の印象をよく裏切る。ドロワは胸に手をやり、形を整える。ゴーシュが背中からそれを見下ろしている。 「いつも黒だな」 「何が…」 「下着」 ゴーシュの手が肩紐を撫でて離れる。 「…だから?」 「似合うぜ」 振り返るとまだ服を着る気はないらしい男はベッドの上に持ち込んだワインに口をつけている。 「黒以外がいいのか」 「お、リクエストにノるか?」 「そうは言っていない。どうせ黒しか持っていない」 「へえ…」 ゴーシュはグラスを口から離して言う。 「意外なノリだな」 「…黒が?」 「スーツも白だ。てっきりお前は白が好きなノリかと思ったが」 「別に…スーツの色に私的好みは関係ないだろう」 二人の着るスーツは厳密には私物ではなく、官給品にも近い。フォトンの力を使うためMr.ハートランドから特別に渡されたものだ。 ドロワは狭いクローゼットの中、ゴーシュのそれと並んでかけられた自分のスーツを見た。自分の白のスーツ。ゴーシュの黒のスーツ。 「ゴーシュ」 名を呼び、手を伸ばした。ゴーシュは黙ってその手に自分のグラスを渡す。ドロワはグラスに残ったワインを飲み干し、息を吐いた。 ゴーシュがボトルを手に促す。ドロワは空のグラスの縁を指でなぞり少し考え込んだが、急にゴーシュの側まで寄ると彼の膝の間に座った。厚い胸に背をもたれ、また息を吐く。 椅子代わりにされたゴーシュは黙って空のグラスを満たした。甘い、白。 「白は…特別な色だ」 ドロワは呟いた。 彼の、Mr.ハートランドの選んだ色だ。 彼女が育ったのはハートランドシティ郊外に建つカトリック女子校の建物の中だった。元は修道院だった古い建物。高い煉瓦の塀に囲まれ、外界と隔絶された世界。完結した空間の中からドロワの記憶は始まっている。 両親のことは覚えていない。何故、離れて暮らすことになったのか、それとも最初からいなかったのか。学校には様々な少女が住んでいた。彼女達の中には両親と別れた記憶があまりに辛く悲しく、それをなかったものとして忘れる者もいた。 当時はその言葉もしらなかったが、おそらくあの場所は孤児院だったのだろう。言葉も概念もなかったが、ドロワはそれを幼い頃から感じ、知ってていた。だから自分もそうなのかもしれない、と思う。そしてそれで構わない、と思った。見つからないものを探しても仕方がない。この感性が冷血と言われる由縁なのかもしれない。 規則に縛られた規律正しい生活。起床時間も食事の時間も、その量も、髪の長さから結んだリボンの長さまで決められていた。制服も、大人達が着る服も全て黒だった。 煉瓦に囲まれたモノクロームの世界。 ARシステムの導入も遅れていて、授業は辛うじて電子化されていたものの、聖書や賛美歌の本は今では珍しくなってしまった紙製のものだった。神父の持つそれは、外装だけではなくその一ページ一ページさえ動物の革で出来ていた。 デュエルに関してはARシステムどころかソリッドビジョンさえなく、また授業の中でしかそれをすることは許されなかったが、休み時間には隠れてやる生徒もいた。彼女達は見つかり次第、酷く罰せられた。 ドロワはデュエルが得意だった。才能とは思っていない。教師が良かったのだ。 デュエルの授業を受け持つのは外部からやってきたボランティアの講師だった。白いスーツに身を包み、地味な眼鏡をかけた男。 その人こそ、現在のドロワの上司、Mr.ハートランド。 彼は早い内からドロワの能力の高さに気づき、何かと目を掛けてくれた。誕生日にはメッセージが特別なカードと共に贈られた。ハッピーバースデーの手紙はハート模様で、そんなものは他の生徒の誰も持っていなかった。 学校を卒業する年になり、ドロワは今まで自分の学資を援助してくれたのがMr.ハートランドだと知った。感謝の手紙を書くと、数日後、日曜日のことだ。デュエルの授業はないのに彼が学校を訪ねてきた。 「プレゼントをもらった」 ぽつりと呟くと、背中からゴーシュがプレゼント?と聞き返す。 「Mr.ハートランドから、白いドレスを」 真っ白な箱に赤いリボン。中には真っ白なドレスと帽子が入っていた。ドロワはMr.ハートランドに促されるままプレゼントを開き、中から出てきたものに目を丸くした。彼は言った。さあ、それを着てピクニックに出かけよう。 ドロワは初めて煉瓦の塀の外に出た。鉄の扉の向こう、モノクロームの世界の向こう側に待つMr.ハートランドは若葉のような緑のスーツを着て、白いドレスのドロワに手を差し伸べた。 春のうららかな日差しが丘に降り注いでいた。ドロワは男性と二人きりでいる時の作法に則り、帽子の薄いレース越しにMr.ハートランドを見た。日差しはいつもより眩しく感じた。目を細めると、彼が日傘を差し掛けてくれた。真っ白な日傘。淡い青空と萌える緑の大地の間で、彼女の纏う白は無彩色のそれではなく、何よりも彩り鮮やかな白に感じられた。 彼女は言った、Mr.ハートランド、私はこのお礼をどうしたらいいか…。 するとMr.ハートランドが立ち止まる。ドロワは興奮のまま先を歩き、ふと気づいて振り返った。 爽やかな風が吹いた。紅潮した頬はレースが隠してくれたはずだった。しかしMr.ハートランドにはとっくに見破られていた。これまでドロワは何度もMr.ハートランドとデュエルをしてきた。しかし一度も勝てたことがない。彼はドロワの心を読んでしまう。 Mr.ハートランドは両手を広げ、言った。 私と一緒に、私の世界へ来ませんか、ドロワ。私の手助けをしてくれませんか。私には君の力が必要です。この色とりどりの世界へ一緒に飛び立ちましょう。 「日曜日だった。気持ちの良い風にドレスが揺れた。白いレースの向こうにMr.ハートランドの姿が見えた。私はあの人の手を取った。私がMr.ハートランドのために働くと決意した日のことだ」 ドロワはワインで唇を湿す。 「暖かな日差し、白い陽光、白い日傘、白いドレス。白は特別な色だ」 「でも下着は黒か?」 「それはあの人から受けた恩を忘れないため」 モノクロームの世界での生活を忘れないため、黒で身体を締めつける。規則と規律がドロワの中には生きている。それがあればこそ、彼女は美しくMr.ハートランドの隣に立つための資格を得た。 急にゴーシュがグラスを取り上げ、ドロワの分のワインを飲み干した。男は息をつくと、低く切り出した。 「一つルールを決めねえか」 「ルール?」 「ベッドの上でMr.ハートランドの話はしない」 「何故」 「仕事の話だからだよ」 「……いいだろう」 ゴーシュの手はワインを遠くへ置くと、ドロワの下着を脱がしにかかる。少し乱暴な仕草で肩紐が外された。ホックが外れ、露わになった背にキスが降った。 ドロワの身体はベッドに俯せに倒される。脇腹に近い背中へのキスで、不意にゴーシュが名前を呼んだ。 「知っているか?」 「何を」 「ここに黒子がある」 軽く歯が立てられる。そこからじわりと痺れが走る。 「…知らない」 ゴーシュが嬉しそうに笑った。おかしな男だと思ったが口には出さなかった。何故なら男の仕草はそれからまた優しくて、ドロワには心地良く、文句などなかったからだ。
2012.2.17
|