3rd kind




 本物のエレベーターはどれも故障しているので凌牙は仕方なく乗った雨漏りのする鉄の箱で二十三時間を我慢しなければならない。それもこれも病院のビルは地下に深く、失認による無感覚を治療するためには凌牙は地下鉄よりも深い病棟の冷たく安定した空間でもとの体温を取り戻さなければならなかったからだ。三日三晩を吐血と吐瀉で苦しみ、それからブドウ糖注射で少しずつ体調を取り戻した後リハビリにかかった。理学療法士は極東デュエルチャンピオンそっくりの顔で右目がイカれており常に涙を流していた。顔は酷い具合に歪んでいたが根はいい奴だった。理学療法士の献身的リハビリテーションは凌牙の関節を動くようにし、彼が一人でも歩けるまでに回復させる。先日、松葉杖を卒業したので退院することにした。
 エレベーターの中は居心地が悪く、見送りにとついてきた理学療法士はベタベタと凌牙の身体に触った。雨漏りが凌牙の肩を濡らすのを懸命に拭っているのだ。
「凌牙、いいですか、カプセルの中身はどれも紛い物なんです信じてはいけませんよ。あなたが信じるべきは自分の目と耳だけです。自分の舌と掌だけです。本物はね、凌牙、いつもあなたが触れ得るものの中にしかないんです」
 理学療法士のキスはぬるぬるしていた。二十三時間の上昇が止まり、凌牙は黄金の朝日が照らす玄関へと歩み始めた。一歩ごとに足の裏から溶けたが構わなかった。もう少しだ、もう少しで病院の外へ出る。そこには遊馬がいる。遊馬の手さえ掴めばこっちのものなのだ。
 オレは真っ当な世界へ帰ることができる!
 という夢を見た。
 涎が枕を濡らしていた。凌牙はベッドの上に横になったまま低く呼吸を繰り返し、じっと天井を見つめていた。それは確かに自分の部屋の天井だった。見慣れた世界。自分の部屋。熱帯魚の水槽のエアーとヒーターの音が聞こえる。部屋の中は青白い。夜はまだ明けていないのだ。
 身体を起こすと酷く軋んだ。凌牙は裸のままの自分の身体を確認する。何故、裸なのだろう。こちらが夢ではないのか。時計を見る。午前四時三十六分。目覚めるには早い。確かに自分は先日病院に運ばれた。退院した記憶はない。というかまだ入院をしていたはずだ。いや、何故入院などしたのだろう。オレは歩道橋の下に倒れていた。何故?
 裸でいる夢は時々見るものだ。これが夢かもしれない。夢だと分かって見る夢なら自分の自由だ。覚めろ。夢から醒めるんだ。頭がじわりと痛む。これは現実か?裸で寝たから風邪を引いたのだろうか。
 水槽の中に魚はいない。先日までは黒い金魚が泳いでいた。水槽は一度壊れてしまったのだ。遊馬が逃げた。オレは遊馬に手錠をかけて遊馬を守ろうと…、ああこれは時々見る夢の続きだったか。夢の中で夢のことを思い出すと地図が混乱する。目を覚まさなければ。凌牙は水槽の水で顔を洗う。熱帯魚のための温度を一定に保たれた心地良い水。
 ざばざばと揺れる水音の向こうから、もっと連続的で音楽的な音が聞こえてくる。凌牙はバルコニーを振り返った。午前四時三十六分の青白い闇の中に雨が降っている。今日は雨か。学校に行くのがかったるいが、遊馬に会いたいから行かなければならない。学校でなら安全に確実に遊馬に会える。会えば向こうから寄ってくるのだ。あっさりデュエルを受けたら不審がられるだろうか。今日はデュエルをしたい。
 デッキを、と思い凌牙はふらふらとベッドに寄った。デッキケースの中身はこの前のままだ。こちらがナンバーズ対策をしているのは遊馬も知っている。裏をかこうとしてくるだろうから、その裏をかかなければ。裏の裏は表の正攻法と見せかけて、更にその裏。あいつに見せていないカードも戦術も、まだある。凄いだろう遊馬、その目でオレを見ろよ。シャークとオレを呼んで、きらきら光る目でオレだけを見ろ。
