クリスマス・キャトル

ミューティレーション




 国道は別名をエル・カミノ・リアルと言って、それが王の道という意味だと知ったのはモーテルにチェックインした時だった。フロントはアジアかぶれの装飾がクリスマスの飾り付けに埋もれていて、堂々とした「王の道」の書が金色のモールに飾られているのを見た時、遊馬は吹き出したものだ。そして自分が旅する途上としては相応しい、というささやかな優越の笑みは胸にそっと隠した。
 軋む安いベッドに身体を横たえる。提げていたリュックが手から離れ床の上でどさりと音を立てた。とても静かだった。安宿だ。隣の部屋のテレビや、日が日でもあるからアレな声でも聞こえてきやしないかと思っていたが、全くそんなことはない。モーテルの周囲には何もない。それそのままの静寂が部屋を満たしている。
 一人旅を続けてもうどれくらいになるだろう。九十九遊馬という名前を捨てて、人の形をしながら人ならざる存在として世界を彷徨い続ける遊馬にとって孤独は親しい友だが、それでもこんな夜は細胞や記憶の端に残った思い出が寂しさを募らせる。今日はクリスマスだ。
 乾いたベッドのシーツに遊馬は手を滑らせる。衣擦れの音にホッとする。
「クリスマスケーキ」
 呪文のように呟く。
「チキン」
 諦めまじりの微笑みが浮かんだ。もう少し街に留まればよかった。そうすればケーキだって買えたろうに。今いるのは荒れ地に挟まれた幹線道路脇のモーテル。クリスマスは、遠い。
 せめてテレビでも点けようかと思ったが、リモコンに手を伸ばすのも憂い。スイッチに向かって足を伸ばしたが届かなかった。諦めて大の字になる。
『遊馬』
 声は天井から降った。遊馬はうとうとしかけた瞼を開く。
『遊馬』
 起き上がり、ブラインドの隙間から外を見た。アストラルの声だった。今やアストラルはこの世の遍くに在り、常に遊馬と共に在る。その姿を現す時、彼はよく雨という手段を取った。しかし雨音はしなかった。その代わり、窓の外に見えたのは雪だった。荒野に降る雪は青白く光っている。
『こっちだ』
 今度の声は背後から聞こえた。振り向くが、そこには誰もいない。遊馬は狭い部屋を横切り、ドアを開いた。
 ドアの向こうは浴室だった。明かりを点けていないのに浴室はぼんやりと明るい。バスタブの中身が発光している。遊馬はその傍らに膝をつき、よお、と声をかけた。
「久しぶりだなアストラル」
 すると水面が盛り上がり、そこに美しい顔が浮かび上がる。瞼が開き、金色の瞳が遊馬を見上げる。
『私は常に君と在る、遊馬』
「ああ、そうだったな」
『浮かない顔をしているようだが』
「そうか?」
『君の心は手に取るように分かる。寂しいのかね』
 お前がいるのに、と呟いて遊馬はバスタブの縁に頬杖をついた。
『世間はクリスマスらしいな』
「すっかり忘れてたけどな」
『なにか欲しいものはないか?』
 なんだそれ、と遊馬は笑う。
「プレゼントでもくれるの? お前が?」
『君は何でも望みが叶うのに、その力を行使しようとしない。だから私が君の願いを叶えて上げよう』
「そして今度はオレからなにを持っていくんだ?」
『私から君へのプレゼントだ。代償は必要としない』
 遊馬はちょっと考え込み、溜息をついた。
 かつて力を手に入れるために代償を支払った。取引の原則は遊馬の身体に染みついている。今では遊馬も、ただより高いものはないという諺に深く頷く者である。
 が、アストラルが嘘を吐かないことも知っていた。大切なことを喋らないことはある、けれどもアストラルは基本的に遊馬を気に入っていて、それは感情という振れ幅をなくした偏在する存在となった今でもそうなのだ。
