2nd kind




 夜明けの空に浮かぶ月は白く、まるで骨のようだ。
 凌牙はひとけのない街を歩きながら、ビルの谷間から見上げた空に欠けた月を見た。月はビルのガラスの壁面にも映り、だまし絵のような風景を創り出す。暗さを残した空を背景に、明るくなりかけたビルの中の夜明け。骨の色をした月。
 骨、を。
 凌牙は人体から飛び出た骨を見たことがある。他にも思い出す。廃屋となったゲームセンターの床に落ちていたチキンの骨。乾いた白。オボットもやって来ない地下で、死んでいったネズミの骨。コンクリートで固められた部屋にプラスチックと金属のゴミ、食べるものなどなかったのだろう。細く鉤のように曲がった肋。
 月は骨の色だ。生き物などいない。砂と石が太陽の光を反射する、アルベドは7%。
 一足早い冬の匂いが風とともにビルの谷間を吹き抜ける。残された夜空もビルに映った夜明けも、また月の光も冴え冴えとして白々しい。人恋しい季節が来れば、凌牙はまた自分の孤独を思い出す。
 思い出すほどには、忘れるようになっている。
 孤独でない時間が増えるほど、それは凌牙にとってむず痒く、嬉しいと思う感情さえ殺そうとしたが彼を相手には無理だった。九十九遊馬は自分の心を看破してしまう。それと意識していなくとも、隅々まで照らしてしまう。それを反射した自分が笑みを浮かべていることは、ビルの壁面に映った表情からも窺い知れる。
 昨夜は泊まっていけばいいと言われた。遊馬からも、彼の家族からも。しかし辞したのは、笑みを浮かべるようになった自分の心が、遊馬の傍にいれば更にどれだけ溶けてしまうか分からなかったし、それは今の凌牙の手に余る感情だった。夜遅くまで一つ屋根の下にいて言葉を交わし、笑い、カードを持つ手などが時々触れてこの胸の内部に得た熱を、凌牙はしっかり抱いて外へ出た。
 街をあてどもなく歩きながら、言葉を笑みを反芻した。熱は冷める事がなかった。夜が明けても。
 オレのアルベドは何パーセントだろう。遊馬の光は反射できない。オレはそれを吸い込んでしまう。月の7%はちょうどいいような気がした。骨の色の月。しかし不吉ではない。オレの身体の中にもある、オレを構成する骨の色だ。
 剥き出しの骨が吹かれるような、目の覚める冷たい風だった。強く吹くそれは凌牙の上着をはためかせた。強い風の中で凌牙は目を細める。こんな朝も、冷たい風も悪くない。オレの胸の中には太陽のような熱が生きているから。風が冷たいほど、オレはその熱さを感じる。それが消えないことを知る。
 風の音が薄くなる。遠くから順に風の止むのを感じる。冬の初めの匂いは凌牙の鼻先をすり抜けて消える。
 とうとう風が止んだ。
 風が運んできたかのような薄紫色の空が一面に広がる。ビルの壁面にも映り込む。
 月が滲んでいる。
 まるで濡れているかのように、見える。
 ふわりと耳元をなにかで覆われた気がした。音が聞こえなくなった訳ではない。景色が一斉に音に包まれたのだった。雨音だ。
 夜明けの空から雨が降る。雲の姿はない。月さえ見える薄紫色の空から街に向かって雨が降る。
 柔らかな雨音だった。さっきまで吹きつけていた風に比べ、それはあたたかくさえ感じた。実際、凍えてしまった凌牙の鼻先を濡らす雨粒は優しい。
 服が濡れ、肌にも雨を感じる。もうすぐ冬だというのに春雨のような優しい雨だ。命でも育むかのように降っている。濡れた景色は、コンクリートとガラスの街角を淡い色彩に変える。雨の向こうに夜明けの空、滲んだ月。
 遊馬もこの景色を見ているだろうか。しかし昨夜は遅くまで話していたから、まだ寝ているかもしれない。
 電話をして起こそうか。
 一瞬、そんなことを考えてしまう。らしくない。凌牙は濡れたガラスに映る自分の顔を見る。微笑みは照れくさかった。彼は急ぎもせず歩き出した。