 シャークと呼ぶ声が聞こえて凌牙はバルコニーに出る。ビルの下に遊馬が立っている。真っ赤なレインコートを羽織って雨に打たれ、凌牙を見上げている。凌牙が名を呼ぶと人懐こい笑顔が浮かび、手を振られた。凌牙は迎えに行こうとした。待っていろと踵を返そうとすると、遊馬は首を振った。遊馬はその小さな身体でジャンプをし、ビルの壁面に設置されている非常梯子にしがみつく。身軽な動きだった。遊馬は何階分もの梯子を登り、凌牙の目の前に現れる。
「シャーク」
 レインコートを着ているのに遊馬の身体はずぶ濡れだった。凌牙は早く遊馬を部屋に入れてタオルで拭いてやろうとしたが、遊馬はやはり首を振る。
「シャーク」
 遊馬はレインコートを脱ぐ。その下は裸で、下着さえつけていない。
「シャーク」
 細い腕が凌牙の首を抱く。雨に濡れる腕、雨に滑る身体。凌牙はそれを抱きしめた瞬間に決定した。これが現実だ。いいですか、信じるべきものは自分の目と耳だけです。自分の舌と掌だけです。オレは遊馬を信じる。
 濡れる身体を押しつけられた時から凌牙のペニスは硬くなり始めている。凌牙が腰を押しつけると、遊馬も真似するように無心に自分のそれを擦りつけた。
「オレが欲しいんだろ、シャーク。もう全部やるよ。オレの身体は全部シャークのものだ」
 遊馬が言う。はっきりと、いつもの明るい口調で。色気も艶めかしさもなかったが、そこには事実だけがあって、遊馬は本来性器ではない箇所に凌牙がペニスを擦りつけてくるのも当たり前のように受け入れる。
「入れていいんだ」
 そう言いながら遊馬は自分の両手で尻を開き、顔を凌牙の胸に押しつける。
「そのために作ったんだから、シャーク」
 指で慣らしさえしなかったそこに凌牙は欲望のままペニスを押し込む。遊馬は内部を圧迫されて声を上げたが、その顔は苦しそうではなく寧ろ満足そうで、何度も身体を揺さぶった凌牙のペニスが根元まで全て埋め込まれるとにっこりと笑った。足の間からは血を流しながら。
「ああ……」
 凌牙は抱え上げた遊馬の身体をバルコニーに押しつけて更に自分と密着させた。ぬるぬると、雨に胸が滑る。
「すまねえ、遊馬」
「なにが」
「遊馬、遊馬…」
「オレが血を流したから謝ってるのか。違うよ、それはシャークのせいじゃない。オレが造形を間違えたんだ。もっと緩く作ればよかった。でもシャークに気持ちよくなってほしいのがオレの望みだったから」
 言い回しに違和感を覚える。間違えた?もっと緩く作れば?よかった?
 しかし疑問に掴みかかる前に凌牙の全身は快楽を最優先していて神経は全てそれに支配される。ペニスを心地良く締めつける遊馬の肉。
「遊馬、オレは…」
 腰が止まらない。血と雨がぐちゅぐちゅと音を立てるのを聞きながら凌牙は下半身だけでなく、その口でも遊馬を求めようとする。キスだけでは追いつかず首筋を噛むと、ああ、と陶然とした声がした。
「シャークはオレのことを食べたかったのか」
「オレのものだ、遊馬…」
「そうだよ。オレはシャークのものだよ」
 いつもより早い射精の予感がした。まだだ、まだ終わらせたくないと思ったが、加速する快楽も身体も止まることを知らず絶頂はあっという間に行為を終焉に導く。凌牙は細い首筋に強く歯を立てた。
「あ…ああ…」
 遊馬の声が急に情けなく崩れる。
「ああ、ダメだ…」
 遊馬の手が首から離れ、身体の間に差し入れられる。凌牙は目を落とした。そこで遊馬の腹から、たった今体内に放った精液が腹の上に滲みでて雫になり溢れ出すのを見た。
「ダメ、ダメ、ああダメだ、オレはこれが欲しかったのに」
