狼と色気 永遠の月夜のような光が満たすその部屋にはオペレーターロボットが集積した膨大なデータが流れ込む。暗闇に何重にも青白く浮かび上がる電子書類。ドロワの指先は丁寧に、だが手早くそれを分類すると重要なものには署名してMr.ハートランドへと送る。 書類が一つ姿を消すごとに、部屋は静かな暗闇に満たされる。ドロワは最後の書類をMr.ハートランドに宛てて送信した。センド・コンプリートと告げる無感情な電子音声。Mr.ハートランドの文字が暗闇に溶けるように消え、残るのは彗星の尾のような淡いノイズだけになった。永遠の月夜から宇宙の底のような闇夜へ。 ドロワは最後の文字の消えたあたりをぼんやりと眺めていたが、不意に響いた硬い音に振り向いた。マトリクスの緑色の光が滝のように流れ落ち、それまで形作っていた世界を崩壊させる。拡張現実の向こうに確かに存在する窓が反射率を変えて本来の窓としての機能を果たす。その向こうに広がるのは色とりどりの光に彩られたハートランドシティの夜景と、星空。 「勝手に開けるな」 首を巡らせ、足音の響く暗闇に向かってドロワは言った。 「終わったんだろ」 返す声はMr.ハートランド以上に顔をつきあわせることの多い相棒の男。 「それに勝手に部屋に入るなと言ったはずだが、ゴーシュ」 「かてえこと言うなよ」 ゴーシュは窓明かりの中まで歩を進め、その姿を現した。 「お前こそ、仕事は終わらせたのか」 「あたりめえだろ」 尋ねずとも察しはついていた。性格は自分と正反対で何かと無茶もする男だが、ゴーシュは決してルーズではない。自分の仕事も終わらせず自分のところに来ることは考えづらい。 ゴーシュは首を鳴らしながら、やれやれという声を上げる。 「とっとと帰ろうぜ」 暗闇に浮かび上がる時計の数字は夜景を楽しみ夕食を摂るには遅いものだった。 「私はいい」 「いい…ってお前」 「この時間では帰るだけ不経済だ。ここで仮眠をとる」 「おいおい」 「服はクリーニングに出す。お前に文句を言われるようなことでもないと思うが」 「そうじゃねえけどよ、これで何日目だ」 WDCを前に仕事の量は増える一方だ。一日が二十四時間では足りない、とまでは言わないが自分の部屋に帰り寛ぎとプライベートの時間を確保するのは大会が終わるまで無理だろう。 そもそもドロワにとってはこの仕事こそが生活の中心であり、プライベートを求めずとも適度な食事とベッドの上での睡眠さえとれればよい。 「まだ三日目だが?」 「感覚麻痺してるぞ、それ。女だろうが、ちったあ気にしろよ」 「乱暴な理論だな。なら私が男ならば問題ではなかったと?」 「まあ、男なら気にしねえな」 あっさりとゴーシュは答える。 「…お前の服は」 「クリーニング頼みはお前だけじゃねえぜ」 「私も家に戻れば洗濯くらいする」 くだらないおしゃべりばかりでゴーシュは立ち去る気配がない。その間にも夜は更けてゆくのに。 ドロワは首を振る。 「私のことは構ってもらわなくても結構だ。お前は早く帰ったらどうだ、ゴーシュ」 「家に帰るノリってのは大事だぜ?」 その時、ああ、と手を叩く。 「オレの部屋に来るか」 予想外の科白にドロワはあきれ顔を隠さずゴーシュを見た。 「…それは…それより部屋まで送るという提案が先ではないか?」 「じゃあ送って行くっつったらどうしたよ」 「わざわざ送り狼の餌食になることもない」 「だろうぜ。それにお前のマンションよりオレんちの方が近いじゃねーか」 「だからと言って私がわざわざ狼の巣に飛び込むと思うのか」 「ほう。