 そうだな、と呟きながら遊馬の顔には寂しさが覗いた。
「会いたい」
『誰に?』
「シャーク」
 懐かしい名前を口に出し、遊馬の表情はくしゃりと笑む。
「会いたきゃ電話もできるんだけど、でも昔みたいにシャークが隣にいてシャークと喋って…二人で喋りながら過ごせたら、オレ、クリスマスケーキだっていらねえのに」
 分かってる、叶わない願いだってことくらい、とすぐに遊馬は付け足した。
『…シャークを旅の伴侶にしたいのか?』
「別にお前との旅が不満だってんじゃないぜ」
『遊馬。私が君の望みを聞くのは初めてのことだ』
 アストラルの顔は水に溶け、バスタブの光は消える。
 真っ暗になった浴室で遊馬は水面に向かって溜息を吐きかけ、立ち上がった。靴を脱ぎ、今度こそベッドに潜って眠ろうと思った。狭いモーテルの部屋、乾いたシーツ。久しぶりにアストラルの顔を見て喋った。悪くない。
 靴を脱ぎ捨て、冷たい床に足をついた、その時だった。
 ブザーが鳴った。部屋のブザーだ。入口のドアの向こうに誰かいる。遊馬は訝る。よっぽど必要でない限り、人の目は遊馬の姿を捉えない。見ながらも見えていない。フロント係だって今頃はもう遊馬のことなどすっかり忘れているはずなのだ。
 覗き窓に顔を近づけた。魚眼レンズの視界は薄暗いモーテルの廊下、くすんだ壁紙。
 シャーク。
 遊馬は確かめもせず、物凄い勢いでドアを開ける。確かめる必要などない。そこにいれば遊馬には分かるのだ。この肌が覚えているシャークの気配、匂い、体温、全てに合致していた。シャークだ。遺伝子の一つまで間違えようもなくシャークだ。
「シャーク…!」
 目の前の彼は扉を開けた遊馬の姿を捉え、微笑む。
「久しぶりだな、遊馬」
 声もなく抱きしめた。もう一度シャークと呼んだが、それはシャークの胸に抱き寄せられくぐもった呻きになる。抱きしめれば尚のこと確信は深まる。遊馬の身体も触れた片っ端からそれを実感する。本当にシャークがいる!
 ようやく抱擁を解き、シャークが言う。
「一人旅で退屈してんだって?」
「ああ、それがなんかさ、ケーキもチキンもなくて…」
「しょうがねえやつだな、お前は」
 仕方ねえから付き合ってやるよ、と笑いながら言う。その声は遊馬に心地良い。自然と笑みがこぼれてくる。だよな、しょうがねえよな、と言いながら遊馬は笑う。
 シャークに促され部屋に入り、その夜はいつまでも話をした。この身体になってからは滅多にない、疲れて眠る体験までした。眠る時もシャークは隣にいた。こんな時アメリカのベッドはサイズが大きいからいい。遊馬はお喋りを続けているつもりでシャークの服を掴む。シャークは眠らない。
 外は雪が積もり、荒野を青白く染めていた。
 降り積もる雪は荒野に横たわり、雪に埋もれつつある人間の肉体を見下ろしていた。死体、だ。全身の血は抜き取られ、瞳と内臓が抉り取られている。組成するために必要だったからだ。シャークの形をもったものを作るため。
 アストラルは降り積もる雪になってその死体を隠しながら思う。むしろこれでよかったのだ。遊馬の旅に、普通の神経、普通の肉体を持った人間ではパートナーは務まらない。しかしあの「シャーク」ならきっと遊馬の望みを叶えるだろう。
 人間は全く、脆い。
 死体がニュースになる頃、遊馬はもう次の国を旅している。アストラルだけではない、伴侶を得て遊馬の旅は好調だ。年を越す頃はアメリカ大陸を経ち、北極に至っていた。






2011.12.25 跳ね箸さんへ