「遊馬…」
「ごめんなシャーク、折角出してもらったのにごめん」
 雨が遊馬の腹を洗い流してしまう。精液がバルコニーのコンクリートの床にびちゃりと落ちる。
「遊、馬」
「ああ、ダメだった…」
 凌牙が抱えていた筈の遊馬の足が捻れる。その付け根から、あらぬ方向に捻れている。凌牙はそれを何とかしようとした。離れる…外れてしまう?抱きしめるとぐちゃっと潰れる音がして、足は凌牙の腕に抱き潰される。水色の水になってこぼれ落ちる。
「ゆ……」
 身体の中心を貫く痛みのような衝撃。腹に幾つもの鉄棒をねじ込まれたようだ。これはひどい、バックバージンを失った時より酷い痛みと衝撃。比べものにならない。これは何の悪夢だ。遊馬の足が潰れて水になった。
 夢、なのか。
「ああ」
 遊馬が残念そうな声を上げる。すっかり萎えてしまったペニスがずるりと引きずり出される。凌牙はそのまま水色の水たまりが満たすバルコニーに尻餅をついた。遊馬はバルコニーの柵に両腕で掴まったまま、なんとか片足で立っている。
「遊馬は…」
 がちがちと震える顎で凌牙は大声を上げる。
「遊馬はどこだ!」
「ここにいるよ、遊馬はここにいる」
 遊馬は優しく笑い、異様な傾きをした姿勢で掌を胸に当てた。
「オレは遊馬だ。遊馬の遺伝子、遊馬の塩基配列で出来ている」
「遊馬は!」
「オレは遊馬だよ、シャーク。多分それ以外の答えなんか、シャークは聞きたくない筈だろう?」
「聞きたくない!」
「そうさ」
 身体が揺らぎ、遊馬は凌牙の正面に座り込む。残された片足を凌牙に向かって伸ばし、リラックスした状態で気持ちよさそうに雨に打たれる。
「ごめんなシャーク、不完全なオレで。次はもっと上手く作るぜ。シャークが食べても平気なように作るよ。それとも再生しない方がそれらしいって感性?オレはシャークが望むようにオレを作る。オレは遊馬だから」
「もうやめてくれ…」
「元気出せよ。オレはもう行かなきゃいけないけど、オレは今でもシャークに触ってやりたいと思ってるよ。ああ、ほら」
 遊馬は右手でもう片方の腕を撫で、ドローするような思い切りの良さで引き抜いた。
「ちょっと長すぎたかな。でもこれでオレの手はいつでもシャークに触れる」
 嬉しそうに笑う遊馬が差し出したのは遊馬の左腕で、今し方腕を引き千切られた左肩の付け根はしかし美しい、断面でさえないつるりとしたフォルムを保っている。
 左手の指は艶めかしく動いた。
「やめろ!」
 凌牙は腕を伸ばす。両手が遊馬の細い首を締め上げる。噛みついた首筋には血の滲む歯形が残っている。間近で見る瞳は遊馬の赤い瞳、強い意志と底抜けの明るさできらきらと輝いている。まるで遊馬だ。遊馬だと言った。こいつは自分を遊馬だと。
 首はぎりぎりと絞まる。急に感触が。生身と無機物の合の子のような湿って乾いた音。骨が。遊馬の首ががくりと折れる。
「出直すよ。またな、シャーク」
 遊馬の笑顔がぐにゃりと溶け、不定形の肉の塊が水色の水になって弾ける。それはバルコニーから滝のように溢れ出し、雨に混じって流れ落ちた。尻餅をついた凌牙の膝の上、投げ出された左腕。左腕だけが残っている。
 凌牙はコンクリートの床に這いつくばり嘔吐した。水色の雨が背中を打つ。上階のバルコニーから滝のように水が落ちる。そこに遊馬の顔が浮かぶ。
 安心しろよシャーク、いつでも見てるよ。
 頭の中で声がする。胃液を何度も何度も凌牙は吐き出す。内臓さえ引きずり出して洗浄したい気分だった。凌牙は這いずりながら部屋の中に戻り、水槽の中に顔を突っ込んだ。ごぼごぼと泡を立てて口の中を漱ぎ、水を飲んだ。
 そしてまた、吐いた。






2012.2.15