ってことは、お前にはオレが狼に見えるのか」 近づきニヤニヤと笑うゴーシュを見上げ、ドロワは呟く。 「ケダモノ」 ケダモノと呼ばれた男はそれに反論せず、一歩下がるとドアへの進路をドロワに拓いて示した。 互いの個人情報はそれなりに把握している。しかしタクシーが二人を運んだコンドミニアムはドロワの把握していない、ということはおそらくMr.ハートランドも知らないであろう場所だった。ハートランドの塀の内側にありながら、そこを統べる人物に知られることなく個人資産を持つことは、本来ならば不可能だ。 「秘密基地」 男は悪戯っぽく笑う。 ビルの上階。眺めがいいどころか、ここから職場とするタワーを見張ることもできる。 「…いいのか」 ドロワは壁の一面を占める窓の側をゆっくり歩きながら言った。 何が、という声が背後から飛んでくる。 「バレたら事だぞ。造反も疑われかねない」 「お前が口を噤んでれば何も問題ねえよ」 ほら、と渡されたのはタオルとバスローブ。 「…何だ、これは」 「シャワー使うだろ」 当たり前のように言ってゴーシュはバスルームを指さし、自分はキッチンに向かった。何かと思って目で追うと冷蔵庫からビールを取り出して呷っている。 ドロワはその背中と、暗いバスルームを見比べた。 「…どうした」 視線に気づいたのかゴーシュが振り向く。 「いや…」 「とっとと入れ。後がつかえてる」 ドロワは相手に分からない程度の溜息を吐き、バスルームに進んだ。 脱衣場と洗面台が思いの外清潔で、ホテルにでも来たようだが、例えば剃刀や歯ブラシなど、確かにここはゴーシュの生活空間なのだ。そこで服を脱ぐのは妙な気がする。これからシャワーを浴びようというのに心臓の音は早かった。別段、そんなことを期待して来た訳ではなかったのだが。 並ぶボディソープもシャンプーも男の使っているものだ。ドロワは泡を洗い流すのに敢えて冷たいシャワーを浴びた。 バスローブは元々ホテルのもののようだ。ベルトにロゴが入っている。冷たい身体にそれを羽織り、髪をタオルで拭く。服がなかった。 「ゴーシュ、私の服は…」 語気を強めがなら洗面所を出ると床にしゃがみ込んだゴーシュの背中が見えた。 「ゴーシュ?」 「この部屋で洗濯機を使うのは初めてだ」 妙に静かな声でゴーシュが言った。 「私の下着も? 勝手に?」 「今更照れるか?」 立ち上がった男は上着を着ていなくて、まさか一緒に洗ったのだろうか、とランドリーの円い窓を見つめたが、それを察したのか、心配すんなよ、という声がかけられた。上着はリビングのソファにかかっている。 「お前も何か飲むか。腹減ってるなら…」 「いや、いらない」 「じゃあ寝室はあっちな。ベッド使えよ。オレはソファで寝る」 「それでは…」 躊躇いの声を漏らすと、またにやりとゴーシュが笑った。 「…一緒に寝るか?」 その時ドロワが見せた彼女らしからぬ狼狽はゴーシュまで戸惑わせた。 「おいドロワ」 「私は本当に、そんなつもりでは…」 まあ期待しなかったかって言われれば嘘になるけどよ、とゴーシュは呟き、顔を赤くして俯いたドロワを見下ろす。 「…お前が心配するとおり、私は疲れているのかもしれない」 「かもな」 「明日も早い」 「分かってる」 こめかみにキスを一つ落としてゴーシュが離れる。 「狼さんから一つ忠告だ」 バスルームの手前で男は振り返った。 「寝室には鍵がかかる。いくら何でもそれを壊して入りゃしないぜ」 返事を待たず男の背中はバスルームのドアの向こうに消える。残されたドロワは深く深く息を吐いた。 ゴーシュがバスルームから出ると電気は消え、リビングは仄暗かった。 