When You wish upon a Star 夜が冷たい。凍てつく空に星が輝く。三つ並んだ星を目印に見つけ出すオリオン座。その側で一際輝くのがシリウス。モノレールの窓に額を押しつけ、探し出す。熱を持った肌の上に心地良い冷たさ。小鳥は首を捻り、こいぬ座のプロキオンを探そうとする。 しかし駅が近づき、高いビルが視界を邪魔した。モノレールが減速する。小鳥はバッグを持って立ち上がる。降車駅だった。 まだ慣れないアルコールがぽっぽと体温を上げる。モノレールを降りた人々はプラットホームを吹き抜ける寒風に寒そうに首をすくめたが、小鳥だけは背筋を伸ばし半ば仰向くようにして歩いた。首筋をすり抜ける風さえ心地良い。 改札を抜けると、広場の作られた駅前の空は広く、オリオン座とシリウスをたやすく見つけ出すことができる。小鳥は指を伸ばし、空をなぞる。プロキオン。ふたご座のカストルとポルックス。 いつからか夜空の星を探すのは小鳥の習慣で、星の名前も星座も随分覚えた。見慣れない星を見るとハッとする。それは飛行機の光だったり、うっかり見落としていた星だったりするのだが、小鳥は胸が高鳴るのを感じる。 名前の知らない星が現れたら、その時こそ彼が帰ってくるような気がして。 もう十年が経とうとしている。いつの間にか自分は社会人で、アルコールも嗜むようになった。先輩が二次会に誘ってくれたのをやんわり断って夜道を一人、帰宅する。集まりがつまらないわけではない、寂しくないわけでは、ない。ただ、この寂しさを埋めることのできる彼は十年前に姿を消したっきりだ。 母には帰宅の連絡を入れておいた。帰ればコーヒーを淹れていてくれるだろう。小鳥はひえてしまった指を引っ込め、歩き出す。 夜道は物騒だと言われるが、星空の下を歩いていると小鳥はいっそ安心する。彼の消えた世界に包まれているようで。星の光に溢れた世界がこの天の彼方にあるのならば、星空の下を歩く自分は彼と同じ空を共有している気がして。 だから星を目印に。プロキオン、シリウス、ベテルギウスの大三角形。ベテルギウスの角の先にアルデバラン。占星術では幸運の星だと言う。中学生の時に見た星座の本では変光星と書かれていて、当時の自分は光の変わるのをその目で見た気がした。実際には写真でもないと分からないらしいけれども。 見慣れた冬の星空。冷たい空気は澄み、街中ではあるがよく見える気がする。 歩道橋を上ると街灯の数が減って、星空が少し近くなる。空がわずかに広がる。顔を上げて、星座をなぞる。あれはぎょしゃ座のカペラ。黄色の、とても明るい星…。 不意に空が揺れた。 いや、足下が揺れたのか。 小鳥は手摺りに掴まり、もう一度空を見上げる。太陽と同じ黄色のはずの光が、赤く、赤く染まり。あれはカペラだろうか。もう一度、小鳥はオリオン座を探し出し、星を辿り直す。冬の大三角形。ジェミニ。それからカペラ。冬のダイアモンドが描かれているはず。 強い風が吹き、煽られた小鳥は思わず目を瞑った。 風の音が止む。しかし、誰かの声が聞こえる。鼻歌が。聞いたことのない旋律だが懐かしい。小鳥はおそるおそる瞼を開く。 歩道橋の中程、電灯の下に小さな人影が佇んでいた。子どもだ。こんな時間に、一人で。彼が鼻歌を歌っている。どこか懐かしい旋律を、鼻歌さえ懐かしい、声、で。 小鳥の中で時計の針が躊躇うように遅くなる。手が強く冷たい手摺りを握りしめる。 その人影を小鳥は見たことがある。何度も何度も思い描いたことがある。 跳ねた前髪、丸い顔の輪郭。手足はあんなに細かったろうか。私たちは子どもだったんだわ。だって十三歳だったんだもの、ねえ。 ねえ、遊馬。 人影がこちらを振り向く。そして小鳥の姿を認めると微笑む。しかしその目の中に光はない。口元も、頬も笑っているはずなのに、その目に輝いていたはずの光が失せている。 「よ」 鼻歌を止め、彼は短く呼びかける。 「元気だったか」 「ええ…」 元気よ。遊馬、帰ってきたの?あなたは元気なの?もうずっと一緒にいられるの? 一斉に溢れ出そうとした言葉は喉の奥でつかえる。細い喉を飛び出すには言葉の数が多すぎる。 「この未来はちゃんと続いてるんだな。知ってたよ。分かってたけど、この目で見てみたかった。小鳥、おめでとう」 「な、なに…?」 「十四歳の誕生日も、十五歳の誕生日も、十六歳の誕生日も、十七歳の誕生日も、十八歳の誕生日も、十九歳の誕生日も、はたちの誕生日も、二十一歳の誕生日も、二十二歳の誕生日も、二十三歳の誕生日も、それから、これからお前が迎える全部の誕生日にさ。それから就職祝い、結婚祝い、出産祝い、お前の人生の全て」 「あ、ありがとう」 遊馬、どうして子どもの姿のままなの。どうして未来のことなんか祝うの。まるであなたはその未来のどこにもいないみたい。 「遊馬っ」 小鳥は走りだそうとして転んだ。ヒールが折れていた。ついた膝が擦りむけたらしい。痛い。 「おいおい、大丈夫か。