パラノーマル・キス モニターに浮かんだ再生ボタンを押すと図の中を赤い液体が流れる。遊馬は久しぶりに自分の部屋に下り、宿題のため学校の教科書にアクセスしていた。 心臓から肺へ。肺から再び心臓へ。そして酸素を一杯のせた真っ赤な血液が全身へ。人体図に触れ、見たい部分を拡大すると、血液が血管を流れる映像を見ることができる。遊馬が掌の映像を拡大すると、そっくり手の形に毛細血管が張り巡らされているのが分かる。うわ、すげー、気持ち悪いけどすげー、と声を上げ、遊馬は自分の掌と毛細血管の映像を見比べる。 くるりと振り返ると背後に浮いていたアストラルと目が合う。遊馬はちょっと笑って、天井の明かりに向けて手をかざした。 「…何だ、それは」 自分と遊馬の間を遮るような掌を見下ろし、アストラルが尋ねる。遊馬は、ん、と返事をして目を細めた。 「アストラルも見る?」 そう言われれば好奇心もあるらしいアストラルは一瞬天井の明かりを遮り、空中を泳ぐように遊馬の隣に下りてくる。 「分かる? 透けて少し赤いだろ」 もう片手の指先でなぞって示す。 「皮膚のすぐ下に血管があんの。で、血が流れてるんだぜ」 「血液…」 アストラルはつられるように自分の掌を電灯にかざす。それは光を透かし青白く輝く。 「お前の身体って何でできてるんだろうな」 ほっそりした手指。腕から肘にかけてまた模様がある。記憶の大半を失ったアストラルには遊馬の問いに答えることはできないのだろう。もしアストラルが自分自身やアストラル世界とやらの記憶を取り戻したとしても、そこで酸素や炭素といった遊馬にも分かる言葉で説明されるものかは分からないけれども。 遊馬は、ほら、といっそう光に向けて手を伸ばした。 「赤いのは赤血球」 教科書で覚えたばかりの知識を披露する。 「酸素を運ぶのがこれ。酸素がたっぷり入った血は真っ赤なんだぜ」 「ふうん」 「何だよ感動しろよー、観察記録に記憶しないのかよ」 「遊馬、これは今日君が眠っていた授業中に説明されたことだ」 確かに今日は理科の授業があった。直前が水泳で、今日も25メートル息継ぎなしで泳ぐことに挑戦した遊馬は午前中の体力をそこで使い果たし、昼食前の授業はすっかり居眠りしていたのだ。 しかし、アストラルに指摘されると妙にむっとする。 「…そうかよ」 急に声のトーンが落ちる。遊馬はぷいと机に向き直ると、映像を消して宿題の画面を呼び出した。 「遊馬」 後ろからアストラルが呼んだが返事をしなかった。 アストラルはそれ以上呼ばなかった。画面に集中したせいか、宿題はすいすいと進んだ。教科書を真面目に読めば分かる内容なのだ。 画面を落とした遊馬は部屋の明かりも消して、黙って屋根裏に上った。アストラルのついてくる気配は分からないがついてきているのだろう。また少しムッとして、ハンモックに横になる直前で振り返って見てみた。しかしそこに、いつもの薄青く光る姿はない。 「…アストラル?」 床の穴から自分の部屋を見下ろすと、アストラルは床の上にぼんやり佇んで天井に向かって手をかざしていた。 「何やってんだよ」 「私は……」 しかしアストラルの言葉はそこで途切れる。遊馬はイライラとしながら言った。 「上ってこいよ」 そう言われると、アストラルは素直に遊馬の言葉に従った。特にモーションもなく、その姿はすい、と浮かび上がる。 「別に怒った訳じゃねえよ」 そう言いながら、遊馬はアストラルから目を逸らす。 「ただ、ああいう風に言われたら、自慢したの恥ずかしくなるだろ」 「恥ずかしい?」 遊馬は説明しようとして、恥ずかしいという感覚の説明は難しいと気づく。言葉を探しているとアストラルが、君は怒っているのだと思った、と言った。 「怒ってねえって」 遊馬は振り返り、アストラルを正面から見据えて、怒ってないの!と強く言った。 「…人間の感情は複雑だな」 アストラルは遊馬の正面に、いつもテレビを見るときのような格好で座った。 「君なら今の私の感情にも名前をつけられるのだろうか」 「…なに?」 