まず寝室のドアに視線をやる。ドアはぴったりと閉じていた。ということは鍵もかかっているだろう。わざわざ確認することもない。そもそも今夜はソファで寝るつもりだったのだ。 ランドリーの唸る低い音。ひたひたと自分の足音。静けさが際立つな、と冷蔵庫の前に立つ。もう一本ビールを流し込んで深く眠ろう。十分だ。 「飲み過ぎではないのか」 暗闇から声は静かに滑り込む。 「そうでも…ねえだろ」 ゴーシュはちょうど掴んだ缶を軽く振る。 「まだ二本目…」 しかしそれを冷蔵庫に戻し扉を閉じる。淡いオレンジ色の光が閉ざされて、また夜闇が蘇る。 「何故そこにいる、ドロワ」 ソファに静かに腰掛けたドロワは人形のような無表情さでゴーシュを見た。 用意された言葉はない。解らない。ただ、解らない。 ゴーシュの裸体を目の前にしてももう動揺がなかったのは、別段それを見慣れているからという理由ではなく、この胸を満たす解らないという思いだった。表情も敢えて冷たく作っているのではない。感情の制御が上手くいかず、ただそんな表情しかできないのだ。 「解らない…」 ドロワは呟いた。 「お前がこのままドアの外につまみ出しても、私はそれでも構わない」 「そんな格好で…」 「ゴーシュ」 背を丸め、ドロワは口元を覆う。 「私は、解らない」 ゴーシュは黙って近づくと、女の細い身体をソファから抱え上げた。触れられた瞬間ドロワは身体を固くしたが、抗いはしない。寝室の前に立つとセンサーが働きドアがスライドする。その向こうは殺風景な寝室。ぽつんとそれしかないベッド。今まで身体を重ねてきたホテルのように、特別美しい夜景が見下ろせる訳でも、いかがわしい色の照明が灯っている訳でもない。しかし、ドロワの心臓はまた早くなる。 冷たいシーツの上に身体を投げ出され、すぐ男の巨躯は覆い被さってきた。 「ドロワ」 耳元に囁かれる名前。 「お前は……」 暗闇の中で二人は見つめ合う。 互いの吐息が聞こえた。しかし言葉にはならない。解らない。それはゴーシュも同様だった。判断も決断も早い、何でもノリでこなしてしまうこの男が解らないという言葉を胸に抱いて苦い顔をしている。 ドロワはバスローブのベルトに手を掛けた。その上からゴーシュの手が掴む。ほどけば、解らないままに二人は混沌の中に落ちることとなる。 交わる視線。ドロワの息が微かに震えているのをゴーシュも、それに本人も分かっている。 二人は混沌を選んだ。 解らないという思いの先にある、真実かもしれない言葉を口にするよりも。 半身を起こしたドロワがバスローブから袖を抜くのを待たず、太い腕は細腰を抱き寄せた。キスに、ドロワは抗った訳ではなく、息のできない苦しさとからまったバスローブから自由になると、ゴーシュの髪を強く掴んで自分から唇を重ねた。拙いキスが強くゴーシュを求める。もう言葉の出る幕はない。 荒っぽく身体に噛みつかれる。ケダモノと呼んだ男、狼を自称した男は本当に獣じみた仕草でドロワの肌に歯を立て、震える反応を求めて舌で探った。ドロワは懸命に声を殺したが、足の付け根に与えられたキスに制御の最後の糸は切れた。 泣き声にも似た声が口から漏れる。ドロワは耳に飛び込んできた自分の声に反射的に羞恥を感じたが、もう身体は言うことをきかない。 低く唸る声はゴーシュのものだった。いつもは余裕さえ持って、ドロワを気遣いながらされる行為に、今回は合図さえなかった。ただ唸り声に表された前兆。猛る獣はドロワを征服にかかる。 最初の時の痛みを思い出す。あれから自分の身体は女の快楽を教えられたのだとドロワは感じた。