溢れかえる薔薇の勾配




 コンドミニアムに着くと何はなくともまず服を脱ぎソファの上をめちゃくちゃにしてからではないと落ち着くことができなかった。
 薔薇の花束が玄関から点々と赤いカーペットでも敷くように転がっている。リビングにどさりと落ちたものは白と黄色の華やかなそれで、たとえメッセージカードがなくても誰から贈られたものかは一目瞭然だった。しかしそれを受け取った女は何も持たない手で男の首を抱く。ハイヒールが脱げかけて、伸び上がるたびアンクレットが微かな音を立てた。
 バレンタインなど特に関係のある行事ではない、と。ドロワが用意したのはMr.ハートランドへの贈り物だけだ。義理チョコなどを配っていたら、ハートランドは男ばかりの職場である、キリがない。
 すると逆にそれを意識していたのは周囲だったらしく、商業主義的チョコレートを期待するよりも本質に立ち返った花束の贈り物が続々とドロワに届けられた。赤い薔薇で溢れかえった両手。ドロワはそれを抱えていたが、最後に届けられた黄色と白の花束には、両手に抱えていた全ての花束を取り落とした。
 しかしこの部屋に来て彼女はそれさえ取り落としたのだ。
 彼女にキスをする男は花束どころかバレンタインカードさえ用意した訳ではなかった。ただ、花束を抱いた彼女を見て、よかったじゃねえか、と笑っただけ。黄色と白の薔薇の花束を抱え、ほんのりと顔を赤くして微笑む彼女を見下ろして、ただ一言。
 なんと返事したものか黙って花束に顔を埋めると、ゴーシュの手が黄色の薔薇を一本摘んだ。手袋を外し棘を一つ一つ取ると、なにをするのかと見上げるドロワの髪にさす。
「いいノリじゃねえの」
 似合う、と三文字発音すればすむところを、ゴーシュは彼らしい言い回しでもって表し、彼女の足下に散らばった赤い薔薇を一つ一つ拾い上げた。ドロワもやっと自分が取り落としたものに気づいて慌ててしゃがみこむ。そして再び両腕を花束で一杯にしながら、今夜は男のコンドミニアムに行くと決めた。
 ソファの上、男は膝の上にドロワを抱いた。どこからともない視線を隠すように、脱いだ服が花束を覆っていた。
 手袋をした手が頬を撫で、ドロワはそれに噛みつく。するりと脱げたそれをソファの下に落とすと、ゴーシュはもう片手のそれを外し、床の上に放った。素手が胸の上から撫で上げ、ドロワはその厚い掌にそっと頬を寄せる。男はうっとりと息を吐く女の頬を撫でると、髪に潜り込んだ。
 取り上げられた薔薇。黄色い花弁が肌の上を滑る。
 くすぐったさを堪えるドロワの眉が切なげに寄せられる。彼女は薔薇を持った手を掴まえ、指の上にキスをした。棘の取られた黄色い薔薇を、細い指がソファから落とす。
 そうやってソファの上をめちゃくちゃにしてから二人はようやく落ち着き、片やシャワーを浴び、片や夕食と呼ぶには遅すぎる食事を作る。
 洗濯機を扱い、先にシャワーを浴びたのはドロワで、その間ゴーシュは半裸のままキッチンに立っていた。空腹を満たす簡単な食事。最近では冷蔵庫の中身にアルコール以外のものも増えた。
 出来上がった一皿二皿の料理を小さなキッチンテーブルに向かい合って腰掛け、平らげる。
「そういやチョコレートがあったぜ」
 ゴーシュが立ち上がり、冷蔵庫を開ける。
「…もらったものか」
「酒のつまみだ。チョコレートボンボン。そもそもオレの周りに女なんかお前くらいしかいないぜ」
「恋人はいないのか」
 驚いたようにゴーシュが振り向く。ドロワこそ意外だという思いを隠さず言った。
「いるものだと」
「お前がいるのに?」
 ゴーシュはチョコレートを箱ごとテーブルの上に置くと、キッチンを出てバスルームに向かう。その背中に、身体だけの関係だと思っていた、とはドロワは言わなかった。
 皿を洗い、先にベッドに横になった。耳を澄ますとシャワーの水音が通り雨のように遠く聞こえた。それを聞くうちにうとうととする。しばらくしてドアのスライドする音。隣に潜り込んでくる気配。シャワーを浴びたばかりのあたたかな身体。
 何も言わなかった。ドロワは静かに眠りに落ちた。