「記憶を失っているということは、それが存在していたことにさえ気づかない。今、私の中では様々な存在が喪失している。私は何者なのかということも、私には微少の記憶しかない」 右京先生とのデュエルの後、アストラルは執拗に自分の名前を呼ぶように要求した。それまでは自分の名前がアストラルであることさえ曖昧な記憶だったのだ。 自分が誰なのか。 遊馬は両親の写真を振り返る。祖母がいて、父と母がいて、明里と自分を生んだ。遊馬は自分のルーツを知っている。両親の名前も。自分の名前も。そして自分の名前を呼んでくれる人は周りにたくさんいる。家族。友達。アストラルももうトンマとは呼ばない。ちゃんと遊馬と呼ぶ。 「やっぱりさびしいんじゃん、お前」 「いいや」 アストラルが即座に否定するので、遊馬はちょっと優越の混じった笑いを含んで声をかけた。 「やせ我慢するなって」 「しかし、私はもう独りではない、遊馬」 そう言われた瞬間、アストラルを独りにしていない唯一の存在が自分なのだと、遊馬の全身が反応した。血がカッと熱くなり、皮膚がざわざわと音を立てるように痺れた。 「遊馬?」 訝しげに呼ばれ遊馬は、え、と間の抜けた返事をする。 「鼻血、だ」 「え?」 細く薄青い指が口元を指さす。その時、確かに何かが流れ落ちてくるのを感じて、反射的に手を伸ばしたが、血は真っ直ぐ顎まで垂れた。 「うわ」 遊馬は顎に手をやり滴り落ちようとする血を拭うと、無意識のうちに唇を舐めた。 血の味。 「鉄の味だ…」 その時アストラルが足を崩し、ぐっと遊馬に近づいた。 遠慮がちに唇が開く。薄紫色の舌が見える。あ、こいつの舌ってこういう色だったっけ、と思う間にアストラルの舌は遊馬の唇から鼻の下を舐める、ふりをする。 実際には血は止まらず、またぽたぽたと幾滴かが落ちた。 「鉄の味?」 顔を離さず、アストラルが尋ねた。もし相手がもっと肉感的存在だったら、おそらく息のかかる距離で。 「…アストラル」 血は喉を伝って、もうおそらくTシャツの襟ぐりも汚しているはずだ。 「目、つむって」 「何故」 アストラルはいつもの見開いた目で、遊馬の目を正面から見つめる。 「目を開けていてはいけないのか?」 遊馬は鼻血で汚れた手をTシャツで拭い、相手の肩に触れようとして、もちろん無理なそれにぐっと言葉を飲み込んだ。 結局手は膝の上で拳を作り、遊馬はすぐ傍まで近づいたアストラルに向けてほんの少し身体を傾ける。そして自分の目を軽く伏せ、舌でアストラルの唇の上を舐める、ふりをした。 血がとくとくと流れて喉元が気持ち悪い。意識も少し薄くなった気分だが、瞼を開きアストラルを見ていると、驚きを表情に出した彼の瞳やわずかに開いた唇に、胸の奥には何かが満たされていくような感触を覚えた。 鼻の奥が詰まる。遊馬は咳き込み、喉の奥の血を飲み込んだ。 「大丈夫か、遊馬」 「平気」 遊馬はTシャツを脱ぐとそれで鼻を押さえながら階下に下りた。 汚れたTシャツはこっそり洗おうとしたのだが明里に見つかってしまい、また説教をくらう。 「どうしてこんなになるまで放っておくのよ。血だって落ちないんだからね!」 しかし心配してくれているのは分かったから、遊馬はおとなしく謝った。明里は思わぬ素直さに驚いたのか、頭をひとつ、強く撫でて解放してくれた。 「今日はベッドで寝なさい」 「平気だって」 「いいから」 明里は部屋までついてきたので、服を着た遊馬は仕方なくベッドに潜り込む。おやすみ、と言った明里が電気を消すと、ヘッドボードにアストラルが腰掛けているのが見えた。 「そういうとこには座れるのにな」 小さな声で遊馬は言った。アストラルはそれには返事をせず、こちらを見下ろし、おやすみ、遊馬、と優しい声で言った。 遊馬はアストラルに向かって手をかざした。暗闇の中では、手の輪郭がぼんやり見えるだけだ。遊馬はその手で目を覆い、おやすみ、と呟いた。
2011.8.10
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