そして今自分の上に乗った男がもたらすもの。痛みと強く揺さぶられる勢いに、爪を立てしがみつかなければならない。男の身体は頑丈で、爪を立てるドロワの手さえ受け入れる。 男の快楽を、今、ゴーシュは感じているのだろうか。 身体の最奥にそれを感じながら、ドロワは降ってくる荒い息に同調するように大きく息をする。ゴムを着けていないことに気づいたのがどの瞬間であれ、二人はもうそれを問題にしなかった。無計画であり無秩序の混沌。隔てるもののない熱と快楽。ドロワは自分の上に重たく沈み込んでくる男の背を抱く。腕で、掌で。そして自分の胸に受け止める。 そうすることが心地良かった。今なら素直に好きだという言葉が出たが、ドロワは浅い呼吸を繰り返しながらただ黙ってゴーシュの汗まみれの身体を抱きしめた。 翌朝早く目覚めた二人は互いの身体に残る情交の痕にはコメントせず、ベッドから降りた。 ドロワがシャワーを浴びる間にゴーシュは汚れたシーツをランドリーに突っ込む。冷蔵庫にはビール以外にも何とか二人分の朝食になりそうなものが入っていた。 乾いた服を持って脱衣場に行くと、ちょうどドロワがバスルームのドアを開けたところだった。向こうから流れ込んでくるひやりとした湿り気。身体を冷たい雫が滑り落ちる。 ゴーシュが手を伸ばすとドロワは少しびくりとした。彼はちょっと笑って、指の背で冷たくひえた女の目元を拭った。 「あたたまってこい。風邪引くぜ」 ドロワはゴーシュの手から自分の服を受け取り、黙って頷いた。 清潔な服に袖を通し、ぎこちない朝食を摂る。窓の向こうでは朝日が昇り、目覚め始めたハートランドをきらきらと照らし出した。ドロワは朝食を摂る手を休めて、それを見つめた。 「悪くないだろ」 「えっ」 唐突な言葉にドロワが聞き返す。 「この部屋」 「ああ…そうだな」 エッグトーストを指先でいじりながら呟く。 「悪くない」 「オレも」 ゴーシュは品なくトーストを口に入れて喋った。 「お前がいるのも悪くないノリだと思ったぜ」 ドロワは、あのまま職場に泊まり込んでいたのでは決して見なかっただろう朝日の新鮮な光を浴び、そっと目を伏せた。 「悪くない」 「ああ」 ドロワの囁きにゴーシュが同意する。 朝食を終えた二人は揃ってコンドミニアムを出た。昨夜はタクシーを使ったが、歩いても十分辿り着く距離だ。 しばらくはひとけのない朝の通りを並んで歩いていたが、不意にドロワが一歩先を行った。 「ありがとう」 表情を隠して言われた一言に、ああ?と思わずゴーシュは声を上げる。 ドロワが振り向く。 「十分休むことができた。感謝している」 「…皮肉か?」 次の瞬間、細い身体がぶつかってきて胸の上にキス。 服越しに触れ得なかった感触の代わりに、昨夜背中の皮膚を破った爪が上着の上から軽く食い込んで、離れた。 「ただし今度から下着をランドリーにかける際はネットを使ってほしい」 「往来でンなこと言うな」 ドロワはくるりと背を向け、ゴーシュの先を歩く。 昨夜自分が洗った服。全自動の機械に任せたのだが、スーツも、タイツも、その下に彼女が身につけている下着も。 その背中を見つめ、ゴーシュは聞こえないように呟く。 「今度から、なあ」 歓迎するところでは、ある。 ゴーシュは大股になりすぐドロワに追いつくと、その隣に並んで歩いた。いつもの彼らのように。Mr.ハートランドの片腕、ゴーシュとドロワとして。
2012.2.13
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