両手の隙間を、埋めて




 ホテルの部屋の、殺菌されたような空気は自分たちが入ってくるまでなにがしかのことがあったのだろうと想像もさせるが、しかし驚くほど無臭で、その無臭が自分とゴーシュのセックスの記憶ともうすっかり結びついてしまっている。
 ドロワはスーツを脱ぎハンガーにかけながら、早速浴室に踏み込んでいく全裸の男を見る。服は床に脱ぎ散らかされていて、ドロワはそれを片付けない。ただ傍らに佇んでじっと見下ろす。暗い臙脂のコート。自分を抱く男の服。
 男は烏の行水であっという間に浴室から出てくる。湯を滴らせたままなのを咎める余裕が出てきたのは最近のことだった。それまでは気づきもしなかった。床の上の濡れた足跡。隆々とした背中。相変わらずの全裸。
「ゴーシュ」
 声をかけ、バスローブを投げる。
「せめてこれくらい着ていろ」
 ニヤリと笑うだけで男は答えない。ドロワも相手が素直に従うと思っていない。ガラス越しの浴室で自分が下着を脱ぐ姿まで見られているが、もう照れはなかった。それ以上に無様な姿もみっともない姿も見られている。ガラス越しの視線は刺さるそれではなく、ふと逸らされる。テレビの音が聞こえた。
 自分がシャワーを止める頃、背後の明かりが落ちている。ベッドサイドの小さな明かりだけ。腰掛ける男の姿はシルエットになっている。まだテレビを見ているが、背中は自分に気づいている。
 ドロワはベッドの反対側に腰掛けた。テレビが消えた。やることは一つしかない。自分だって着たばかりのバスローブを脱いでいる。相手は自分が投げて寄越したそれに袖を通してもいない。
 ゴーシュとこれをするのが苦痛、ではない。嫌い、ではない。ただ自分はこの男の身体しか知らないから、これがいいのかどうか分からない。ゴーシュはドロワの最初の男だ。
 最初の夜を覚えている。二人組んでやる仕事で初めて失敗した。ドロワは自分の判断ミスだと報告しようとしたが、ミスター・ハートランドの前に出るとそれより先にゴーシュが連帯責任を口にした。その夜初めて仕事の後の時間を共にし、飲み、アルコールは嗜む程度でしかなかったドロワはひどく酔った。肩を支えられて歩きながら、どこかで休憩したい、と言った。連れ込まれた先がホテルだった。
 ゴーシュ曰く、自分の科白は誘っているようなものだという話だが、飲み過ぎで今にも吐きそうな人間がそんなことをするものだろうか。ベッドの上に組み伏せられながら言い合いをして、また吐きそうになったので薬をもらい水を飲んだ。
 その時、思わず本音を言ってしまった。仕事でのパートナーは仕方ない、しかしこんな関係になるのはごめんだ。それ以上にこんな場所でうっかりしてしまうのが嫌だ。実際の言い回しのどこかで自分が処女であることがバレてしまい、もう消えてしまいたかったが、それに対してゴーシュの第一声が。
「うわ、めんどくせえ」
 だったのである。
 男にとって処女というものがどれほど価値あるものかドロワには分からないが、とにかくゴーシュにとっては面倒だったらしくそれで完全に彼は自分の上から退いた。
「マジか」
「…悪かったな」
「別に悪いってこたぁねえけどよ」
 しかしやる気は失せたのだろう。ベッドの上に胡座をかき、溜息を吐く。ドロワは薄く開いた瞼の隙間からゴーシュを見た。あの時は、服を着たままだった。靴さえ脱いでいなかった。もし自分がOKをしていたら、一体どのタイミングでそれらを脱いだのだろう。ドロワは瞼を伏せる。目元が熱かった。何故か涙が滲んでいた。
「泣くなよ。馬鹿安心しろ。嫌がる女を無理矢理襲うなんて真似はしねえ」
 泣いてなどいなかったが、溢れた分の涙は拭った。
 結局、その夜寝た。ドロワから、いい、と言った。ゴーシュは目に見えて喜びはしなかったが、据え膳はいただくということか、まずいただきますとでも挨拶するようにキスをされた。
