真夜中、束の間の安寧の一瞬前の出来事




 夜のハートランドシティを見下ろすタワーの回廊で、女の横顔を見下ろした。
 街の灯は夜の空気をぼんやりと照らすが、ここからはいっそ月の方が近い。女の顔を照らすのは通路に灯る非常灯で、それは色の白いこの女の顔をいよいよ青ざめさせて見せた。冷血女め、血まで青いのだろうか。こめかみや首筋など静脈の浮くような場所は隠れているが、ゴーシュはスーツを剥ぎ取り髪をかき上げた女の姿を知っている。
 女は生真面目な視線で画面を流れる昨日――日付などとっくに変わってしまった!――の報告や、明日二日目のスケジュールを確認している。床が動く分足を動かさずにすむ、集中力は全てそこに注がれている。アイシャドーはブルー。唇に色はほとんどない。
「ドロワ」
 呼ばれて少しこちらを向いた顔に手を寄せると、彼女は急に驚いたような仕草でパッドを取り落としゴーシュの手を払った。
「おいおい」
 ゴーシュは落ちたパッドを拾い上げた。
「随分なノリじゃねえか」
「ふざけるな、ゴーシュ」
 ドロワはパッドを取り返そうと手を伸ばすが、ゴーシュはそれより先に右手を持ち上げる。瞳は大きいが鋭い目が睨みつける。まるで子どもの意地悪のような真似をするゴーシュを、視線だけで詰る。
「キスくらい」
 軽く諦めた溜息をついてゴーシュはそれを返した。
「いいじゃねえか」
「公共の場で」
 奪い取るようにドロワはパッドを取り返す。しかし、もうそれに目を通すことはしなかった。横顔が見えなくなる。ドロワは顔を逸らす。
「このような場でするような関係ではないだろう、私たちは」
 二人の関係。後ろめたい訳ではない。隠している訳でもない。しかしセックスはいつもホテルのベッドの上。互いの部屋を訪れたこともない。当然仕事のパートナーで、ついでにセックスもするが恋人だと思ったことはないのだ、ゴーシュもドロワも。
 キス。何故だろう。ベッドの上でもすることは多くない。ドロワはキスにもあまり慣れていない。ゴーシュも積極的にはしない。何故、今。
 大会予選初日。ナンバーズハントもさることながら、大会時刻終了後の美術館強盗事件にモノレール事故。全てが自分たちの管轄ではないにしろ、波乱が多すぎる。疲労がないわけではないが、まだ初日であることを考えると弱音を吐くにはまだ早すぎた。ただ…。
「悪かった」
 ゴーシュは短く詫びた。
 光の加減ではあるがドロワの顔色が青ざめて見えたこと、それに対する心配もないわけではない。しかし自分は少しなりとも女の身体に触れたかったのだとゴーシュは自覚する。あの柔らかな唇に少し触れてみたかった。
 お互いがしたいと思った時に。これは暗黙のルールだ。ベッドの上と外を区別するため。
 冷血女の冷静さに救われた、ということか。まったくこの女は自分を操縦するのが上手い。
 頭を掻きながら溜息を吐くと、不意に腕を引かれた。常ならばドロワの細腕に引かれる程度では動かない巨躯だが、動く通路の上で一歩たたらを踏んだ、慣性の法則に負けて身体が揺らいだ。
 連れ込まれた先は青白い電灯が灯り、漂ういやに清潔な空気に、トイレだなとすぐに気づきはした。スライディングドアの閉まる音。それから軽い電子音。ロックをかけた音だ。勿論、ドアを閉めたのもロックまでかけたのも、今自分に背を向けている女で。
 洗面台の鏡に、青白く照らされた二人の姿が映る。
「おいドロワ、一体どういうノリだ…」
 しまいまで発音する前にドロワの両手が伸びて頭を掴んだ。膝蹴りを食らわせられるほど怒らせたのか。
 その細い腕を掴んで逆に捻り上げることもできたが、ゴーシュはそれをせず、鼻を折らずに済めばいいがとだけ諦めた。