 肌寒さに身じろぎする。ふと目が覚めた。ベッドに一人いるのはいつもなら当たり前のことだが、この部屋ではシーツの海も妙に広すぎる。隣に手を滑らせると冷たいシーツの隙間、遮るものもない。ドロワは瞼を開き、男の不在を見た。
 寝室のドアは閉じているが、向こうに違う温度があるのを何となく感じ取ることができる。ローブを肩にひっかけ冷たい床に足を下ろす。皮膚の下からぶるっと震えた。
 スライドしたドアの向こうは柔らかい暖色の明かりに包まれていて、ソファにぐったりともたれたゴーシュの姿があった。
 床に散らばっていた薔薇は拾い上げられ無造作にテーブルの上。それからアルコールの空き缶。ビールがおそらく三本目。
「…起こしたか?」
 男が重たく掠れた声を出した。ドロワは首を横に振る。
「寒くて」
「ああ、悪い」
「お前こそ眠れないのか?」
 恥じらいもない素裸の男の隣に、ドロワはすとんと腰を下ろす。ゴーシュはぐったりともたせていた背を浮かせ手の中のビールをテーブルに置こうとした。それをドロワは途中で取り上げた。
 ぬるくなったビール。缶に半分ほど残ったそれを飲み干す。
 しゃっくりが出た。
 ゴーシュが笑いながら背を撫でた。
「明日も仕事」
 しゃっくりのせいで語尾まで言い切ることができない。
「先に寝てろよ」
「お前も」
 またしゃっくり。
「寝た方がいい」
 言い切ると、掌が子どもにするように頭を撫でてくる。
「心配すんなよ」
「心配を…」
 出そうになったしゃっくりを飲み干し、ドロワは言う。
「しているのはお前では、ゴーシュ」
「俺が、何の」
「さあ。お前の心の中までは分からない」
 ドロワは身体ごとゴーシュを向くと、少し膝を近づけた。
 掌で裸の胸に触れる。彼の右目の上を走るような傷が、身体にも残っていた。それをドロワは指先でなぞり、分かるものか、と呟く。
「肝心なことは何も言わないのだから」
「何が聞きたい」
「何も」
 ドロワは下からゴーシュを見上げる。
「お前が言いたくないことなど、何も聞きたくはない」
 身体を傾けると、伸びかけたヒゲが触れる。ちくちくすると思った時にはゴーシュの腕が抱き寄せていて、頬に触れるそれを避けることができなかった。
「なあ、ドロワ」
 顔が見えない状態で、声ばかりが真面目に尋ねる。
 何だ、と小さく返事をした。
「アレ、来てるのか」
 本当に、らしくないほど真面目くさった声だった。質問の内容もともなって、いっそドロワは呆れたほどだ。
 来てないと言ったら、と思わせぶりな返事をしてやることもできるが、果たしてゴーシュはどんな反応を示すのだろうか。それで狼狽する様もあまり見たくはなかったし、だからと言ってじゃあ結婚するかと言い出すようなノリでもない。むしろ本来ならこうあるべきなのに、この男は。
 黙っていると、そうか、と呟かれて少し慌てて否定する。
「先月、来た」
「いつ」
 ゴーシュは思わずだろう聞き返し、すぐに、いやいい、悪かった、と軽い謝罪を口にした。
「そうか…」
 さっきとは違う、そうか、の言葉。
「まさかそれが心配の種だったのか」
 ドロワは抱擁から逃れると、強い視線をゴーシュに向けた。怒っている訳ではないが、心に妙な波が立つ。
 ゴーシュはその視線を受け、テーブルの上に手を伸ばした。
 起動音と共にARの画面が現れる。ゴーシュは一枚の電子書類を表示させた。
「ノリでこんなもん用意したんだが、出すノリを逃して…ノれてねえなんざ俺らしくねえ」
 最後は苛立たしげに呟く。
 テーブルに溢れかえる薔薇の花を背景に透かした婚姻届を、ドロワはじっと見つめた。
「…私に子どもができたと思ったからか」
「だとしたらお前に失礼な話だよな」
 まあ、考えたぜ、とゴーシュは正直に答える。
「計画通りなんざクソ食らえだ、オレはノリでやってくのが好きなんでな。あの時お前と寝たことも、関係が続いたことも後悔しちゃいねえ。…が、順序を間違えたかと思わなくもねえぜ、今は」
 ゴーシュは婚姻届を画面から消し、ARヴィジョンを終了させる。
「お前が、好きだと言うのを待っていた。ドロワ」
 低く、ゴーシュは笑った。
「このノリ、笑ってもいいぜ」
「…何故」
「滑稽なノリだからだよ」
 ドロワは男の身体を突き飛ばすとソファの上に押し倒した。驚くゴーシュの上に、のしかかる。
 私は、と呟きドロワは眉根を寄せた。
「お前が言ってくれるのを待っていた。私には、私の感情など、解らないのだから」
 指先でドロワはゴーシュの裸の胸に署名する。その上に口づけようと身体を傾けたが、唇は震え、結局触れられなかった。ドロワは歯を食いしばり、顔を背けた。
「解らない」
 いつかの夜のように彼女は囁いた。
「解らない…」
「ドロワ」
 顔を隠す髪を無骨な指が梳く。
 視界が拓けゴーシュの顔が見えた。
「お前が好きだぜ」
 みるみる体温が上がるのを感じる。
 重ねてゴーシュは言った。
「きっとお前も同じノリだろ?」
「私が…」
 震えてしまう声を抑えようと、小さく小さくドロワは囁く。
「ゴーシュを…」
 好き…?という囁きは今にも掻き消えそうなほどに掠れていた。
 今までに何度も、今夜も身体を重ねたのに自分は気づかなかったのだろうか。解らない。好き。解らない…。
「私は…」
 急に視界が潤む。
「解らない、か?」
「ゴーシュ」
「もう一度言えよ」
「何を…」
「解らない、ってもう一度言え」
「ゴーシュ…」
 涙が散った。穏やかに微笑んでいるゴーシュの顔が見えた。
「あなたが」
 ドロワの手はもう一度裸の胸を撫で、心臓の上に押しつけた。
「好き」
 ゴーシュの手が腕を滑った。胸の上に崩れ落ちると、その手は優しくドロワを抱いた。皮膚の上から熱を溶かすようにゆっくりと背中から腰を滑る。
 耳元で名前を呼ばれた。
 二人はもう時計を見なかった。色とりどりの薔薇も振り返らなかった。二人で寝室に入り、それからぴったりとドアを閉じた。






2012.2.14