 あの夜の痛みは慣れた今でも忘れられない。しかし感じるているそれを脳が痛みではなく何か別物として認識し始めている。すると同じ脳が思い出す最初の夜の痛みも、思い出すたびに変質する。ドロワはそのたびに自分の心を自問する。あそこで、いい、と言ってしまったのは投げやりになっていたのか、それとも自分は心の底でこの男に惹かれていたのだろうか。ドロワの内面は揺れるが、ゴーシュは全く変わらないように見える。仕事では仕事の関係。ベッドの上ではそれなりの関係、だ。
 面倒だと言いながら、結局ゴーシュはドロワの身体を粗雑に扱ったことなどないのだ。
 今夜もゴーシュの手にされるがまま、ドロワはベッドの上で身悶える。熱血で、なんでもノリだとか言って済ませてしまうこの男の仕事はしかし存外丁寧だ。触れ方がまるで違う。ドロワは自分にトルソがあり四肢があり首があることを忘れてしまう。身体はあるようでない。自分を違う世界へ誘う感覚が神経も心も翻弄する。まさしく溶けるような心地だった。
 いいか、と低い声が尋ねる。その声に不意に現実に戻される。ゴーシュは必ずその時になると尋ねる。言葉であったり、たまには名前を呼ばれたり。最初の時、ドロワが緊張していたからかもしれない。尋ねられると、その時の緊張がほんの少し蘇る。
 ドロワは瞼を開き、かすかに頷いた。すると男の手がまるで子どもにするように自分の額を撫でる。似合わない優しさを受ける自分が恥ずかしくて、ドロワは目を閉じる。小さく息を吐く。
 いい、のかどうか。
 よく分からない。痛みであると同時に痛みでない感覚。傷口を爪で掻くようなクセになる痛み。自分の身体が女として作られていることを奥まで実感する。痛みとそれとは異質の感覚は波のように交互にドロワを襲い、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。溺れそうな苦しさ、気を失う寸前のような心地良さ。紙一重のそれを生み出すのが自分の身体とゴーシュの身体だ。
 ドロワは瞼を開く。するとゴーシュが動きを止めて自分を見下ろした。荒い息が聞こえる。手が伸びてきてさっき自分の頭を撫でたように、優しく目元を拭う。泣いてなどいないはずなのに。
 曇天の海のような暗い青の双眸が見下ろす。ふと、右の眉を横切る傷痕が目につく。
 今までそんなことをする余裕がなかった。ドロワは初めてその顔に手を伸ばした。
 自分が冷血ならば、それに対して熱血。柔であれば、対して剛。右であれば、対して左。
 女、対して男。
「ゴーシュ」
 囁くように呼んだのは心の痙攣、譫言のようなものだった。
 呼ばれた男は不思議なものでも見るような顔をした。なにかおかしかっただろうか。だってドロワは知らない。普通の男女がどういうセックスをしているかなんて。ドロワはゴーシュしか知らない。
 目を伏せようとすると、急に太い腕が抱きしめた。頭を抱え込まれ、耳元で熱い息が囁いた。
「お前、最高だな」
 急にドロワは鼻の奥になにかを感じ取る。これがゴーシュの汗と自分の汗がまじってしまった匂いだと知る。そう知った瞬間に胸になにかがこみ上げて、駄目だ、と反射的にそれを抑え込もうとしたが、それを遮るかのようにゴーシュの唇が重なった。また無骨な指が目元を撫でる。泣いていない、という自信がもう持てない。縋る相手は、自分の上に乗ったこの男しかいない。ドロワは腕を伸ばしてゴーシュの首にしがみつく。
 夜を、重ねる。
 アルコールも少し強くなった。それでもたまに休憩に入る。ベッドの上ではそれなりの関係。ベッドから下りれば、また仕事の関係だ。だからベッドの上にいる間は。
 ドロワはゴーシュの胸の上に伏せる。右手を伸ばすと、相手の左手の上を辿る。大きな掌の上に自分のそれを重ねて、ドロワはちらりとゴーシュを見上げる。指が一本一本絡み合い、軽く繋がれる。
 休憩、ではなく朝まで。二人は少し眠ることにする。






2012.1.10