 今日は学校に行く。行けば授業中は安心して寝ていられる。胸の熱に一晩眠らなくても平気だった分、少し仮眠を取ろうと思った。それに学校に行けば、また遊馬に会えるだろう。あいつは今日もオレを誘ってくるだろうか。乗ってやるのも、やぶさかではない。
 雨に濡れながら凌牙は学校への道を向かう。
 途中、腹ごしらえをしようと二十四時間営業のファーストフード店の前に立ったが、自動ドアが開かなかった。仕方ない、学校でコーヒーでも買えばいい。
 雨は降り続いている。そのせいかいつまで経っても夜が明けた気がしない。視界はぼんやりと明るく、滲んでいる。
 やがて道路を車が走り出し、通りに人が姿を現す。皆、この程度の雨と思うのか、傘も差さず急ぎもしない。凌牙はもう濡れてしまったから今更だと思うが、背広姿のサラリーマンさえそれを気にしていないようだった。
 モノレールの駅を通り過ぎ、周囲には次第に制服姿が増える。歩道橋を渡りきったところで、車道を挟んだ向こうに遊馬の姿を見つけた。遊馬もやはり傘をさしていない。あいつならばそうだろう、と思う。そういう奴だ。
 凌牙は立ち止まり、遊馬が歩道橋を渡ってくるのを待つ。遊馬は階段を一段飛ばしに駆け上がる。
 もうすぐだ。
 下りる時は段を飛ばさない分、駆け足で下りて、最後の数段はジャンプ。
 そして凌牙の目の前に着地し。
 通り過ぎる。
「……遊馬!」
 凌牙は声を上げた。しかし遊馬は振り返らない。そのまま走っていってしまう。
 それを追いかける遊馬の同級生、一度デュエルをしたデブ、幼なじみらしい少女、それからWDCで見かけた何人かも自分を無視して走り去ってゆく。
「遊馬!」
 叫び、手を伸ばし、そして凌牙は気づく。
 雨は自分の腕を打つ。しかし走り去っていったその誰も、肩先さえ濡れていない。
「遊馬……」
 おそらくこの声は届いていない…、そんな予感を認めたくない、凌牙はもう一度大声で遊馬の名を呼んだが遊馬は一度も振り返ることなく、通りの向こうに消えてしまう。
 雨が凌牙を、景色を打つ。優しく、柔らかく。
 凌牙は自分の両手を見つめた。恐怖の表情を必死で覆い隠し、目を見開く。その大きく開いた瞳で見上げた空はすっかり朝の色をしている。それなのにビルの壁面に映るそれはいつまでも薄紫色で、月が先ほどと変わらない位置に浮かんでいる。
 倒れてなるか、と思う。後ずさり、歩道橋の階段につまずく。転びそうなところを、手摺りを掴んで支える。この手摺りは確かに濡れているのに!
 恐怖が全身を覆い、胸の中にまで這入り込もうと冷たく忍び寄る。
「遊馬…」
 凌牙は名前を呼ぶ。胸の中で一瞬、燃え上がるような熱。
「ゆう…ま……」
 そう呼ぶ胸も心も優しく包み込むように、雨の温度は凌牙の胸を満たす。
 凌牙は気を失う。しかし気を失った先に見える色もやはり薄紫色で、その中に燃える水色の太陽に呑み込まれそうになる。気を失ったはずの自分がまた瞼を閉じる。薄紫色の空を落ちる。雨は水色をしている。地上に遊馬の姿が見える。そこへ向かって、落ちる、落ちる、落ちる。
 頭蓋骨が道路の上で硬い音を立てる。
 凌牙は目を覚ましたのかどうか自信が持てない。何故ならうっすら広がる視界は相変わらず滲んでいるし、自分の身体は濡れている。凌牙は耳を塞いだ。これで雨音が聞こえたらオレはもう一度繰り返すんだろう、いや何度でも繰り返す。遊馬に手を伸ばそうとして。
 塞いだ耳の向こうで救急車のサイレンが聞こえた。自分を迎えに来てくれたのだといいが、本当にこれが悪夢の終点なのだろうか。それにこれはどこからが悪夢なのだ。冷たいベッドで見ている夢か、それともオレは遊馬の家に泊まったのか。雨に打たれ、雨のように落ちて道路に倒れているのだろうか。
 視界は滲んでいて、解らなかったのだ。
 サイレンの音が近づく。耳を聾する。あまりの五月蠅さに、凌牙は意識を手放す。
 瞼の裏に見える色は……。






2012.1.3 跳ね箸さんへ