 痛みと鼻血の味を覚悟していたので、次に自分の顔面を包み込んだ感触は意外な、意外すぎるもので、まずそのことに違和感。それから少し慌てる気持ちが身体を妙に軋らせたが、ドロワはゴーシュを離さなかった。その豊満な胸にゴーシュの顔を押しつけて。
 スーツの上からも男を幸福にするその質量と柔らかさが分かる。せいぜい唇程度の柔らかさを望んでいたのに、思わぬ過剰摂取だ。
 おい、と胸に顔を押しつけたまま喋ると、ドロワが微かな声を上げいっそう腕に力を込める。そのまま顔を埋めておくのはやぶさかではなかったが、しかしゴーシュは顔を上げた。
「何のノリだよ、これは」
 彼女の前で背を丸めることもほとんどない。まして下からドロワの顔を見上げることも、ベッドに横たわった彼女をローアングルから仰ぎ見る以外、これは初めての経験かもしれない。
 青白い光の下でドロワはムッとした表情をする。
「お前が先に触れようとした」
「…で?」
「触らせてやっている」
 キスは駄目で胸へのダイレクトアタックが構わないという価値観、なのか?ここは感謝の言葉を述べるべきなのだろうか。
「お前はもう少し貞操観念を持った方がいいかもな、ドロワ」
「何を馬鹿な。持っていなければ…」
 ドロワは口を噤んだ。青白い光の中でも分かった。頬がかすかに朱に染まる。
 今こそキスをしたいとゴーシュは思った。おそらく相応しいタイミングのはずだ。しかしドロワはゴーシュの頭を掴んだまま手を離さなかった。
「ドロワ」
「目を閉じろ」
 名前を呼ぶのさえ遮るようにぴしゃりと命令される。ゴーシュは鞭を鳴らされたサーカスの獣のように従順に瞼を伏せた。
 右目の付近を撫でる、指。それから吐息。柔らかな感触。
 音のしない、押しつけるだけのキス。
 唇が離れドロワの手の力は緩んだが、ゴーシュは動かなかった。瞼を伏せたまま、今度は自分からドロワの胸に頬ずりをする。
「…こんなことをしてタダですむと思うのか」
 ドロワは答えない。
 沈黙の中、電灯の光が発する可聴域ぎりぎりの低い音だけが鼓膜を震わせる。
 名残惜しくはなかったと言えば嘘になる。ゴーシュはドロワの胸から離れると短く笑った。ドロワは今まで男の顔の触れていた胸を守るように腕を組んで顔を逸らす。
 ゴーシュは目の前でまた冷血の雰囲気を纏おうとしている女の手を取り、その甲に唇を触れさせた。ドロワはまた驚いた。小さく息を飲んで自分の手と、そこにキスを落とすゴーシュを見下ろす。
「ノリだよ、ノリ」
 ゴーシュは答えた。その胸に、右目の傷に降ったキスに感謝を感じていない訳ではないのだ。
 回廊に戻ると動く通路も停止し、街の明かりも減っている。ほんの数分の出来事だったのに。
 思い出した体でトイレに戻るゴーシュをドロワが振り返った。
「せっかくだから小便してくわ。先に帰れよ」
「私の前ではあまり下品な言葉は使わないでもらいたいな」
 不愉快そうにドロワは息を吐き、背を向ける。
「明日の時間は分かっているな」
「分かってるよ」
「では…」
 少し口ごもり、おやすみ、と付け加えてドロワは歩み去る。
 彼女の背中が回廊のカーヴの向こうに消えたのを確認してゴーシュはスライディングドアを閉めた。二秒ほど考え、自分もロックをかける。それから個室に入り更に鍵をかけた上で便器に腰掛けた。
 ただですむはずがない、当たり前だ。ただの女ではなく、ドロワの胸なのだ。
「いいノリしてるぜ…」
 呟く言葉も情けなくベルトを緩める。これで始末をして部屋に戻れば、きっと泥のように眠れるだろう。
 覚えとけよ、とは胸の中で呟いた。ともかく大会だ。この仕事が終わればどこか気兼ねのない場所で…。
 ドロワを部屋に呼んでもいい、とゴーシュは初めて思った。






2012.2.5