あんまり心配かけんなよ」 遊馬は相変わらず光のない瞳で笑う。 「心配…して。一緒にいてよ。心配してよ、遊馬」 「我が儘言うなよ、もう大人なんだろ、小鳥」 遊馬は街灯の光の下から、小鳥の目の前まで歩いてくる。 なつかしい、かつての遊馬。いつもの遊馬。十三歳の遊馬。 「オレより大人じゃん」 「遊馬…」 遊馬は手を差し伸べない。小鳥に触れようとしない。微笑みは穏やかなのに、光のない瞳が寂しささえ窺えない虚ろで。 小鳥の中で口に出されることのなかった言葉たちが溶け、涙となって溢れてくる。遊馬が困った顔をする、それさえ滲む。 泣くなよ、小鳥。と遊馬は囁く。 「オレはいつだってお前のことを見てるんだぜ。お前が死ぬまで見てるし、全部知ってる。お前がセクハラって言って怒るようなことも全部」 「…バカ」 「泣いたら、笑ってくれよ小鳥」 行かないで…、と千切れてしまいそうな声を絞り出す。しかし遊馬は背を向け、ごめんさえ言わなかった。 「遊馬!」 小鳥はその背中を呼ぶ。涙に滲んでしまう背中を目に焼きつける。 行かないで、と叫んだ。十年前も。行かないで。みんなと一緒にいようよ。どうしてそんな遠いところに行くの。どうして遊馬だけ行かなきゃいけないの! 遊馬はちっとも迷わなかったから、躊躇いもせずその身を海のような夜空へ投げだそうとしたから、思わず叫ばずにはいられなかった。叫び、引き留めなければ、二度と帰ってこないような気がして。 しかし二十三歳の小鳥はそれらの叫びを記憶と共に飲み込む。 遊馬。もう二度と会えないかもしれないと思っていた。だから、星に願いを。歌のように、空に輝く星に願いをかけた。遊馬、本当なの?いつでも私を見ているって本当?死ぬまで見守ってくれるの?約束よ…、いいえきっと遊馬は嘘を吐かない。 「遊馬、好きよ!」 遠ざかる背中に小鳥は叫ぶ。 「大好き!」 空から風が吹く。冷たい風が涙に濡れた瞳を凍えさせ、小鳥は目を瞑ってしまう。胸の中で遊馬の名前を呼び続けながら。 次に風の音が止んだ時、歩道橋に人の姿はなかった。それが当然であるかのように、街灯は白々とした光を投げかける。 小鳥はすっかり冷たくなった身体を起こした。膝は擦りむけ、ストッキングに穴が空いていた。小鳥はスーツの埃を払ったが、しかし歩き出すための一歩を踏み出すのにほんの少し時間をかけた。 心の中で溶けた言葉が涙になって全部溢れてしまうまで、しばし佇み泣き続けた。化粧が崩れるのも気にならないほど。こんなに泣くのは子どもの時以来だと思った。 涙が止まると、目の前で起こった出来事が夢のようでぼうっとし、もう少し佇んだ。街灯の下に人影はない。鼻歌も聞こえない。あの旋律はなんだったのだろう。聞いたことはないのに、懐かしい。 空を見上げると、オリオンの三つ並んだ星をすぐに見つけ出すことができた。リゲル、シリウス、プロキオン…、小さな声で小鳥は呟く。歩きだそうとして、またよろめいた。ヒールが折れたことを忘れていたのだ。 歩道橋を下り、タクシーを拾った。もう窓の外の星を見なかった。疲れたように、瞼を伏せた。 家に帰ると母が腫れた瞼を見とがめる。小鳥はコーヒーだけをもらって、早々に部屋に引っ込んだ。 机の上のフォトスタンドには十三歳の時の写真。遊馬と、自分と、鉄男、それに引っ張り込まれるように委員長。フレームの左下に隠れそうになっている徳之助。一番後ろにこっそり映っているキャッシー。夜目にも分かる、懐かしい日々。 小鳥は机の明かりを点けた。 写真の中の遊馬の笑顔は屈託がなくて、瞳が光り輝いている。 小鳥はDゲイザーを取り出し、誰かに電話をしようとした。誰か、誰かに。 遊馬の話をしたかった。遊馬に会ったわ。遊馬は元気よ。遊馬は今でも…。いいや、何と言えばいいのだろう。十三歳の遊馬を見たと言葉にした瞬間、それは疑わしい事実と化してしまいそうで怖かった。 崩れるように椅子に腰掛け、机に突っ伏す。また涙が溢れそうだったが、さっき全部流してしまったばかりだ。遊馬の背中を思い出した。そして初めての自分の告白を思い出した。 まるで子どものようだ。十三歳の中学生の告白のようだった。 小鳥は顔を上げ、コーヒーを一口飲んだ。喉の奥からあたたかい息がこぼれる。微笑みを一つ浮かべた。それはフォトスタンドに反射した。Dゲイザーで鉄男のコードを呼び出す。彼は、こんな時間にどうしたんだ、と驚いたように言った。 「思い出話をしたくなったの、付き合って」 遊馬の話よ、鉄男くん。 小鳥は囁く。 「遊馬の話をしましょう」 十三歳の彼の話を。光り輝く笑顔を浮かべていた彼の話を。 小鳥は頬杖をつき、窓から射す星明かりを眺める。 この思い出話も空から聞いているのかしら、遊馬。 微笑み、小鳥は鉄男の話に耳を傾けた。
2012.1.5 跳ね箸さんのツイートにインスパイアされました
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