マイ・オンリー・クリスマス




 波の音が聞こえる。一方からだけではない。右からも左からも聞こえてくる。
 まるで陶器のように白い建物が坂に沿って建ち並んでいる。事実、産地であり路地の階段には染め付けされたツボが並んでいる。割れているものもあるから、売り物なのかは分からない。それらを見下ろす、一際高台の見晴らしの良い建物の、一つだけ窓の開いた部屋があった。
 ベッドに横になった遊馬は、瞼を閉じてはいたが眠ってはいなかった。煽り立てるでなく自分の身体を撫で回す触手に身を任せ、あとは波の音を聞いている。
 エーゲ海の、この島にやって来たのは三日前。デュエルはしていない。いつもならこんな小さな島、デュエルをして焼き尽くして、終わり。のはず。しかし遊馬はデュエルをしなかった。この島にデュエリストがいなかったわけでもない。しかし身分を隠して、普通の人間のふりをしてまで、遊馬はデュエルをしなかった。ナンバーズ96は最初の日こそ不満を隠さず、遊馬にさえ襲いかかろうとしたが、三日目の今日はもう諦めたのか慣れてしまったのか、遊馬と一緒にベッドに横になり触手でその身体を撫でている。
 遊馬がこういう気分になったのは日付に関係があるらしい。今日は12月25日だ。部屋にかけられたカレンダーの文字もわざわざ赤く書かれている。遠い昔、一人の男が生まれ神と等しい存在になったのだそうだ。その生誕の日を忘れないようにと、人間たちは毎年この日を祝祭にあてている。だが遊馬は別にその神を信じてはいない。かつてはどうであれ、今の遊馬に信じる神など存在しない。それなのに、何故。
「…充実してる」
 ぽつり、と遊馬が呟いた。
 首筋を撫でていた触手を優しく手に取り、キスをする。それから胸に抱きしめ、またうとうととしかけた。
「遊馬?」
 ナンバーズ96は尋ねる。
「この状況のどこが充実しているというのだ」
「お前がいるからだよ」
「オレはいつもお前の傍にいる」
「そりゃそうだけどさ」
 瞼が開き、細められた赤い瞳が流すようにナンバーズ96を見た。
「今日はクリスマスっていうんだよ」
「そうらしいな」
「クリスマスって言えば、もみの木に飾り付け、雪が降って、チキンとケーキを食べて、子どもはプレゼントをもらって、そんなありきたりな幸せが世界中の窓の向こうに何万とあるんだ。似たような光景が」
 で、オレはオレのほしいものを考えたんだよ、と遊馬は呟く。
「…欲しいものがあるのか」
「あるって言えばあった。でもなかった。オレは世界中に何万ってあるそんな幸せ別にほしくなかった。お前がいて、デュエルして…、でもそれっていつものことだからさ、今更特別ほしいものでもなかったし」
 だから欲しがったことのないものが欲しかった。
 囁き、遊馬はゆっくりとまばたきをする。瞼の隠した瞳は、今は開いた窓の外を見ていた。穏やかな午後の光。白い屋根屋根の向こうには明るい青に輝くエーゲ海が広がっている。
「クリスマスをこんな場所で、クリスマスなんか関係ないものに囲まれて…。ケーキもプレゼントも欲しくない。用意しようなんて思うなよ。特別なことなんか何もしなくて、オレはお前と寝て過ごそうって思った。決めたんだ」
 遊馬は典型的なクリスマス像を語ってもナンバーズ96は別段プレゼントとやらを用意するつもりはなかった。しかし、するなと言われるとそれに逆らいたくなる。
「贈り物を、欲しいとは思わないのか。遊馬」
「そんなもの、ない方がいい」
 遊馬は眠りに落ちる。三日前から寝てばかりいる。リズムは完全に狂ってしまっていた。一日に十時間も二十時間も平気で寝ている。
 ふうん、と息を吐き、ナンバーズ96は考え込んだ。

 目の前にたくさんの箱がある。カラフルな包み紙、派手なリボン。プレゼントだ。遊馬はこれが夢だと分かっている。そして自分がまさかこんな夢を見るなんて、と思う。オレは本当はプレゼントなんかを欲しがっているのだろうか。
 エーゲ海に浮かぶたくさんのプレゼント。遊馬は試しに一つのリボンを引っ張る。するするとリボンがほどけ、箱の蓋が開く。それは四方に解体し、中からは白い霧が生まれる。それはエーゲ海の景色を少しだけ隠す。
 遊馬は次から次へと箱を開けた。白い霧が湧き出しては景色を隠した。もう遊馬の周りは真っ白だった。それは霧というより、もう白いペンキで世界中塗りつぶされたかのようだった。
「96…」
 呟き、遊馬は足下を見る。影さえない。
 何もない。何も欲しくなかったから。でも、この景色は、この世界は何だか…。
 目を覚ました。
 はずだった。しかし相変わらず目の前は真っ白だ。いや、視界の端に走るノイズ。これは。
 遊馬は左手を持ち上げる。こめかみを撫でるとDゲイザーが触った。
 ARビジョン?
 白い空間に裂け目が生まれ、マトリクスの緑色の光が溢れ出す。それは凝り固まり黒く染まった姿に変わる。
「96」
「驚いたか、遊馬」
 ナンバーズ96が手を滑らせると、そこに景色が生まれる。真っ赤に燃える海、赤い陽炎を立ち昇らせる街。燃えている、何もかも。
「お前が望んだ世界だ。さあ、26日まで寝て過ごすか?」
 遊馬が舌打ちすると、滝のように景色が流れ落ちる。マトリクスの欠片が緑色の光を散らして消えた後、遊馬の目の前に広がっていた景色は、やはり赤く燃える風景だった。
 夕焼けの空、夕焼けの海。真っ白な建物の群れる街は、落日に照らされ赤く染まっている。街のどこかで流れるラジオが世界のクリスマスの様子を告げている。12月25日、午後5時をお伝えします…。
「…騙したな」
「なにも?」
 睨みつける遊馬に、ナンバーズ96は珍しく微笑みに近い笑みを返した。遊馬は怒ったようにナンバーズ96の身体を抱き寄せる。言いたいことはあったし、その胸を叩いてもやりたかったが…。
「明日だ」
 遊馬は呟いた。
「明日はデュエルする」
「オレは街を破壊する」
「わざと負けてやろうか」
 意地悪く笑って見せると、ナンバーズ96は驚いたように目を丸くした。
「お前が負けるなど、わざとでもあり得ないだろう、遊馬」
「どうだかな」
 思わせぶりに呟いてやり、寝たふりをする。触手が巻きついて、起きろ、嘘だろう、負けるなど許さないぞと五月蠅く言うのをキスで黙らせてやろうかとも思ったが、今日はそんなクリスマスにありがちなことはしてやらないと決めたのだ。
 遊馬は触手にキスをする。そしてそれを抱きしめる。坂に沿って建ち並ぶ白い建物に反響して、四方から波音が押し寄せる。眠るふりは、やがて穏やかな本当の眠りになる。今度は落ち着く暗い闇に落ちる眠りで、遊馬は少しホッとした。






2011.12.25 ニナさんへ